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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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2/20

霧港行きの馬車

 王都を出て三日目の朝、馬車の窓は白い息で曇っていた。


 ユノア・セルティスは、指先で小さな円を描くように窓を拭った。見えたのは、灰色の空と、冬枯れの野ばかりだった。王都を離れるにつれて道は細くなり、石畳は土に変わっている。春を迎えるはずの季節なのに、道端の草には霜が残っていた。


 向かいの座席では、レオン・グレイヴが目を閉じている。


 眠っているようには見えなかった。背筋はまっすぐで、片手は外套の内側に置かれている。馬車が大きく揺れるたび、彼の指がわずかに動いた。いつでも何かを抜けるようにしているらしい。


 ユノアは膝の上の黒い紙を見下ろした。


 王都を出る前、レオンが書き直した協力の申し出だった。最初の紙にはなかった文が三つ加えられている。


 《調査の範囲は、ユノア・セルティスが必要と判断した場所とする》

 《発見した記録は、両者が同時に確認する》

 《協力は、いずれの事情によっても婚姻を意味しない》


 どれも、ユノアが望んだ条件だ。


「それを何度見ても、文字は増えない」


 目を閉じたまま、レオンが言った。


「増えるとは思っていません。ただ、書かれていることを確認しています」


「疑っているのか」


「契約院の官吏なら、疑います」


 レオンは薄く目を開けた。灰色の瞳に、窓から差した弱い光が浮かぶ。


「私も官吏だ」


「あなたは、最初から条件を隠しませんでした」


「それだけで信用できると?」


「信用するとは言っていません。今のところ、話を聞く価値があると思っています」


 馬車の中に、車輪が泥を踏む音だけが響いた。


 レオンは怒らなかった。むしろ、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。


「正直だな」


「祖母に、約束は信じるものではなく、確かめるものだと教えられました」


「その祖母は、契約院にいたのか」


「季節契約の修復に関わっていました。私が余白読みを覚えたのも、祖母からです」


 ユノアは窓の外へ目を戻した。


 アデラは亡くなる前の数年、霧港について何度も話していた。海から届く塩の匂い。夜明け前に灯台が放つ青い光。春の最初の日にだけ、港中の窓辺へ小さな花が咲くこと。


 けれど、祖母が最後に訪れた年から、霧港では春の花が咲かなくなった。


「祖母は、霧港で何を見たのでしょう」


「知っているのか」


「いいえ。亡くなる前に、ひとつだけ言いました。『空白を見つけたら、誰が消したかより、誰のために消されたかを考えなさい』と」


 レオンの表情が固くなる。


「その言葉を、王都の官吏にも聞かせたのか」


「まさか。話しても、余白読みの妄言だと笑われます」


「笑わない者もいる」


「あなたは?」


 問い返すと、レオンは答えずに窓の外を見た。


 道の先に、黒い標石が立っていた。王都の紋章と、海沿いの領地を示す波の印が刻まれている。標石の上部には季節灯を模した四つの輪があったが、そのうち春を表す緑の輪だけがひび割れていた。


「あれは、いつからですか」


「去年の秋から」


「修理は?」


「何度も申請した。王室契約院から返ってきた回答は、季節魔法の偏りは自然現象、標石の損傷は経年劣化というものだった」


「自然に、春の印だけが壊れるのですか」


「だから私は信じていない」


 レオンの声には、怒りよりも疲労が滲んでいた。


 そのとき、馬車が急に止まった。御者の短い叫び声と、馬が前脚を跳ね上げる音が続く。ユノアの体が座席から投げ出されかけ、向かいのレオンが腕を伸ばした。


 固い胸板に肩がぶつかる。


「怪我は」


「ありません」


 すぐに離れようとしたが、レオンの手が一瞬だけユノアの腕を支えていた。手袋越しでも、指先の冷たさが伝わる。


 外から、御者の声がした。


「申し訳ありません! 道に、何か落ちております!」


 レオンが先に降り、ユノアも続いた。道の中央にあったのは、濡れた木箱だった。蓋は外れ、中から古い塩銀紙の束が泥へこぼれている。


「誰かの荷物でしょうか」


「この道で落としたなら、港へ運ぶ途中だろう」


 レオンが紙を拾い上げた。表面には文字の跡がほとんどない。水に濡れたせいではなく、最初から文面を抜き取られたような白さだった。


 ユノアの耳の奥で、細い音が鳴った。


 ――返して。


 ――まだ、港に届いていない。


 彼女は反射的に一枚を受け取った。白い紙の端に、かすかな緑色の光が残っている。だが光は文字にならず、紙の外へ逃げるように消えていった。


「何が聞こえた」


 レオンの問いに、ユノアは紙を見たまま答えた。


「この記録は、港へ届くはずだった。でも、途中で切り離されたと言っています」


「紙が話したのか」


「正確には、消された文言の残りが」


「同じことだ」


 レオンは木箱の底を確かめた。板の内側に、細い釘で留められた紙片がある。そこには王室契約院の発送印が押されていた。日付は半年前。宛先は霧港季節灯管理所。


「半年も、この道に?」


「誰かが隠していたのかもしれません」


 ユノアが言うと、レオンは紙片を手渡した。


「なら、持っていく」


「証拠として?」


「証拠になるかどうかは、読んでから決める。だが、勝手に捨てられた記録を、もう一度捨てるつもりはない」


 彼は木箱を御者に載せさせ、馬車へ戻った。


 午後になると、海の匂いが風に混じり始めた。遠くの空と海の境目が白く霞み、道沿いの木々は葉をつけないまま、霧の向こうへ沈んでいる。


 やがて、霧の中から鐘の音が聞こえた。


 一度。二度。三度。


 四度目の音だけが、途中で途切れた。


「港の到着鐘ですか」


「違う。あれは灯台の予告鐘だ」


「予告?」


「季節灯が点く前に鳴る。四つの音が揃わなければ、灯は正しく海へ届かない」


 レオンは窓の外を見つめたまま、低く続けた。


「霧港は、三つの季節だけで一年を回している」


 馬車が坂を下りる。


 白い霧の切れ目から、港町の屋根が見えた。海に突き出した古い灯台。その頂にある季節灯は、冬の青と秋の金だけを弱く灯している。春を示す緑も、夏の赤も、どこにもなかった。


 町の人々は厚い外套を着たまま、黙って歩いている。花を売るはずの店先には、乾いた枝しか並んでいない。


 ユノアは膝の上の塩銀紙を見た。


 白紙の奥から、今度は声ではなく、ひとつの場所が伝わってくる。灯台の根元。海へ向いた扉。その向こうに、閉じ込められた春の記憶がある。


 馬車が港の門をくぐった。


 門柱に掲げられた季節契約の標が、風もないのに揺れる。


 ユノアが顔を上げると、緑の輪だけが、誰かに削られたように白くなっていた。


「着いた」


 レオンが言った。


 その声には、歓迎の響きがなかった。まるで彼自身も、この港から何かに試されることを知っているようだった。


 ユノアは黒い協力契約を握り直した。


 霧港には、春だけでなく、届かなかった記録も眠っている。


 そして、灯台の扉は、二人を待つようにゆっくりと軋んだ。

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