霧港行きの馬車
王都を出て三日目の朝、馬車の窓は白い息で曇っていた。
ユノア・セルティスは、指先で小さな円を描くように窓を拭った。見えたのは、灰色の空と、冬枯れの野ばかりだった。王都を離れるにつれて道は細くなり、石畳は土に変わっている。春を迎えるはずの季節なのに、道端の草には霜が残っていた。
向かいの座席では、レオン・グレイヴが目を閉じている。
眠っているようには見えなかった。背筋はまっすぐで、片手は外套の内側に置かれている。馬車が大きく揺れるたび、彼の指がわずかに動いた。いつでも何かを抜けるようにしているらしい。
ユノアは膝の上の黒い紙を見下ろした。
王都を出る前、レオンが書き直した協力の申し出だった。最初の紙にはなかった文が三つ加えられている。
《調査の範囲は、ユノア・セルティスが必要と判断した場所とする》
《発見した記録は、両者が同時に確認する》
《協力は、いずれの事情によっても婚姻を意味しない》
どれも、ユノアが望んだ条件だ。
「それを何度見ても、文字は増えない」
目を閉じたまま、レオンが言った。
「増えるとは思っていません。ただ、書かれていることを確認しています」
「疑っているのか」
「契約院の官吏なら、疑います」
レオンは薄く目を開けた。灰色の瞳に、窓から差した弱い光が浮かぶ。
「私も官吏だ」
「あなたは、最初から条件を隠しませんでした」
「それだけで信用できると?」
「信用するとは言っていません。今のところ、話を聞く価値があると思っています」
馬車の中に、車輪が泥を踏む音だけが響いた。
レオンは怒らなかった。むしろ、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。
「正直だな」
「祖母に、約束は信じるものではなく、確かめるものだと教えられました」
「その祖母は、契約院にいたのか」
「季節契約の修復に関わっていました。私が余白読みを覚えたのも、祖母からです」
ユノアは窓の外へ目を戻した。
アデラは亡くなる前の数年、霧港について何度も話していた。海から届く塩の匂い。夜明け前に灯台が放つ青い光。春の最初の日にだけ、港中の窓辺へ小さな花が咲くこと。
けれど、祖母が最後に訪れた年から、霧港では春の花が咲かなくなった。
「祖母は、霧港で何を見たのでしょう」
「知っているのか」
「いいえ。亡くなる前に、ひとつだけ言いました。『空白を見つけたら、誰が消したかより、誰のために消されたかを考えなさい』と」
レオンの表情が固くなる。
「その言葉を、王都の官吏にも聞かせたのか」
「まさか。話しても、余白読みの妄言だと笑われます」
「笑わない者もいる」
「あなたは?」
問い返すと、レオンは答えずに窓の外を見た。
道の先に、黒い標石が立っていた。王都の紋章と、海沿いの領地を示す波の印が刻まれている。標石の上部には季節灯を模した四つの輪があったが、そのうち春を表す緑の輪だけがひび割れていた。
「あれは、いつからですか」
「去年の秋から」
「修理は?」
「何度も申請した。王室契約院から返ってきた回答は、季節魔法の偏りは自然現象、標石の損傷は経年劣化というものだった」
「自然に、春の印だけが壊れるのですか」
「だから私は信じていない」
レオンの声には、怒りよりも疲労が滲んでいた。
そのとき、馬車が急に止まった。御者の短い叫び声と、馬が前脚を跳ね上げる音が続く。ユノアの体が座席から投げ出されかけ、向かいのレオンが腕を伸ばした。
固い胸板に肩がぶつかる。
「怪我は」
「ありません」
すぐに離れようとしたが、レオンの手が一瞬だけユノアの腕を支えていた。手袋越しでも、指先の冷たさが伝わる。
外から、御者の声がした。
「申し訳ありません! 道に、何か落ちております!」
レオンが先に降り、ユノアも続いた。道の中央にあったのは、濡れた木箱だった。蓋は外れ、中から古い塩銀紙の束が泥へこぼれている。
「誰かの荷物でしょうか」
「この道で落としたなら、港へ運ぶ途中だろう」
レオンが紙を拾い上げた。表面には文字の跡がほとんどない。水に濡れたせいではなく、最初から文面を抜き取られたような白さだった。
ユノアの耳の奥で、細い音が鳴った。
――返して。
――まだ、港に届いていない。
彼女は反射的に一枚を受け取った。白い紙の端に、かすかな緑色の光が残っている。だが光は文字にならず、紙の外へ逃げるように消えていった。
「何が聞こえた」
レオンの問いに、ユノアは紙を見たまま答えた。
「この記録は、港へ届くはずだった。でも、途中で切り離されたと言っています」
「紙が話したのか」
「正確には、消された文言の残りが」
「同じことだ」
レオンは木箱の底を確かめた。板の内側に、細い釘で留められた紙片がある。そこには王室契約院の発送印が押されていた。日付は半年前。宛先は霧港季節灯管理所。
「半年も、この道に?」
「誰かが隠していたのかもしれません」
ユノアが言うと、レオンは紙片を手渡した。
「なら、持っていく」
「証拠として?」
「証拠になるかどうかは、読んでから決める。だが、勝手に捨てられた記録を、もう一度捨てるつもりはない」
彼は木箱を御者に載せさせ、馬車へ戻った。
午後になると、海の匂いが風に混じり始めた。遠くの空と海の境目が白く霞み、道沿いの木々は葉をつけないまま、霧の向こうへ沈んでいる。
やがて、霧の中から鐘の音が聞こえた。
一度。二度。三度。
四度目の音だけが、途中で途切れた。
「港の到着鐘ですか」
「違う。あれは灯台の予告鐘だ」
「予告?」
「季節灯が点く前に鳴る。四つの音が揃わなければ、灯は正しく海へ届かない」
レオンは窓の外を見つめたまま、低く続けた。
「霧港は、三つの季節だけで一年を回している」
馬車が坂を下りる。
白い霧の切れ目から、港町の屋根が見えた。海に突き出した古い灯台。その頂にある季節灯は、冬の青と秋の金だけを弱く灯している。春を示す緑も、夏の赤も、どこにもなかった。
町の人々は厚い外套を着たまま、黙って歩いている。花を売るはずの店先には、乾いた枝しか並んでいない。
ユノアは膝の上の塩銀紙を見た。
白紙の奥から、今度は声ではなく、ひとつの場所が伝わってくる。灯台の根元。海へ向いた扉。その向こうに、閉じ込められた春の記憶がある。
馬車が港の門をくぐった。
門柱に掲げられた季節契約の標が、風もないのに揺れる。
ユノアが顔を上げると、緑の輪だけが、誰かに削られたように白くなっていた。
「着いた」
レオンが言った。
その声には、歓迎の響きがなかった。まるで彼自身も、この港から何かに試されることを知っているようだった。
ユノアは黒い協力契約を握り直した。
霧港には、春だけでなく、届かなかった記録も眠っている。
そして、灯台の扉は、二人を待つようにゆっくりと軋んだ。




