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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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4/20

署名のない家

 階段は、灯台の地下へ続いていた。


 壁に埋め込まれた灯芯の残り火が、二人の足元をぼんやり照らしている。上階から聞こえていた風の音は、三段目を降りたところで途切れた。代わりに、どこか遠くで水が滴る音がする。


「この先に、灯芯庫があるのですか」


「図面では、ここは壁だ」


 先を歩くレオンが答えた。片手には古い燭台、もう片方にはトルネから借りた細い金具が握られている。彼は床の石を一枚ずつ確かめ、傷のついた場所で足を止めた。


 石の隙間から、白い糸のような霧が滲んでいる。


「地下に海があるようです」


「霧港では珍しくない。潮が高い日は、灯台の基礎まで水が上がる」


「水ではありません」


 ユノアはしゃがみ、石へ指を近づけた。触れてはいないのに、消された文字の感触が指先を刺す。


 ――家へ。

 ――名を持たぬ家へ。

 ――灯を守る者は、署名してはならない。


「レオン様。この下に、契約があります」


「また空白か」


「ええ。でも、これは扉の契約とは違います。誰かが文を消したのではなく、最初から署名欄だけが空いています」


 レオンは眉を寄せた。燭台を床へ置き、石の縁へ金具を差し込む。しばらくすると、重い音を立てて床板が持ち上がった。


 そこには階段ではなく、狭い木の廊下があった。廊下の両脇には、海に向かって並んだ窓がある。窓の外は真っ白な霧のはずなのに、その向こうに淡い緑の光が揺れていた。


 二人は廊下を進んだ。


 突き当たりの扉には、金属の札が掛かっている。


 《季節灯守の家。所有者、記載なし》


「家……?」


 レオンが札を外した。裏側には王室契約院の紋章が刻まれているが、日付も管理者の名も削り取られている。


 扉は鍵がかかっていなかった。


 開けた途端、花の匂いが押し寄せた。


 部屋の中央には暖炉があり、火の消えた灰の上に、まだ赤い炭が一つ残っている。窓辺には枯れた鉢植えが三つ。枯れているのに、土だけは濡れていた。壁には港の古い地図と、細かな文字で書かれた紙片が何十枚も貼られている。


「誰かが、今もここを使っています」


「そう見せかけているだけかもしれない」


「炭は今朝まで温かかったはずです」


 ユノアが灰へ手をかざすと、消された声が微かに響いた。


 ――帰る場所を、春とともに返す。


 胸の奥が跳ねた。


 机の上には、一冊の台帳が開かれていた。表紙には何も書かれていない。中には季節灯の修理記録、潮の高さ、港の家々へ配られた種の数が並んでいる。どのページにも、最後には必ず署名欄があった。


 ただし、この台帳だけは違った。


 最後の欄にあるのは、一本の横線だけだった。


「署名がない」


 レオンが低く呟く。


「ここに住む人が、名前を書くのを拒んだのでしょうか」


「違う。この家の契約は、誰か一人が所有するものではない。だから署名する人間を置かなかった」


 彼は台帳のページをめくった。古い紙の間から、薄い紙片が滑り落ちる。


 ユノアが拾い上げた瞬間、紙に残った余白が震えた。


 ――王都へ送る春を、一年分に限る。

 ――港の記憶を、灯守の胸から抜き取る。

 ――抜き取った記憶は、契約院の保管庫へ。


 息が止まった。


「春を送るというのは、魔力だけではなかったのですね」


 ユノアの声に、レオンの顔色が変わる。


「記憶を抜く……」


「この家は、港の人々から春の記憶を集める場所だったのかもしれません」


「違う」


 レオンの声が、初めて揺れた。


「六年前、灯が消えた朝、港の人間は春を忘れていた。花の色も、種を蒔く時期も、誰も思い出せなかった。私はそれを、灯の故障だと思っていた」


「契約院が、記憶まで持ち去ったなら……」


「ここにいた誰かは、それを知っていた」


 壁の地図の隅に、古い筆跡がある。ユノアは目を凝らした。文字はほとんど消されていたが、余白だけが名前の形を残している。


 ――アデラ・セルティス。


 祖母の名だった。


 ユノアの指が震える。


「ご存じの名ですか」


 レオンが尋ねた。ユノアは答えようとして、机の下から聞こえた小さな音に振り向いた。


 誰も触れていない引き出しが、ひとりでに開いている。


 中には、署名のない鍵と、緑色の蝋で封じられた封筒があった。封蝋には王室契約院の紋章が押されている。だが、その中央だけが刃物で削られていた。


 レオンが封筒へ手を伸ばす。


「待ってください。これは、読むために残されたものではありません」


「なら、何のためだ」


「誰かが、私たちをここへ呼んだのです」


 その瞬間、家の外で鐘が鳴った。


 一度。二度。三度。


 四度目の音だけが、霧の中で潰れる。


 暖炉の炭が消え、窓の緑光も闇に沈んだ。封筒の封蝋が、内側からひび割れる。


 空白の中央に、見知らぬ一文が浮かんだ。


 ――署名なき者を、灯の下へ連れてくるな。


 レオンはユノアの前に立った。


「ここから出る」


「でも、封筒を」


「証拠は持ち出す。誰が仕掛けたか分からない場所で、警告を無視するほど私は無謀ではない」


 彼は鍵と封筒を取り、ユノアへ手を差し出した。


「足元に気をつけろ」


「心配してくださるのですか」


「調査の相棒を失うと困る」


 そっけない言い方だった。それでも、伸ばされた手は確かに彼女を待っていた。


 ユノアはその手を取った。


 署名のない家を出る直前、壁の地図に一瞬だけ春の道が浮かんだ。霧港から王都へ伸びる、細い緑の線。その終点には、まだ誰の名も記されていなかった。

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