王都公開審理
王都の鐘が十時を告げるころ、契約院の大広間には、立ったままの人々まであふれていた。
高い天窓から差す光は白く、塩銀紙を敷いた中央の長卓だけを冷たく照らしている。傍聴席には貴族、商人、記録修復士、そして霧港から夜通し船に揺られてきた港の者たちがいた。トルネの隣には灯台工房の親方が座り、膝の上で何度も帽子を握り直している。
壇上に立つセドリック・ヴァレルは、王室契約院長官の紫紋章を胸につけていた。
「本審理の争点は単純です。霧港の季節契約に、王都へ春を返還する第七条が存在したか否か。そして、提出された紙片が原本たり得るか」
彼の声はよく通った。聞く者に、もう答えが決まっていると思わせる声だった。
「まず申し上げます。第七条は存在しません。近年の異常気象を、契約院への責任転嫁に利用しているだけです」
ざわめきが起こる。ユノアは長卓の端に置かれた二枚の紙を見た。ひとつは王都が原本と称する季節契約。もうひとつは、旧鐘楼の地下から運び出した偽原本の断片だった。見た目はよく似ている。だが、余白の奥には異なる声が残っていた。
「ユノア・セルティス。証言を」
呼ばれて、ユノアは椅子から立った。
長卓の前には、読む者の魔力を測るための透明な水晶盤がある。契約院の術師たちは、彼女が空白を読む瞬間に不正がないか監視していた。レオンは傍聴席ではなく、証人席の隣に立っている。代官の紋章は外し、灯台守としての古い腕輪だけを身につけていた。
「私は、塩銀紙から消された文言を読み取ることができます。ここにある二枚の紙は、同じ契約を書き写したものではありません」
「空白を読めるという話を、証拠にするおつもりか」
セドリックが遮った。
「力の性質ではなく、残された結果を確認します」
ユノアは一枚目の紙に指を触れた。塩銀紙の白い面から、冷えた声が立ちのぼる。
――必要に応じ、王都は灯脈の一部を受け取る。
書かれている条文だった。次に、二枚目の紙へ触れる。
――受け取った季節は、春の潮が満ちる年に、霧港へ返す。
消された言葉は、ひとつではなかった。その後ろに、別の署名の気配が重なっている。
――港の灯守と、港に住む者の代表が同意した場合に限る。
ユノアは顔を上げた。
「第七条は、王都が一方的に季節を持ち去る条文ではありません。返還の期限と、港側の同意を定めた条文です。現在の原本では、その部分だけが空白になっています」
「読み手の感想にすぎない」
「では、紙に尋ねます」
ユノアは春の灯芯を布から取り出した。淡い緑の光が大広間の天井へ伸び、二枚の塩銀紙の縁を照らす。すると偽原本の空白に、細い銀色の線が浮かび上がった。文章ではない。契約を結んだ者の数を示す、古い照合印だった。
親方が息をのむ。
「その印は、工房の保管帳にもある。灯守だけの契約なら、あんな印はつかない」
トルネも立ち上がった。
「港の鐘を鳴らす前に、毎年、住民代表が集まっていた。俺は子どもだったけど、親方から聞いてる。春を王都へ送る年は、返す日も一緒に決めたって」
セドリックの眉がわずかに動く。
「記憶と古い帳面で、王室契約院の原本を否定するのか」
「否定しているのは、私たちではありません」
レオンが口を開いた。
「ここにある偽原本が、港の同意を消している。俺の父が代官だった時期に、灯台の記録と住民の署名が同時に失われた。俺はそれを見て見ぬふりをしていた」
広間の視線が彼へ集まった。レオンは一度だけ目を閉じ、それからまっすぐ前を向いた。
「代官の名で、港の意思を王都へ渡した。父の罪だけではない。役目を理由に黙っていた俺の責任でもある」
セドリックが机を叩いた。
「自ら罪を認めるなら、証言の信用性は失われる!」
「いいえ」
ユノアは静かに返した。
「罪を隠すための証言なら、彼は今ここに立ちません。契約の空白は、都合の悪い言葉を消しても、消した人の恐れまでは消せないのです」
水晶盤が鳴った。透明な表面に、誰にも読めないはずの文字が次々と浮かぶ。古い照合印が、法廷の記録紙へ転写されていく。
――返還を求める者、霧港。
――同意を求める者、灯守。
――記録を残す者、契約院。
三つの名が並んだところで、セドリックが懐から黒い封蝋の印を取り出した。
「その術式を停止させよ。契約院長官の権限により、提出物を無効とする」
印が卓へ押しつけられる。黒い波が紙面を覆い、春の光が押し返された。
しかし、光は消えなかった。
レオンが灯台守の腕輪を卓に置いた。トルネが工房の保管帳を開く。親方が港の住民名簿を差し出す。傍聴席から、ひとり、またひとりと、霧港の者たちが自分の名を記録官へ告げた。
「俺たちは、春を返してほしい」
「港の同意なしに、季節を持っていかないで」
「この名を、空白にしないで」
声が重なり、塩銀紙の上に新しい線が走った。消された第七条の空白を囲むように、幾つもの名前が灯る。
記録官が震える手で羽根ペンを動かした。
「審理記録、第七条の存在を示す複数の照合印と証言を確認。原本の再鑑定、および王都への季節魔法移送記録の全面開示を命じる――」
結論ではなかった。けれど、もう誰にも消せない始まりだった。
セドリックの黒い封蝋が、ひび割れて床へ落ちる。
ユノアは隣のレオンを見た。彼は彼女の手を取らなかった。ただ、選ぶ余地を残すように、手のひらをわずかに開いている。
ユノアは自分から、その手を握った。
公開審理の記録には、港の名と、灯守の名と、契約院の名が並んだ。その最後に、二人の名前も記されることになる。
白紙だった場所へ、誰かの命令ではなく、自分たちの意思で。




