2.聖女の暮らし
「掟なき癒しは、神に背く行い。奇跡の私用は重罪である」
ソフィア・ルミエールへの判決は厳しかった。
矯正院での二年の労働。
そして、再犯防止のための“封印契約”――癒しの魔法に強制的に制限をかける、神官印の刻印。
ソフィアは黙って受け入れた。掟に従うことを誓わなければ、矯正院を出ることは叶わない。
彼女には選択肢がなかった。
☆
やがて、かつて孤児たちと暮らしていた山裾の小屋に戻ることが許された。
子どもたちはすでに神殿の指示で遠方の保護施設へ送られており、今はそこに誰も残っていなかった。
風と静寂だけが寄り添う、小さな場所だった。
癒しを行おうとすると腕が痛み、“それは悪いことです”という封印契約の言葉が耳の奥に自動的に響いた。
誰かの苦しみを見ても、動こうとする気持ちに重しがかけられているようだった。
解放されたソフィアには、自分に何が残っているのか、もうわからなかった。
けれど、それはある朝の出会いで崩れた。
雨の降る橋の下に、ひとりうずくまる少年がいた。痩せこけた身体に、泥にまみれた頬。
少年は言葉も出せずに、怯えた目でこちらを見ていた。髪はぼさぼさで、顔立ちも痩せすぎていてよくわからなかった。
けれど、その目だけが、どこにも居場所がないことを語っていた。
ソフィアは彼に何かを聞くこともなく、そっと自分の上着を肩にかけた。
そのとき、少年の腕に傷があることに気がついた。深くはないが、化膿しかけている。
――もう、しないと決めたはずだった。
けれど。
「ごめんね……少し、痛いかもしれないよ」
ソフィアは周囲を見渡し、誰の目もないことを確かめると、意思を強くしてかすかな癒しの奇跡を使った。
痛みをやわらげ、傷の熱を鎮める。
術を終えたとき、契約の刻印が激しい熱を持ち、ソフィアは顔をしかめた。
少年がそっと口をひらいた。
「……ありがとう」
それが、彼が初めて口にした言葉だった。
「名前は?」
尋ねると、少年はしばらく黙ったあと、小さく首を横に振った。
自分の名前を知らないのか、答えたくないのか、ソフィアにはわからなかった。
「そう。じゃあ……レオっていうのはどう?」
少年が、初めてまっすぐにソフィアを見た。
「嫌だったら、あとで変えてもいいからね」
少年はしばらく考えてから、ほんの少しだけ頷いた。
☆
ソフィアはレオを家に連れて帰った。
見つからないように神官印は布で隠し、術を使うときは慎重に。
ふたりの、ひっそりとした暮らしが始まった。
レオは人の目をまっすぐに見られない子だった。くすんだ栗色の髪はまだ手入れが行き届かず、伸び放題だった。
けれど少しずつ整えられ、顔にも血色が戻りはじめた。
ソフィアは彼に、毎日少しずつ語りかけた。
「大丈夫。ここでは怒鳴る人も、叩く人もいないよ」
「大丈夫。あなたは、愛されていい」
レオは少しずつ笑うようになっていった。
夜はふたりで布団を分けて眠り、朝は小さな畑を耕した。
ときどき、パンも焼いた。焦がしてしまって笑い合ったことも、一度や二度ではなかった。
「このまま、静かに暮らしていけたらいいな」
ソフィアは毎晩そう祈ってから、眠りについた。
だが、世の中は彼女たちを静かに暮らさせてはくれなかった。
戒律騎士団――かつて彼女を裁いた騎士が、再び動き出していた。
テオドール・モレル。
神殿が、封印契約を施された者による癒しの魔法の痕跡を捉えたのだ。
☆
本来ならば、部下をひとり向かわせれば済む程度の案件だった。
ましてソフィアは封印を破ったわけではなく、ごくわずかな力を使ったにすぎない。
それでもテオドールは、自ら追跡を引き受けた。
再犯者を放置するわけにはいかない。それだけのことだと、彼自身は考えていた。
釈放後の記録を調べ、残された癒しの術の痕跡を辿り、彼女の居場所をひとつずつ絞り込んでいく。
その間にも、二年前に投げかけられた問いが、ときおり記憶の底から浮かび上がった。
――誰かを助けたいと思ったこと、あなたにはないの?
テオドールは、そのたびに考えるのをやめた。
ある日、ソフィアは街の裏路地で見覚えのある影を見つけた。あの鉄の瞳。あの歩き方。
「……来たのね」
ソフィアはレオの手を取り、その夜のうちに荷をまとめた。
逃げることしかできない。けれど、今度は守るものがある。
この子がいる限り、自分は止まれない。
夜のうちに馬車に乗り、また別の町へと姿を隠す。
――けれど、胸の奥ではもう知っていた。
彼は、きっと追ってくる。
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