旅立ちの日
希望を取り戻した青年と酒呑童子。太陽が昇り始めた早朝、二人は洞窟の入り口に立った。乾燥した北風が二人を襲う。山鴉が甲高く泣き喚き、山裾を覆う黄色い雲が草花を死に至らしていた。鬼どもの住処であるここ、金剛山で今、何かが始まろうとしていた。
寝ずの青年は今にも閉じてしまいそうな瞼を必死にこする。酒呑童子は金の盃に酒を注いで、それから煽った。青年は重たい瞼を開き、あくびと共に口を開いた。
「ところで俺は具体的に何をするべきなんだ。モノの計画が失敗していない事はなんとなく解ったけれど、逆に言えばそれ以外何一つ解っていない。」
酒呑童子は酒で潤った喉元を震わせて、声を発した。それは低くて渋くて、大地の歪みのように重苦しかった。
「私が思うに、汝は先代の語り部の真似をするべきだと思っている。」
青年は首を傾げてから後方の酒呑童子を見た。酒呑童子は顔を崩さず青年の瞳を見返した。青年はため息を吐いて視線を大空に向け直した。青年は空に浮かぶ黄色い雲をぼんやりと捉えながら酒呑童子に言った。
半ばあきれた口調で。
「俺は他の語り部に会ったことなんかないし、今もこの国に生きてるはずもない。だから真似するにしてもそいつらに会えないからできない。」
酒呑童子は金の盃を岩床に置いて、まだ陽の光を浴びていない冷たいままの岩床に腰を落ち着けた。空を闇が覆っていた昨夜から変わらず冷たい床に酒呑童子は足を組んであぐらを掻いた。こちらもまた、半ば呆れながら応える。
「ここは黄泉の国だ。つまり死んだ者が集う国。ならば神代に生きた語り部はこの国のどこかにおると思うが。」
青年は酒呑童子の応えを聞いてから黙り込んだ。何かを考えるように背中を丸めて視線は遠く大空を睨んでいた。やがて、青年は言った。
「屍人、か。」
酒呑童子は声を発さずただ頷いた。青年は続ける。
「あの大空に浮かぶ黄色い雲。その雲に触れることで死んでしまった屍人は広野に堕ちる。その広野で無数の屍人の骸。その中に…」
青年は最後まで言わずに視線を大空から逸らした。逸らした視線は昨日まで居た洞窟の奥へ向いていた。青年は無言で両手を開いたり閉じたりしている。酒呑童子もまた無言でそれを静かに眺めていた。洞窟の奥で眠りにつく鬼神どもはまだ朝を知らない。
朝の太陽がようやく黄色い雲から離れてその陽の光を洞窟の中を照らすまで、青年は一つも声を上げなかった。太陽が洞窟の岩床を温め始め、裸足の青年の足を焦がし始めた時、ついに青年は再び大空に顔を向けた。大空を漂う黄色い雲、いやさらに肉眼では捉えられないその奥の屍人の骸に青年は威嚇するように叫んだ。
「あんたを食う。」
青年はそれから一礼して金剛山をあとにした。
酒呑童子は青年の背中が砂粒ほどの大きさになるまで彼を見届けた。それから酒呑童子が後方の洞窟へ振り返るとそこには目を閉じた鬼神どもが1列に並んでいた。金剛山の鬼神の全てが皆、目を閉じて腕を胸に置いて黙祷をしていたのだった。酒呑童子は自分の配下のその行いを静かに見ていた。鬼神どもは一斉に念じ始めた。
これからあなたを襲う全ての災いがあなたに負けるように。
それからあなたの語りが正しい運命を探り当てますように。
最後に私たち全ての砂の子はあなたを心配し、そしてあなたが救われることを願います。
全ての願いをこの胸に封じて、時が戻った神代の時代を待ち望みます。
やがて、全ての鬼神どもが黙祷を終えて顔を上げた時には、黒い雲が大空の隅から隅まで途切れなく覆っているのが見えた。大地が割れんばかりの雷鳴が幾度となく振り落ちるその酷い有様を見て、鬼神どもは再び神に乞う。黒い雲が明けるまで。雷鳴静まるまで。鬼神どもは何度も何度も。
酒呑童子はそれを静かに見ていた。
雷鳴は鳴り止まない。




