気づかせないでよ、と。
惹かれていく心は君と。
律野くんに気配がないのは、音を立てないから。
いろんなものを優しく扱うから音が立たない。
誰にもうるさい音量で話さないから、波紋のように穏やかな声音になる。
不必要な言葉を話さないから、隣にいると安心する。
私の中の律野くんはそんな人だ。
机に押し付けた頬がひんやりとする。
窓辺から夏の夜の澄んだ風が教室に入ってくる。
肌を撫ででいくそれはとても心地よかった。
「南さん」
その風と同じ透明度で律野くんが机にうつぶせたままの私を呼ぶ。
「南さん」
なんだか応えたくなくて寝たふりをした。
いまはまるで夢をみているようで、応えてしまったらその夢が覚めてしまいそうで規則正しい呼吸だけを続ける。
「南さん」
呼ぶだけのその声にもどかしさと、何かが胸を埋める。
夏の気配が虫の音で耳朶に触れる。
律野くんが笑った気がした。
「本当は気づいてますよね。僕の声でもこの至近距離で聞こえないことはないです。それに寝たふりも下手です」
下手、という言葉に少しだけむっとしてそのまま寝たふりを続けた。
黙り込む私に律野くんは困るだろうかと、いたずらっ子のように内心でくすくすと笑う。
ふいに髪に何かが触れた。
どきりとしつつ、寝たふりを解くわけにもいかずそのまま動かないことを選択する。
律野くんが優しく私の頭を撫で始める。
もどかしいくらいに、まるで壊れものを扱うように寝たふりをする私の髪に指を滑らせている。
早くなる心音とはうらはらに安堵の気持ちが広がるのはきっと律野くんが律野くんだからだ。
しばらく時間がそうして停滞して、やがて律野くんの手が離れていく。
私はそこでやっと今起きました、という風に顔を上げた。
律野くんがペンケースを鞄にしまいながら言う。
「おはようございます、南さん。そろそろ帰りましょうか」
「うん」
きっと律野くんは私が寝たふりをしてたのもちゃんと知っている。
なら、律野くんはさっき何を考えていたのか。
自分の顔が微かに色づくのは何を思ったからなのか。
二人で帰り支度をして教室を後にしようとすると、律野くんがふいに振り返る。
「本当は気づいてますよね」
さっきと同じ言葉のはずなのに心を見透かされたような気がして、無意識に顔が熱くなる。
その時、律野くんがふわりと笑った。
いままで見たこともない陽だまりに微笑むみたいな笑み。
「いまはそれで十分ですから」
その柔らかな眼差しに私はさっき思い描いてしまったことを完全否定できなくなる。
私は律野くんが、律野くんは私が。
律野くんが踵を返して、私は赤くなった頬を押さえる。
「気づかせたのは律野くんだよ……ばか」
こんなにくっきり刻まれたらどこにいても例え気配が薄いと言ってもすぐに律野くんの姿を見つけてしまう、と私はおしるこを飲みながら不貞腐れた。
なんだか癪だから数学の追試で満点をとって見直させてやる、と私は一人そう心に決めた。
それでそしたら夏休みにまた勉強を教えてもらおう。
あと、それまでには少しは素直になれているといい。
「待ってよ、律野くん」
次々とあふれる心に今だけは蓋をして、私は律野くんの背中を追いかけた。
影薄の彼のセリフ
5.本当は気づいてますよね




