邂逅
鼓動が聞こえた。この胸の鼓動。下を見れば腕が肩から伸びているのが見えた。紛れもない自分の腕。
口は乾燥していた。そんな口の感触があった。自分の呼吸の音が聞こえた。その感覚があった。
どうやら俺は。
「これが語り部か。」
後方に広がっている沼を目に留めて俺は歩き出した。この自我こそが、語り部の特権なのだろう。
不思議な感じだ。
顔を上げれば雨の止んだ広野が広がっていた。歩くこの足は止まらない。体力は戻っていた。
しばらくすると開けた広野に横たわる無数の骸が見えてきた。屍人が転がっていた。干からびて乾燥し切った屍人の皮膚はミイラのようで、砂や埃に覆われたその屍人からキツイ臭いがする。この鼻は悲鳴をあげていた。
俺はその屍人に近づいた。
「小さな死体だな。子供か。」
鬼の五郎は屍人を喰った。それが屍人拾いという祭りの内容だった。だから俺もまた同じことをする。最も自分に近い屍人の前で俺はしゃがんだ。手でその屍人の額を触る。ぬめっとした油が手についた。
屍人の口元に顔を屈めると、キツイ臭いはより強くなった。刹那、屍人の口から無数のハエが飛び出した。俺は屍人の頬から手を引いて、勢いよく飛び退いた。半ば反射だった。
屍人の口の中から無数の蝿が隊列を崩さず飛び出ていく。その様子は洞窟から飛び立つコウモリの群れのよう。
「気味が悪い。」
夥しい数の黒い粒がその屍人から立ち退いた後、俺はその屍人に近づいた。キツイ臭いはまだ口内から臭う。それに屍人の頬についた油も変わりない。俺は臭いもぬめりもまだマシな所に着目した。それは屍人の手の指だった。乾燥して骨と皮ばかりの屍人の指は簡単に引きちぎれた。
俺はその指を口に入れた。あんぐりと口を開けて、何かあればすぐ吐き出せるようにしていた。屍人を食う。これが屍人拾い。酒呑童子が勧めた行い。
「食うしかない。」
屍人の指。その味はとんでもなく不味い。たちまち俺の舌は痙攣し喉が震え出した。この口は屍人の指を真っ向から拒否していた。さらに俺の胃は胃液を逆流させて邪魔をした。こうして全ての俺が屍人の指を喰うのを妨げた。
だから砂と埃の大地に俺は指を吐き出した。一度口に入れたその指は俺の唾液と共に、乾燥した大地に投げ出された。俺はしばらく咳をし続けた。
咳をしても一人。俺はあぐらを掻いた。指は唾液に絡まったまま地に伏していた。
「何の収穫もないじゃないか。」
その瞬間、脳が揺れた。視界は二重に分解されて彩度が薄まった。たちまち白黒の世界になる。俺は頭を抑えて唸った。
何かが聞こえた。俺は黙ってそれを聞いていた。そしてその何かが人の声なのだと気づいた。その声の主は俺の脳に直接言葉を響かせた。
「俺は航平だ。原始の語り部だ。」
そいつは言った。今度はきつい耳鳴りが始まった。俺は両耳を必死に抑えた。それでもつんざくような耳の痛みは治らなかった。生暖かい液体を感じた。この耳を抑える俺の両手はそれを感じた。鉄の臭いが屍人の異臭と混ざり出した。混在する2種類の異臭が俺の鼻をも駄目にした。
「どうしてここに…」
俺は人影を見た。白黒の視界で俺は人影を見た。
若い男の人影。俺の前でしゃがみ込んで泣いていた。それからそいつは何かを語り出した。だが声は聞こえない。耳鳴りが酷かった。香りもしない。異臭のせいだった。
しばらくすると男の影は消え、耳鳴りも止んだ。手を耳から話すと、手には血が付いていた。二重に分解されていた視界は重なり合い、彩度もまた戻った。
「どういうことだよ。」
俺はもう一度目の前の骸を睨んだ。目の前の骸はピクリとも動かない。咳をしても息を吐いても一人。この広野に生きた生物は俺しかいない。
航平と名乗る声と人の影。
これが世に聞く、屍人拾い。
俺はぞわりと身を退け反らせた。




