08 離したくない
「リディア」
聞き慣れた声に、リディアは町場から目を離して顔を上げた。
そこには、真っ直ぐこちらへ歩いてくるユリウスの姿があった。
2年近くが経ち、十五歳になったユリウスは、さらに背が伸びていた。
少年らしさは残っているものの、騎士学院で鍛えられた身体つきは以前より引き締まり、侯爵令息としての威圧感も強くなっている。
整いすぎた顔立ちは相変わらずで、商会の女性職員たちが思わず頬を染めていた。
「ふわぁ〜……目の保養……」
「本当に格好良い……」
事務所にひそひそとした声が飛ぶ。
だが当の本人は一切気にしない。
真っ直ぐリディアの前まで来ると、淡々と言った。
「帰るぞ」
「えっ? でも、まだ少し確認が――」
「もう日が暮れる」
窓の外へ視線を向ける。
確かに空は赤く染まり始めていた。
「仕事は日暮れまでの約束だったはずだ」
ぴしゃりと言い切る。
そのままユリウスは、リディアと帳簿を広げて話していた男性職員へ視線を向けた。
「まさか、成人にも満たない女性がいなければ回らない仕事だとは言いませんよね?」
にこりともしていない。
だが圧がすごい。
男性職員はぶんぶんと首を横に振った。
「も、もちろんです!」
「なら問題ないな」
当然のように言い切る。
そしてユリウスは、そのままリディアの腰へ手を回した。
「わっ……!」
逃れようともがけば、逆にぐっと引き寄せられる。
「ちょ、ちょっと……!」
「暴れないでください。危ないでしょう」
「危なくしてるのは、ゆ、ユリウス…だと思うのだけれど……!」
だが全く意に介さない。
そのまま半ば抱き込むようにして、さっさと馬車へ連行してしまった。
背後では、また黄色い声が上がっていた。
◇
「進学準備で忙しいのでしょう? 無理しなくてもいいのよ?」
馬車へ乗り込んだあと、リディアは向かいへ座るユリウスを見る。
騎士学院の上級課程へ進める者は限られている。
当然、課題も訓練も増えるはずだった。
だがユリウスは、平然とした顔で答えた。
「無理はしていない」
「でも最近、毎日のように迎えに来ているわ」
「単独なら俺は屋敷の護衛より強い」
当然のように言う。
「侯爵令嬢の護衛をするなら、俺が一番適任だ。どっかの誰かは自覚がないようだけど」
それに、とユリウスが言葉を続ける。
「こうでもしないと、リディアとの時間が作れない」
「え?」
思わず聞き返す。
だがユリウスは気にした様子もない。
そのままじっとリディアを見た。
「それより」
「な、なに?」
「ユリウス呼びは、まだ慣れないのか?」
ぐっと顔が近づく。
リディアは反射的に身を引いた。
最近のユリウスは、昔みたいに嫌味を言って突き放すことはなくなった代わりに、妙に距離が近い。
「だ、だって……」
リディアは小さく視線を逸らす。
(……だって、)
自分は元男爵令嬢だ。
しかも、いずれ侯爵家を出ていく、仮初の立ち位置。
そんな私が本物の侯爵子息を呼び捨てなんて…
「また余計なことを考えているな?」
ユリウスがさらにぐっと顔を寄せてきた。
「ち、近いわ!」
「誤魔化すな」
「誤魔化してないわ」
「信用できない」
即答だった。
リディアは思わず頬を膨らませる。
するとユリウスがふっと笑って席に戻った。
適度な距離にほっと息を吐く。
「仕事は楽しいのか?」
「ええ、もちろん!」
「……」
自分との会話に笑顔の一つも見せなかったのに、仕事の話になると生き生きとした笑顔になる。
それが不愉快でユリウスはそっぽを向いた。
それを誤解したのか、リディアは不安そうに尋ねた。
「私が仕事をするの、反対……?」
「反対はしてない」
即答だった。
「……それに、止めたところでリディアは辞めないだろ?」
呆れたような声。
