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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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8/20

港に届かない春

 水門の脇に埋め込まれた銀の管は、朝の光を受けても冷たいままだった。


 ユノアは管の継ぎ目に指を添えた。金属の表面には、目で見える傷がない。その代わり、余白読みの感覚だけが、薄い膜のように指先へ触れてくる。


 ――季節の力は、定められた時に、定められた場所へ返す。


 そこまでは、前夜に聞いた第七条と同じだった。けれど、その下にあるはずの文は、深い空白に沈んでいる。


「何か見えるか」


「見えない部分があります。管は春を運ぶためのものですが、港へ入る直前で流れが分かれています」


 レオンは水門の石組みを見回した。霧の向こうから、木箱を抱えたトルネが走ってくる。


「代官さま、ユノアさん! 魚師のおじさんたちが、また変なものを見つけました」


 箱の中には、網に絡んだ透明な結晶が入っていた。氷に似ているのに溶けず、中心で淡い金色の光が揺れている。


「今朝、北の入り江で網を上げたら、魚より先にこれがかかったんだ。触るとあったかい。でも、すぐに光が消えた」


 ユノアが結晶へ近づくと、失われた記憶が波の音に混じって聞こえた。


 ――港へ返す春は、鐘が三度鳴るまで、受け手のない場所に置く。


「受け手のない場所……」


「それは、港ではないということか」


 レオンの声が低くなる。彼は管に手をかざし、灯脈の火を流した。銀の管の内側で、細い光が北へ走る。水門から遠ざかるほど、光は強くなっていった。


「流れは生きている。だが、港へ向かう枝が閉じられている」


「春を止めている栓があるのですね」


「栓を抜けば、港へ戻る可能性もある。逆に、溜め込まれた力が一気に噴き出せば、水門も家々も壊れる」


 ユノアは、結晶の中で消えかけた光を見た。春を待つ人々の畑は、すでに種を蒔く時期を過ぎている。港の子どもたちは、去年の冬着をまだしまえずにいた。


「危険だから放っておく、という選択はできません」


「君はいつも、危険のほうへ歩くな」


「危険の中にいる人を見ないふりをするよりは」


 レオンは返事をしなかった。ただ、管へ伸ばした手を引かずにいる。その横顔に、昨夜の言葉が重なった。記憶を預ける。返してもらえると信じる。


「なら、少しだけ流れを確かめる。私が灯脈を押さえる。異変があれば、君が空白を読む」


「私が止めるのですか」


「止めるか、続けるかを決める。私の判断だけにはしない」


 その言い方が、ユノアの胸を静かに温めた。二人で結んだ仮の婚姻は、まだ便宜のためのものだ。それでも、危険を分け合うときだけは、対等な約束に近づいていく。


 レオンが銀の管の上に掌を置いた。青白い灯が走り、石の下から低い振動が返ってくる。ユノアは空白の輪郭を探った。見えない栓の周りには、幾重にも消された署名が重なっている。


 港の証人。灯守。王室契約院。


 そして、最後にひとつだけ、誰のものか分からない名。


 ――鐘楼の下で、返還を待つものを守る。


「レオン、止めてください!」


 叫んだ瞬間、管の奥で光が弾けた。水門の石の隙間から、春の匂いを含んだ風が吹き出す。トルネの箱の結晶が一斉に輝き、枯れた水門脇の草から小さな白い花がひとつだけ開いた。


 けれど、花は三度瞬きをすると、光を失った。


「届いていない……」


 ユノアが呟く。春は確かに動いた。だが、港へ返る前に、どこか別の場所へ吸い上げられている。


 北の街道の先で、古い鐘が一度鳴った。


 霧に包まれた鐘楼には、鐘を鳴らす人影などないはずだった。レオンは音のした方角を見据え、握った拳をゆっくり開いた。


「旧鐘楼へ行く。あの下に、春を留めている場所がある」


 ユノアは頷き、白い花の散った跡を見つめた。


 港に届かない春を、今度こそ、誰かの記憶だけにしないために。

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