港に届かない春
水門の脇に埋め込まれた銀の管は、朝の光を受けても冷たいままだった。
ユノアは管の継ぎ目に指を添えた。金属の表面には、目で見える傷がない。その代わり、余白読みの感覚だけが、薄い膜のように指先へ触れてくる。
――季節の力は、定められた時に、定められた場所へ返す。
そこまでは、前夜に聞いた第七条と同じだった。けれど、その下にあるはずの文は、深い空白に沈んでいる。
「何か見えるか」
「見えない部分があります。管は春を運ぶためのものですが、港へ入る直前で流れが分かれています」
レオンは水門の石組みを見回した。霧の向こうから、木箱を抱えたトルネが走ってくる。
「代官さま、ユノアさん! 魚師のおじさんたちが、また変なものを見つけました」
箱の中には、網に絡んだ透明な結晶が入っていた。氷に似ているのに溶けず、中心で淡い金色の光が揺れている。
「今朝、北の入り江で網を上げたら、魚より先にこれがかかったんだ。触るとあったかい。でも、すぐに光が消えた」
ユノアが結晶へ近づくと、失われた記憶が波の音に混じって聞こえた。
――港へ返す春は、鐘が三度鳴るまで、受け手のない場所に置く。
「受け手のない場所……」
「それは、港ではないということか」
レオンの声が低くなる。彼は管に手をかざし、灯脈の火を流した。銀の管の内側で、細い光が北へ走る。水門から遠ざかるほど、光は強くなっていった。
「流れは生きている。だが、港へ向かう枝が閉じられている」
「春を止めている栓があるのですね」
「栓を抜けば、港へ戻る可能性もある。逆に、溜め込まれた力が一気に噴き出せば、水門も家々も壊れる」
ユノアは、結晶の中で消えかけた光を見た。春を待つ人々の畑は、すでに種を蒔く時期を過ぎている。港の子どもたちは、去年の冬着をまだしまえずにいた。
「危険だから放っておく、という選択はできません」
「君はいつも、危険のほうへ歩くな」
「危険の中にいる人を見ないふりをするよりは」
レオンは返事をしなかった。ただ、管へ伸ばした手を引かずにいる。その横顔に、昨夜の言葉が重なった。記憶を預ける。返してもらえると信じる。
「なら、少しだけ流れを確かめる。私が灯脈を押さえる。異変があれば、君が空白を読む」
「私が止めるのですか」
「止めるか、続けるかを決める。私の判断だけにはしない」
その言い方が、ユノアの胸を静かに温めた。二人で結んだ仮の婚姻は、まだ便宜のためのものだ。それでも、危険を分け合うときだけは、対等な約束に近づいていく。
レオンが銀の管の上に掌を置いた。青白い灯が走り、石の下から低い振動が返ってくる。ユノアは空白の輪郭を探った。見えない栓の周りには、幾重にも消された署名が重なっている。
港の証人。灯守。王室契約院。
そして、最後にひとつだけ、誰のものか分からない名。
――鐘楼の下で、返還を待つものを守る。
「レオン、止めてください!」
叫んだ瞬間、管の奥で光が弾けた。水門の石の隙間から、春の匂いを含んだ風が吹き出す。トルネの箱の結晶が一斉に輝き、枯れた水門脇の草から小さな白い花がひとつだけ開いた。
けれど、花は三度瞬きをすると、光を失った。
「届いていない……」
ユノアが呟く。春は確かに動いた。だが、港へ返る前に、どこか別の場所へ吸い上げられている。
北の街道の先で、古い鐘が一度鳴った。
霧に包まれた鐘楼には、鐘を鳴らす人影などないはずだった。レオンは音のした方角を見据え、握った拳をゆっくり開いた。
「旧鐘楼へ行く。あの下に、春を留めている場所がある」
ユノアは頷き、白い花の散った跡を見つめた。
港に届かない春を、今度こそ、誰かの記憶だけにしないために。




