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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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3/20

灯台守は約束を信じない

 灯台の扉は、ユノアが手を伸ばすより先に閉じた。


 軋んだ音が霧の向こうへ消える。レオンは扉の前に立ったまま、錆びた錠前を見つめていた。鍵穴の周囲だけが新しく削られている。誰かが最近、無理に開けようとした跡だった。


「ここは立入禁止ですか」


「管理所の許可がいる」


「あなたが管理所の責任者では?」


「責任者だから、入れない」


 レオンは懐から鍵束を出した。いくつもの鍵が擦れ合い、乾いた音を立てる。その中から細長い銀鍵を選び、錠前へ差し込む。だが、回らなかった。


「壊れているのですか」


「鍵が拒まれている」


 彼は鍵を抜いた。扉の中央に刻まれた季節灯の印が、淡い青色に光っている。冬の輪だけが灯り、春を示す緑の輪は深く削られていた。


 ユノアは扉へ近づいた。


 白い霧の中で、消された文言がかすかに息をしている。扉そのものが古い塩銀紙と同じ声を抱えていた。


 ――返す。


 ――約束した。


 ――春を、港へ。


「この扉には、季節契約が重ねられています」


「読めるのか」


「消された部分だけなら。ここには、春を海へ返すという文言があったようです」


「あったようです、か」


 レオンは冷たく笑った。


「余白に残った声を、条文と呼ぶのか」


「少なくとも、何もないとは言えません」


「何もないものに、人は勝手な意味を与える」


 彼の言葉が霧より重く落ちた。


 そのとき、灯台の脇に積まれた木箱の陰から、小さな影が飛び出した。灰色の帽子をかぶった少年が、両手いっぱいの工具を抱えている。急いで走ったせいか、片方の靴紐がほどけていた。


「代官さま、また鍵を睨んでる!」


「トルネ。仕事場へ戻れ」


「戻る前に、これを見てください」


 少年――トルネ・フィオは、工具の一つを掲げた。先端の細い金具に、緑色の粉が付着している。


「灯台の裏階段で拾いました。春の灯芯を削った粉です」


 レオンの目が細くなった。


「触るなと言ったはずだ」


「触ったんじゃなくて、落ちていたんです。落ちているものまで見なかったことにするのは、代官さまの得意技でしょうけど」


「トルネ」


「はいはい。黙ります」


 少年は口を閉じたが、ユノアへ視線を移した。好奇心の強い目だった。


「王都から来た人ですよね。白い紙を読めるって本当ですか」


「誰から聞いたのですか」


「港では噂が早いんです。春が戻るなら、誰でも助けを借りたい」


 レオンが遮るように言った。


「春は戻らない」


「どうして、まだ決まっていないことを決めるのですか」


 思わず口にすると、レオンはユノアを見た。灰色の瞳の奥に、怒りではなく、古い傷があった。


「六年前、私は季節灯の修復を約束した」


 霧が灯台の壁をなぞっていく。


「王室契約院の役人が原本を持ってきた。私が署名し、春の灯を三日以内に点す。そうすれば、港の畑に種をまけると書かれていた」


「点かなかったのですね」


「点いた。最初の夜だけは」


 レオンは削られた緑の輪を見上げた。


「翌朝、春の灯は消えた。契約書を調べると、私が『港の損失について責任を負う』と署名したことになっていた。そんな条文は、署名した時にはなかった」


 ユノアの胸が詰まる。


「改竄されたのですか」


「証拠は残らなかった。契約院は、私が読み違えたと言った。港の者たちは、私が約束を破ったと言った」


「あなたは、約束を破っていない」


「結果だけを見れば同じだ」


 レオンは銀鍵を握りしめた。手袋の上からでも、関節が白くなるのがわかる。


「だから、私は約束を信じない。書かれた言葉も、書かれていない言葉も。誰かが都合よく消せるなら、それは約束ではなく、刃物だ」


 ユノアは扉へ向き直った。


「なら、刃物で切られた跡を探しましょう」


「何?」


「信じる必要はありません。私も、あなたに信じてほしいとは思っていません。ただ、消されたものを見つければ、誰が何のために消したのかは確かめられる」


 レオンは黙った。


 ユノアは扉の印に指を触れた。冷たい金属の奥で、幾重にも重なった声が震える。春を返す条文のほかに、もう一つ、短い文があった。


 ――灯守が、二人で読むこと。


 息をのんだ。誰かが、この調査を二人のために残したのだろうか。


「何がある」


 レオンの問いに、ユノアはすぐ答えられなかった。だが、隠すことは協力契約の条件に反する。


「二人で読め、と消された声が言っています」


「私と、あなたが?」


「そう聞こえました」


「都合のいい幻聴だ」


「そうかもしれません。それでも、確認する価値はあります」


 しばらくして、レオンはトルネへ手を差し出した。


「裏階段の粉を見せろ」


 少年が嬉しそうに工具を渡す。レオンは粉を指先で確かめ、灯台の壁の下部へ視線を移した。


「扉を開ける。正面ではなく、灯芯庫から入る」


「鍵は?」


「ない。だから、トルネの道具を借りる」


「最初からそう言えばいいのに」


 トルネがしゃがみ込み、石床の隙間から細い針金を取り出した。壁際の小さな蓋を外すと、その奥に古い留め金が現れる。


 レオンがそれを外した瞬間、灯台の内側で何かが鳴った。


 四つあるはずの予告鐘。そのうち、途切れていた四つ目の音だけが、今度は霧港全体へ響き渡る。


 閉ざされていた扉が、ゆっくりと開いた。


 暗い階段の先から、冷たい風と、かすかな花の匂いが流れてくる。


 レオンは先に進まず、ユノアへ道を譲った。


「約束は信じない」


「ええ」


「だが、証拠なら見る」


「それで十分です」


 二人は並んで、灯台の暗がりへ足を踏み入れた。


 その背後で、トルネが扉を閉める。霧港に残った三つの季節の音が遠ざかり、階段の壁に、消された春の文字だけが淡く浮かび上がった。

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