だがその後、ユリウスは少しだけ視線を逸らした。
「俺の目の届かないところで無茶される方が困る」
「え?」
「……なんでもない」
するとユリウスが小さく笑みを浮かべる。
「本当に、手がかかる」
だがその声色は、どこか柔らかい。
リディアは思わずくすりと笑った。
昔より、ずっと素直にユリウスが、心を開いてくれているのが分かる。
それが嬉しかった。
(……こんなに仲良くなれたのに)
卒業すれば、自分は侯爵家を出る。
仕事を通して母とは会えるだろう。
けれどユリウスとは、きっと今みたいにはいかない。
そう思うと、少しだけ胸が寂しくなった。
◇
それから数日後。
夕食後のサロンだった。
リディアはヴァイス商会から届いた書類へ目を通していたが、不意にその一文で手を止めた。
『卒業後の事業体制について』
もう、そんな時期なのだ。
向かいでは、ユリウスが本を読んでいる。
その横顔を見ながら、リディアはそっと口を開いた。
そろそろ言わなければと思っていた。
「……あ、あのね、卒業したら、アルベルト叔父様の籍へ移ろうと思うの」
ぴたり。
本を捲る手が止まった。
「本格的に商会のお仕事をしたいから、その方が動きやすいでしょう?」
リディアは笑って言う。
だがユリウスは無言だった。
ゆっくり本を閉じる。
「……侯爵家を出るのはダメだ」
真っ直ぐな声だった。
リディアは目を瞬く。
「え……?」
「仕事をするのは構わない」
その言葉に少しだけほっとする。
だが次の瞬間。
「でも、籍を抜けるのは認めない」
はっきり言い切られた。
リディアは困惑した。
応援してくれていると思っていたからだ。
「どうして……?」
ユリウスは少しだけ視線を逸らす。
だが答えない。
何かを飲み込むように沈黙してから、小さく言った。
「……考えておいてくれ」
それ以上は続かなかった。
◇
その頃から。
屋敷の執務室では、たびたび事業の話が聞こえるようになっていた。
侯爵。
フェルディナンド。
そしてユリウス。
三人で何かを話し込んでいるらしい。
扉越しに聞こえてくるのは、共同事業や店舗再建という単語ばかりだった。
(……反対、しているのかしら)
以前ユリウスは、仕事そのものは反対していないと言っていた。
だが、本当は違うのだろうか。
リディアは不安になった。
けれど聞けない。
あの日以来、どこかぎこちなくなってしまっていたからだ。
◇
そんなある日。
リディアと侯爵の元にヴァイス商会から正式な連絡が届いた。
卒業後の事業計画について相談したいという内容だった。
「ユリウスからもいくつか提案を受けている。せっかくだ、あいつも呼ぶか?」
リディアは少し迷う。
だが。
「……今回は、呼ばなくてもいいのではないでしょうか」
あの日以来、少しだけ気まずい。
ユリウスも進学準備で忙しいはずだ。
これ以上負担をかけたくなかった。
侯爵はそんなリディアを見て、静かに目を細めた。
◇
ある日。
ユリウスが屋敷へ戻った時。
「リディアは?」
いつもの自然に出た問いだった。
だが返ってきた答えに、空気が変わる。
「本日はフェルディナンド様たちとお話があるそうで、応接室にいらっしゃいます」
使用人が続けた言葉にユリウスの顔色が変わった。
「卒業後についてのご相談だとか」
「俺は聞いてない」
「リディア様から、ユリウス様はお忙しいからと……」
その瞬間。
嫌な予感が全身を駆け抜けた。
卒業後。
正式な話。
ついに籍の話が進むのか。
まだ言えていない。
まだ、ちゃんと伝えられていない。
ユリウスは踵を返した。
「ユリウス様!?」
呼び止める声も無視して、そのまま応接室へと向かった。
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