消された第七条
緑の灯がともったあとも、霧港の人々はしばらく声を失っていた。
海から戻った漁船が岸壁へ着き、濡れた綱を巻く音が聞こえる。誰かが「春の匂いがする」と呟き、それを聞いた子どもたちが、まだ芽吹いてもいない街路樹の枝へ駆け寄っていった。
季節は戻っていない。
それでも、戻れるという気配だけが、港のあちこちに小さな灯をともしていた。
ユノアとレオンは、トルネを先に灯台の記録室へ帰した。夜明け前の港は、喜びに浮かれているようでいて、誰もが緑の灯から目を離せずにいる。二人が記録室へ入ると、机の上に置いた封筒が、またかすかに震えた。
白い紙に浮かんだ一文は、先ほどより濃くなっていた。
――春を返す者は、消された条文の七つ目を探せ。
「消された条文があるなら、ここに原本が残っているはずです」
ユノアは棚を見渡した。記録室には、灯台の修繕記録、季節灯の点火表、王都との往復文書がぎっしり詰め込まれている。どれも海風と塩に傷んでいたが、棚の中央だけ、妙に空白が目立っていた。
「その場所には、契約台帳があった」
レオンが言った。
「六年前、なくなった。正確には、焼却したことになっている」
「焼却したのに、覚えているのですか」
「台帳を燃やしたのは私ではない。前の灯台守だ。私は火を消すよう命じられた」
彼の声に、緑の灯を見たときとは別の硬さが戻った。
「誰に命じられたのですか」
「王室契約院から来た役人に。第七条は存在しない、記録を調べる必要もない、と言われた」
「それで従ったのですか」
「従わなかった。だから、灯台守を解任された」
レオンは棚の奥へ腕を差し入れた。指先が背板の隙間を探り、やがて乾いた音が鳴る。板の一部が外れ、薄い金属箱が現れた。
箱には鍵穴がなかった。代わりに、蓋の中央へ六本の線が刻まれている。ユノアが線へ指を置くと、冷たい金属の奥から、消された声が一斉に押し寄せた。
――海霧を晴らす灯は、港の暮らしを守るために。
――夏の光は、収穫の前に海へ返す。
――秋の火は、帰る船のために。
――冬の静けさは、眠る者のために。
聞こえた四つの条文は、季節灯の役目を記したものだった。続く二つは、灯台守の義務と、港の住民が灯の行き先を決める権利。けれど、その次にあるはずの言葉だけが、深い水の底へ沈んでいる。
「第七条は……」
ユノアが呟くと、金属箱の蓋に細い光が走った。六本の線の下に、見えない七本目の線が浮かび上がる。
「触れてください」
「君一人で読めないのか」
「空白が閉じています。誰かの記憶を鍵にしているみたいです」
レオンは迷いながら、彼女の隣に手を置いた。二人の指が金属の上で触れる。灯脈の熱が重なった瞬間、記録室の壁いっぱいに、失われた文字が淡く浮かんだ。
――第七条、王都へ運ばれた季節の力は、必ず――
そこで声が途切れた。
代わりに、遠くで巨大な車輪が回る音がした。海の下から吸い上げられた水が、細い管を通ってどこかへ流れていくような音だった。ユノアは目を閉じ、その流れの先を追う。
冷たい石の部屋。
壁に並ぶ銀色の瓶。
瓶の中で、春の光が液体のように揺れている。
そして、瓶の底に押された王都契約院の印。
「王都へ送られている……」
ユノアが言うと、レオンの手が離れた。光の幻が消え、部屋は再び暗い記録室に戻る。
「違う」
彼は低く言った。
「季節の力は、灯台の中で循環する。王都へ送る条文などなかった」
「でも、今、私は見ました」
「見たのは空白の記憶だ。改竄されたものかもしれない」
その言葉に、ユノアは胸を張った。
「私の力は、書かれた文を読むものではありません。消されたものを読む力です。間違って消された記憶まで、条文の空白が残すはずはない」
レオンは反論しなかった。
彼の視線が、金属箱の蓋へ落ちる。そこには、ユノアには聞こえなかった別の声があったのだろうか。しばらくして、彼は掠れた声で告げた。
「私は覚えている。第七条の最後には、『灯守の許可なく、季節を港の外へ持ち出してはならない』と書かれていた」
「私が聞いたのは、その反対です。王都へ運ばれた季節の力は、必ず港へ返す、と」
二つの記憶が、同じ空白の中で食い違っている。
ユノアは、白紙の婚姻契約を思い出した。書かれていないからこそ、そこには誰かが隠した意思が残っていた。けれど今度の空白は、ひとつではない。消した者と、消された後の記憶が、重なっている。
金属箱の底から、紙片が一枚滑り出た。古い紙には、半分だけ読める文字があった。
――第七条の証人、アデラ・セルティス。
祖母の名を見た瞬間、ユノアの指先から力が抜けた。
「お祖母様が、証人……」
レオンが紙片を拾い上げる。裏面には、王都へ続く海路の印と、まだ乾いていない緑の蝋が残っていた。
その蝋は、封筒を封じていたものと同じ色だった。
港の外で、緑の灯が一度だけ明滅した。
春を返すための灯が、次に照らしたのは、二人のうち片方だけが持つ記憶だった。




