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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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7/20

片方だけの記憶

 緑の灯が消えたあと、記録室には潮の匂いだけが残った。


 ユノアは金属箱から出てきた紙片を机の上に置き、祖母の名を何度も見つめていた。古びたインクはところどころ薄れている。それでも、アデラ・セルティスという文字だけは、誰かが守るように濃く残っていた。


「第七条を、お祖母様は知っていたのですね」


「知っていたから証人になったのか。証人にされたから、記憶を奪われたのか」


 レオンは窓の外へ目を向けた。夜明けの気配はあるのに、霧港の空はまだ暗い。港の家々から、昨夜の緑の灯を見た者たちの話し声がかすかに聞こえてくる。


「あなたは、第七条の最後を覚えていると言いました」


「覚えている。『灯守の許可なく、季節を港の外へ持ち出してはならない』。前の灯台守がそう読んだ。私はその場にいた」


「では、なぜ私には反対の文が見えたのでしょう」


 レオンは答えず、机の上の金属箱を見た。六本の線と、見えない七本目の線。ユノアが触れたときだけ現れた光は、もう消えている。


「もう一度、触れてみよう」


 彼が先に手を伸ばした。


 ユノアは一瞬ためらった。昨夜、二人の記憶が重なったとき、箱の底から聞こえた車輪の音を思い出す。冷たい石の部屋。銀色の瓶。瓶の中で揺れる春の光。


 それでも、レオンの指が線の上に置かれるのを見て、彼女も手を重ねた。


 光が走った。


 ――灯は港の暮らしを守るために、季節を海へ返す。


 ユノアの耳へ、まずその文が届いた。続いて、知らない女の声が重なる。


 ――王都へ運ばれた季節の力は、必ず港へ返すこと。


 だが、隣にいるレオンは眉をひそめている。


「何が聞こえるのですか」


「持ち出してはならない、と」


「私には、返すこと、と」


 言葉を交わすたび、二人のあいだに別々の文章が浮かんだ。どちらも嘘ではない。片方だけに残った記憶が、空白の左右から姿を現している。


 ユノアは箱から手を離さず、聞こえた文を順番に繰り返した。レオンも自分の記憶を語った。二つの声はぶつかり合いながら、ひとつの条文の形を取り始める。


「王都へ運ばれた季節の力は、必ず港へ返す。ただし、灯守の許可なく、季節を港の外へ持ち出してはならない……」


「その二つは、矛盾している」


「いいえ。返すために運ぶことと、奪うために持ち出すことは違います」


 ユノアがそう言うと、金属箱の七本目の線が淡く光った。その下に、さらに短い空白が開く。


 ――返還の時と方法は、港の証人が――


 そこで声が途切れた。


 レオンが息をのむ。


「港の証人。そんな役目は聞いたことがない」


「だから消されたのでしょう。季節を返す時期を、王都が一方的に決められないように」


 ユノアは紙片を裏返した。緑の蝋印の脇に、小さな波形の刻印がある。昨夜は見落としていたが、その形は港の古い水門に刻まれた印とよく似ていた。


「この紙片は、どこから出てきたのですか」


「箱の底だ。だが、箱を隠したのは私ではない」


「前の灯台守は、誰かに命じられて台帳を焼いた。それなのに、箱だけは残した」


「残したのではなく、隠したのかもしれない。命令には従ったふりをして、別の記録を守った」


 レオンの声には、わずかな戸惑いが混じっていた。自分が信じてきた記憶に、初めて別の可能性が差し込んだのだ。


「あなたは、前の灯台守の顔を覚えていますか」


「顔は覚えている。だが、名前が出てこない」


 彼は額へ手を当てた。苦しそうに目を閉じる。


「命令に逆らった私を解任したあと、あの人は港を出た。そう聞かされた。けれど……出ていく船を見た記憶がない」


 ユノアは彼の手首にそっと触れた。灯脈の熱が、今度は穏やかに伝わってくる。レオンの記憶の中で、欠けた部分だけが冷たく沈んでいた。


「無理に思い出さなくていいのです」


「君は、思い出せないものを読めるのだろう」


「読めても、奪うことはできません。あなたの記憶は、あなたのものです」


 レオンは驚いたように彼女を見た。やがて、触れられた手を振りほどかずに言う。


「なら、私の片方を君に預ける。君の片方も、私に見せてくれ」


「預けるのと、渡してしまうのは違います」


「分かっている。返してもらえると信じるだけだ」


 その言葉が胸の奥で小さく鳴った。約束を信じない人の口から出た、初めての信頼だった。


 明け方、二人は水門へ向かった。紙片の波形印を確かめるためだ。霧の向こうで、潮の流れが不自然に細くなっている。水門の脇には、銀の管が一本だけ埋め込まれていた。管の先は海ではなく、北の街道へ続いている。


 ユノアが管へ指を近づけると、空白の記憶が冷たい風となって頬を撫でた。


 ――返す春は、港に届く前に、どこかへ流されている。


 その声は、ユノアにしか聞こえなかった。


 隣でレオンが管を見つめる。彼の目には、別の記憶が映っているらしい。遠い王都の塔。運び出される銀瓶。そして、瓶を積んだ荷車を見送る、名も思い出せない灯台守。


 二人は同時に顔を上げた。


 片方だけの記憶を重ねなければ、春の行き先は分からない。


 霧港へ返されるはずの光は、港へ届いていなかった。

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