月の瞳と繋いだ手。
叶わない夢を見た。
君と俺が笑い合う、そんな未来。
風のように裏路地を駆けていく。
腕に抱いた紙袋に目を落として、微かに口元が笑った。
隣を走るロアが目敏くそれを目に留める。
「ファージ、何がそんなに愉快なんだ?」
「別に愉快でもない。ただこれがやっと手に入ったからな」
狭い道を並走する相手にそう返事をする。
積み重ねられた木箱を乗り越えて、ひた走る。
妙に心が浮足立っているから、もしかしたら本当に愉快なのかもしれない。
「悪い、ロア。確かに愉快かもしれない」
「そうだろう。今日のファージは楽しそうだぞ」
「とりあえずこの楽しさを維持するために、あいつら撒くか」
後ろから追い掛けてくる騒々しい足音に、ちらっと目を向ける。
ロアも足を止めずにそれを確認して頷いた。
「あぁ、了解した」
そして、俺とロアは追っ手を振り切るためにスピードを上げた。
「こんなことをして何になるんだ!」
その声は空き地から聞こえた。
かじりかけの林檎を片手に、俺は内心首を捻った。
聞き覚えのないソプラノだった。
この地帯の奴なら知らない奴はいないはずだから、余所者か、もしくは新参者か。
ひょいと顔を覗かせれば、五人の少年の背中が見えた。
あれは確かこの地帯を仕切っているグループ。
その向こう側で対峙しているのがおそらく声の主だろう。
何気なく、そのなりを見て俺はうんざりした。
まるで金持ちの子供が、捨て子を気取ろうとしたような見るからに俺たちとは質の違う出で立ち。
すぐに育ちのよさが見て取れる。
そいつの後ろには子供が一人倒れていた。それでだいたいの状況は読めた。
急激に白けた気分のままに林檎をかじる。
わかりやすい偽善に吐き気さえした。
お偉い方々のお優しきこと。
ああいう奴らは甘い世界で息をしているから、ここで生きることがどういうことかわからないのだ。
だが、逆に興味は沸いた。
傲慢で尊大なそいつがどれだけ不様に逃げ出すのか見てやろうと思った。
芯だけになった林檎を放り投げ、顔を拝んでやろうと少し近づく。
そこで、俺は目を瞬いた。
傲慢で尊大。
奴の顔のどこにもそんな色はなかった。
浮かぶのは恐怖と、それでも相手を睨みつける強い光。
背後の子供を庇うように広げられた手は僅かに震え、それでも足は決して逃げないとしっかりと地面を踏み締めていた。
正直言って驚いた。
そうしている間に、庇われた子供は体を起こし一目散に逃げていく。
もちろん感謝の言葉ひとつも口にしないで。
偽善を翳す人間には、ここではそれが当たり前だから。
助けられたなど思わない。
賛美を得たいがために行われたことだと知っているから。
だからこそ、さらに俺は面食らった。
奴は逃げた子供を見て、笑ったのだ。
痺れを切らした少年の一人が手を振り上げるより、俺は駆け出していた。
突然の珍入者に奴の目が見開かれる。
少年たちが振り返るより早く奴の手をとって走る。
後ろから聞こえる怒声を無視して、めちゃくちゃに走った。
普段なら冷静に選べる知りつくした道を何度も間違えた。
やっと足を止めた時、お互いに随分と息が上がっていた。
掴みっぱなしだった手を離し、裏路地の壁に背中を預ける。
「お前、馬鹿か」
「いきなり、現れて、馬鹿、呼わばりされる、筋合いは、ないぞ」
荒い息を繰り返し、絶え絶えに奴は抗議を口にする。
それに思わず苦笑が零れた。
「お前、女のくせに度胸あるな」
「う、るさい」
彼女は苛立たしげに俺をねめあげた。
それが俺とロアの出会い。
高台までたどり着いてぐっと伸びをする。
「今日はうまく撒けたな」
「始めに比べると、すごい進歩だぞ」
「確かにそうだな」
始めを思い出して、俺は肯定を返す。
初めて会った日はそれきりだと思ったが、ロアと俺はそのあと度々会うようになった。
彼女は案の定、余所者で知らないことが多かったから、いろんなことを尋ねられた。
路地裏の子供たちのルールだとか、上手い追っ手の撒き方、このあたりの地理だとか。
ロアは本当に何もかも知らなかった。
けれど、俺はそれがどうしてか知ってしまった。
「ファージ? どうしたんだ?」
きょとんと見つめてくるその瞳は美しい金色。それは暗闇に煌めく月の色。
「ファージ……?」
それは、王族の色。
一時だけ目をつむり、それから開いた。
「これ、やるよ」
「なんでだ? これが欲しかったのはファージだぞ?」
「お前に食わせたかったんだよ、俺が」
紙袋を押し付ける。
首を傾げるロアに背を向けて、高台の先に立つ。
見下ろす街中はどこか淋しくて。
なぜか笑えた。
水面を目指す泡のように沸き上がる気持ちは、きっとロアが名付けたものだ。
気づけば捕われて、目も背けられないほどに溢れたこの鮮やかさに、ただ目が眩むばかり。
「美味しい! ファージ、なんだこれは。すごい美味だぞ」
興奮したように顔を赤くさせて、ロアが駆けてきて俺に訴える。
微笑みたいのに、うまく表情が動かない。
しょうがなく目だけで緩く笑みを形作る。
「だろ?」
「確かにこれは愉快になるな!」
ロアが無邪気にそう笑った。
不意に胸を貫いた衝動は、沸き上がるほどに心を赤く燃やす。
今、彼女の手を掴んでここから飛び降りたらなんて素敵だろうか。
我に返り、頭をかすめた発想がおかしくて思わず笑う。
あぁ、なんて可笑しい。
俺たちは本当に幸せになれないのだ。
この瞬間が過ぎれば分かつ道。
一緒に笑い合える未来なんてなかったのだ。
あぁ、なんて――――
「ファージ。……泣いて、いるのか?」
「違う。嬉しいんだ」
嬉しいんだ、嬉しいんだ、嬉しいんだ。
でも、この喜びに浸るスキさえありはしない。鈍く壊れた何かが、ひどく自嘲的な言葉を俺に吐かせる。
「幸せすぎて死にたくなるな」
ロアはそれを聞いて黙った。
交わる視線に絡んだ思考。
たぶん、ロアは悟った。
俺が何を知って、何に絶望したか。
「……あぁ」
彼女は静かに俺の手を握って言った。
「あぁ、そうだな。ファージ」
その手を握り返すことを躊躇わなかった。
未来がなくても、迷わなかった。
ローアリア・カルヴァッレ第二皇女。
その名が生まれた時から彼女の未来を決めている。
歩む道の果てまでも。
それを知っていても、いつか彼女がこの手を離すと知っていても。
それでも、
「ロア、好きだ」
自分の想いを知ってしまったから。
ロアは何も答えずに、凛と前だけを向いていた。
彼女の見つめているのは高台から見下ろす街ではない。
見つめる先は城。
王族が住む場所。
彼女が俺の手を振りほどいて帰る場所。
彼女の、帰る場所。
月の瞳が泣き出すようにその色を閉ざした。
――――彼女はもう、ここへ来ない。
この繋がりがほどかれた時、それがさよなら。
僕がきみの手を5題。
きみの手を握りかえしたのは
5.きみが愛しいと気づいたから、
『確かに恋だった。』より




