署名のない家
階段は、灯台の地下へ続いていた。
壁に埋め込まれた灯芯の残り火が、二人の足元をぼんやり照らしている。上階から聞こえていた風の音は、三段目を降りたところで途切れた。代わりに、どこか遠くで水が滴る音がする。
「この先に、灯芯庫があるのですか」
「図面では、ここは壁だ」
先を歩くレオンが答えた。片手には古い燭台、もう片方にはトルネから借りた細い金具が握られている。彼は床の石を一枚ずつ確かめ、傷のついた場所で足を止めた。
石の隙間から、白い糸のような霧が滲んでいる。
「地下に海があるようです」
「霧港では珍しくない。潮が高い日は、灯台の基礎まで水が上がる」
「水ではありません」
ユノアはしゃがみ、石へ指を近づけた。触れてはいないのに、消された文字の感触が指先を刺す。
――家へ。
――名を持たぬ家へ。
――灯を守る者は、署名してはならない。
「レオン様。この下に、契約があります」
「また空白か」
「ええ。でも、これは扉の契約とは違います。誰かが文を消したのではなく、最初から署名欄だけが空いています」
レオンは眉を寄せた。燭台を床へ置き、石の縁へ金具を差し込む。しばらくすると、重い音を立てて床板が持ち上がった。
そこには階段ではなく、狭い木の廊下があった。廊下の両脇には、海に向かって並んだ窓がある。窓の外は真っ白な霧のはずなのに、その向こうに淡い緑の光が揺れていた。
二人は廊下を進んだ。
突き当たりの扉には、金属の札が掛かっている。
《季節灯守の家。所有者、記載なし》
「家……?」
レオンが札を外した。裏側には王室契約院の紋章が刻まれているが、日付も管理者の名も削り取られている。
扉は鍵がかかっていなかった。
開けた途端、花の匂いが押し寄せた。
部屋の中央には暖炉があり、火の消えた灰の上に、まだ赤い炭が一つ残っている。窓辺には枯れた鉢植えが三つ。枯れているのに、土だけは濡れていた。壁には港の古い地図と、細かな文字で書かれた紙片が何十枚も貼られている。
「誰かが、今もここを使っています」
「そう見せかけているだけかもしれない」
「炭は今朝まで温かかったはずです」
ユノアが灰へ手をかざすと、消された声が微かに響いた。
――帰る場所を、春とともに返す。
胸の奥が跳ねた。
机の上には、一冊の台帳が開かれていた。表紙には何も書かれていない。中には季節灯の修理記録、潮の高さ、港の家々へ配られた種の数が並んでいる。どのページにも、最後には必ず署名欄があった。
ただし、この台帳だけは違った。
最後の欄にあるのは、一本の横線だけだった。
「署名がない」
レオンが低く呟く。
「ここに住む人が、名前を書くのを拒んだのでしょうか」
「違う。この家の契約は、誰か一人が所有するものではない。だから署名する人間を置かなかった」
彼は台帳のページをめくった。古い紙の間から、薄い紙片が滑り落ちる。
ユノアが拾い上げた瞬間、紙に残った余白が震えた。
――王都へ送る春を、一年分に限る。
――港の記憶を、灯守の胸から抜き取る。
――抜き取った記憶は、契約院の保管庫へ。
息が止まった。
「春を送るというのは、魔力だけではなかったのですね」
ユノアの声に、レオンの顔色が変わる。
「記憶を抜く……」
「この家は、港の人々から春の記憶を集める場所だったのかもしれません」
「違う」
レオンの声が、初めて揺れた。
「六年前、灯が消えた朝、港の人間は春を忘れていた。花の色も、種を蒔く時期も、誰も思い出せなかった。私はそれを、灯の故障だと思っていた」
「契約院が、記憶まで持ち去ったなら……」
「ここにいた誰かは、それを知っていた」
壁の地図の隅に、古い筆跡がある。ユノアは目を凝らした。文字はほとんど消されていたが、余白だけが名前の形を残している。
――アデラ・セルティス。
祖母の名だった。
ユノアの指が震える。
「ご存じの名ですか」
レオンが尋ねた。ユノアは答えようとして、机の下から聞こえた小さな音に振り向いた。
誰も触れていない引き出しが、ひとりでに開いている。
中には、署名のない鍵と、緑色の蝋で封じられた封筒があった。封蝋には王室契約院の紋章が押されている。だが、その中央だけが刃物で削られていた。
レオンが封筒へ手を伸ばす。
「待ってください。これは、読むために残されたものではありません」
「なら、何のためだ」
「誰かが、私たちをここへ呼んだのです」
その瞬間、家の外で鐘が鳴った。
一度。二度。三度。
四度目の音だけが、霧の中で潰れる。
暖炉の炭が消え、窓の緑光も闇に沈んだ。封筒の封蝋が、内側からひび割れる。
空白の中央に、見知らぬ一文が浮かんだ。
――署名なき者を、灯の下へ連れてくるな。
レオンはユノアの前に立った。
「ここから出る」
「でも、封筒を」
「証拠は持ち出す。誰が仕掛けたか分からない場所で、警告を無視するほど私は無謀ではない」
彼は鍵と封筒を取り、ユノアへ手を差し出した。
「足元に気をつけろ」
「心配してくださるのですか」
「調査の相棒を失うと困る」
そっけない言い方だった。それでも、伸ばされた手は確かに彼女を待っていた。
ユノアはその手を取った。
署名のない家を出る直前、壁の地図に一瞬だけ春の道が浮かんだ。霧港から王都へ伸びる、細い緑の線。その終点には、まだ誰の名も記されていなかった。




