灯台守は約束を信じない
灯台の扉は、ユノアが手を伸ばすより先に閉じた。
軋んだ音が霧の向こうへ消える。レオンは扉の前に立ったまま、錆びた錠前を見つめていた。鍵穴の周囲だけが新しく削られている。誰かが最近、無理に開けようとした跡だった。
「ここは立入禁止ですか」
「管理所の許可がいる」
「あなたが管理所の責任者では?」
「責任者だから、入れない」
レオンは懐から鍵束を出した。いくつもの鍵が擦れ合い、乾いた音を立てる。その中から細長い銀鍵を選び、錠前へ差し込む。だが、回らなかった。
「壊れているのですか」
「鍵が拒まれている」
彼は鍵を抜いた。扉の中央に刻まれた季節灯の印が、淡い青色に光っている。冬の輪だけが灯り、春を示す緑の輪は深く削られていた。
ユノアは扉へ近づいた。
白い霧の中で、消された文言がかすかに息をしている。扉そのものが古い塩銀紙と同じ声を抱えていた。
――返す。
――約束した。
――春を、港へ。
「この扉には、季節契約が重ねられています」
「読めるのか」
「消された部分だけなら。ここには、春を海へ返すという文言があったようです」
「あったようです、か」
レオンは冷たく笑った。
「余白に残った声を、条文と呼ぶのか」
「少なくとも、何もないとは言えません」
「何もないものに、人は勝手な意味を与える」
彼の言葉が霧より重く落ちた。
そのとき、灯台の脇に積まれた木箱の陰から、小さな影が飛び出した。灰色の帽子をかぶった少年が、両手いっぱいの工具を抱えている。急いで走ったせいか、片方の靴紐がほどけていた。
「代官さま、また鍵を睨んでる!」
「トルネ。仕事場へ戻れ」
「戻る前に、これを見てください」
少年――トルネ・フィオは、工具の一つを掲げた。先端の細い金具に、緑色の粉が付着している。
「灯台の裏階段で拾いました。春の灯芯を削った粉です」
レオンの目が細くなった。
「触るなと言ったはずだ」
「触ったんじゃなくて、落ちていたんです。落ちているものまで見なかったことにするのは、代官さまの得意技でしょうけど」
「トルネ」
「はいはい。黙ります」
少年は口を閉じたが、ユノアへ視線を移した。好奇心の強い目だった。
「王都から来た人ですよね。白い紙を読めるって本当ですか」
「誰から聞いたのですか」
「港では噂が早いんです。春が戻るなら、誰でも助けを借りたい」
レオンが遮るように言った。
「春は戻らない」
「どうして、まだ決まっていないことを決めるのですか」
思わず口にすると、レオンはユノアを見た。灰色の瞳の奥に、怒りではなく、古い傷があった。
「六年前、私は季節灯の修復を約束した」
霧が灯台の壁をなぞっていく。
「王室契約院の役人が原本を持ってきた。私が署名し、春の灯を三日以内に点す。そうすれば、港の畑に種をまけると書かれていた」
「点かなかったのですね」
「点いた。最初の夜だけは」
レオンは削られた緑の輪を見上げた。
「翌朝、春の灯は消えた。契約書を調べると、私が『港の損失について責任を負う』と署名したことになっていた。そんな条文は、署名した時にはなかった」
ユノアの胸が詰まる。
「改竄されたのですか」
「証拠は残らなかった。契約院は、私が読み違えたと言った。港の者たちは、私が約束を破ったと言った」
「あなたは、約束を破っていない」
「結果だけを見れば同じだ」
レオンは銀鍵を握りしめた。手袋の上からでも、関節が白くなるのがわかる。
「だから、私は約束を信じない。書かれた言葉も、書かれていない言葉も。誰かが都合よく消せるなら、それは約束ではなく、刃物だ」
ユノアは扉へ向き直った。
「なら、刃物で切られた跡を探しましょう」
「何?」
「信じる必要はありません。私も、あなたに信じてほしいとは思っていません。ただ、消されたものを見つければ、誰が何のために消したのかは確かめられる」
レオンは黙った。
ユノアは扉の印に指を触れた。冷たい金属の奥で、幾重にも重なった声が震える。春を返す条文のほかに、もう一つ、短い文があった。
――灯守が、二人で読むこと。
息をのんだ。誰かが、この調査を二人のために残したのだろうか。
「何がある」
レオンの問いに、ユノアはすぐ答えられなかった。だが、隠すことは協力契約の条件に反する。
「二人で読め、と消された声が言っています」
「私と、あなたが?」
「そう聞こえました」
「都合のいい幻聴だ」
「そうかもしれません。それでも、確認する価値はあります」
しばらくして、レオンはトルネへ手を差し出した。
「裏階段の粉を見せろ」
少年が嬉しそうに工具を渡す。レオンは粉を指先で確かめ、灯台の壁の下部へ視線を移した。
「扉を開ける。正面ではなく、灯芯庫から入る」
「鍵は?」
「ない。だから、トルネの道具を借りる」
「最初からそう言えばいいのに」
トルネがしゃがみ込み、石床の隙間から細い針金を取り出した。壁際の小さな蓋を外すと、その奥に古い留め金が現れる。
レオンがそれを外した瞬間、灯台の内側で何かが鳴った。
四つあるはずの予告鐘。そのうち、途切れていた四つ目の音だけが、今度は霧港全体へ響き渡る。
閉ざされていた扉が、ゆっくりと開いた。
暗い階段の先から、冷たい風と、かすかな花の匂いが流れてくる。
レオンは先に進まず、ユノアへ道を譲った。
「約束は信じない」
「ええ」
「だが、証拠なら見る」
「それで十分です」
二人は並んで、灯台の暗がりへ足を踏み入れた。
その背後で、トルネが扉を閉める。霧港に残った三つの季節の音が遠ざかり、階段の壁に、消された春の文字だけが淡く浮かび上がった。




