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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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海霧のなかの最初の灯

 署名のない家を出ると、霧はさっきより濃くなっていた。


 階段の先にあるはずの灯台の壁さえ見えない。レオンの燭台から伸びた火だけが、二人の間に小さな円を作っている。風はないのに、霧は海の底から押し寄せる波のように揺れていた。


「レオン様、封筒を見せてください」


 ユノアが言うと、彼は歩みを止めずに懐へ手を入れた。緑の蝋で封じられた封筒は、先ほどひび割れたまま、薄い光をにじませている。


「ここで開けるのは危険だ」


「開けなくても、もう私たちは警告を受けています」


「警告と許可は違う」


 冷たい返事だった。だが、レオンはユノアの手を放していなかった。家を出てからも、霧の中で彼女を見失わないように、指先をしっかりと絡めている。


「……手を離しても、私は転びません」


「霧の中では、床があるとは限らない」


「灯台の中なのに?」


「六年前から、この灯台は地図どおりではない」


 その言葉を裏付けるように、足元の石がかすかに沈んだ。ユノアは息を呑んだが、レオンが腕を引いてくれたおかげで、崩れかけた隙間へ落ちずに済んだ。


「ほらな」


「……ありがとうございます」


「礼を言うほどのことではない。相棒を落としたら、私も困る」


 また同じ言い方をする。


 けれど今度は、ユノアもそれ以上からかわなかった。彼の手のひらが、先ほどよりわずかに熱いことに気づいてしまったからだ。


 地上階へ戻ると、扉の前にトルネが立っていた。両腕に灯油の缶を抱え、少年の髪には細かな水滴が光っている。


「遅いよ! 鐘が四回目で鳴らなくなったから、何か起きたと思ったんだ」


「実際に起きている。外の見張り台へ行く」


「この霧で? 海へ落ちるよ」


「だから、お前はここに残れ」


 レオンが言うと、トルネは唇を尖らせた。


「西の岩礁に漁船が一隻いる。灯りが消えて、戻れなくなってる。僕が行かないなら、誰が知らせるのさ」


 レオンは黙った。遠くから、霧に押しつぶされたような鐘の音が聞こえる。港の方角だ。短く二度、助けを求める合図だった。


「ユノア、封筒は預ける。トルネと一緒に季節灯の記録室へ行け」


「いいえ。西の見張り台に、季節灯が一つあります」


 ユノアは霧の向こうを見た。肉眼では何も見えない。それでも、空白を読む力は、文字のない場所に残った輪郭を拾っていた。


「六年前から消えている灯です。家の地図に、緑の線がそこまで続いていました」


「あれは壊れている」


「壊れたのではありません。灯す文言が消されています」


 レオンの目が細くなった。彼は懐から、署名のない鍵を取り出す。


「なら、試す価値はある」


 三人は灯台の裏手へ回った。壁際の細い通路を抜けると、海へ張り出した石の台座が現れた。台座の上には、塩で白くなった鉄の箱がある。鍵穴は、長いあいだ誰にも使われていないように錆びていた。


 レオンが鍵を差し込む。回った。


 中には、枯れた蔓を巻いた灯芯と、薄い金属板が一枚だけ収められていた。


 金属板には、季節灯を点すための古い契約文が刻まれている。


 ――海へ返された春は、港の――


 その先が、幅広く削られていた。


「ここにも空白が……」


「読めるか」


「消された言葉は、声になって残ります」


 ユノアは金属板へ指を添えた。


 冷たいはずの板の奥から、遠い誰かの囁きが聞こえた。


 ――港の人々が、望む場所へ。


 続けて、別の声が重なる。


 ――望みは、署名でなければ認めない。


 胸の奥が締めつけられた。春を返す条件は、港の人々の望みではなく、誰かの署名にすり替えられていたのだ。


「レオン様。この灯は、署名を求めています」


「私の名を書くのか」


「分かりません。でも、空白の中に『灯守の名』という言葉が残っています」


 レオンは金属板を見つめた。


「私の名は、もう季節灯の契約から消されている」


「だからこそ、戻せるかもしれません」


「勝手に名前を書けば、港の春を私のものにすることになる」


 迷いが、彼の横顔に刻まれていた。


 ユノアは自分の胸元へ手を当てた。白紙になった婚姻契約。消された条文。誰かの署名がなければ存在できないとされた、自分の未来。


「名前は、誰かを所有するために書くものではありません」


 彼女は言った。


「望みを引き受ける覚悟を示すために、書くものです。もしレオン様が港を所有するのではなく、港と一緒に灯を守るなら……」


 レオンはしばらく黙っていたが、やがて短剣を抜いた。刃先で指の腹を浅く切り、滲んだ血を灯芯へ落とす。


「署名はしない」


 彼は静かに告げた。


「まだ、港の望みを聞いていない」


 代わりに、灯芯へ手をかざす。青白い灯脈が彼の腕から流れ、枯れた蔓の奥へ入り込んだ。ユノアは空白へ耳を澄ます。


 そこには、誰の名もなかった。


 ただ、消された一文の最後に、ひとつの言葉だけが残っていた。


 ――最初の灯は、選ばれた者ではなく、帰る者が点す。


 ユノアがその言葉を口にした瞬間、灯芯に緑の火がともった。


 海霧が、光の輪の外側からゆっくり退いていく。


 岩礁の向こうで、漁船の小さな帆が見えた。港から歓声が上がり、消えていた鐘が今度は一度だけ、澄んだ音を響かせる。


 緑の灯は、春の匂いを運んでいた。濡れた土と、まだ咲いていない花の匂いだった。


 レオンが息を吐く。


「最初の灯だ」


「ええ。まだ一つだけですが」


「一つあれば、次の灯を探せる」


 彼が灯を見上げたとき、懐の封筒が震えた。ひび割れた封蝋が崩れ、白い紙の上に新しい文字が浮かぶ。


 ――春を返す者は、消された条文の七つ目を探せ。


 ユノアはレオンと顔を見合わせた。


 海霧の向こうで、二つ目の鐘が鳴った。


 今度の音は、途中で消えなかった。

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