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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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17/20

王都公開審理

 王都の鐘が十時を告げるころ、契約院の大広間には、立ったままの人々まであふれていた。


 高い天窓から差す光は白く、塩銀紙を敷いた中央の長卓だけを冷たく照らしている。傍聴席には貴族、商人、記録修復士、そして霧港から夜通し船に揺られてきた港の者たちがいた。トルネの隣には灯台工房の親方が座り、膝の上で何度も帽子を握り直している。


 壇上に立つセドリック・ヴァレルは、王室契約院長官の紫紋章を胸につけていた。


「本審理の争点は単純です。霧港の季節契約に、王都へ春を返還する第七条が存在したか否か。そして、提出された紙片が原本たり得るか」


 彼の声はよく通った。聞く者に、もう答えが決まっていると思わせる声だった。


「まず申し上げます。第七条は存在しません。近年の異常気象を、契約院への責任転嫁に利用しているだけです」


 ざわめきが起こる。ユノアは長卓の端に置かれた二枚の紙を見た。ひとつは王都が原本と称する季節契約。もうひとつは、旧鐘楼の地下から運び出した偽原本の断片だった。見た目はよく似ている。だが、余白の奥には異なる声が残っていた。


「ユノア・セルティス。証言を」


 呼ばれて、ユノアは椅子から立った。


 長卓の前には、読む者の魔力を測るための透明な水晶盤がある。契約院の術師たちは、彼女が空白を読む瞬間に不正がないか監視していた。レオンは傍聴席ではなく、証人席の隣に立っている。代官の紋章は外し、灯台守としての古い腕輪だけを身につけていた。


「私は、塩銀紙から消された文言を読み取ることができます。ここにある二枚の紙は、同じ契約を書き写したものではありません」


「空白を読めるという話を、証拠にするおつもりか」


 セドリックが遮った。


「力の性質ではなく、残された結果を確認します」


 ユノアは一枚目の紙に指を触れた。塩銀紙の白い面から、冷えた声が立ちのぼる。


 ――必要に応じ、王都は灯脈の一部を受け取る。


 書かれている条文だった。次に、二枚目の紙へ触れる。


 ――受け取った季節は、春の潮が満ちる年に、霧港へ返す。


 消された言葉は、ひとつではなかった。その後ろに、別の署名の気配が重なっている。


 ――港の灯守と、港に住む者の代表が同意した場合に限る。


 ユノアは顔を上げた。


「第七条は、王都が一方的に季節を持ち去る条文ではありません。返還の期限と、港側の同意を定めた条文です。現在の原本では、その部分だけが空白になっています」


「読み手の感想にすぎない」


「では、紙に尋ねます」


 ユノアは春の灯芯を布から取り出した。淡い緑の光が大広間の天井へ伸び、二枚の塩銀紙の縁を照らす。すると偽原本の空白に、細い銀色の線が浮かび上がった。文章ではない。契約を結んだ者の数を示す、古い照合印だった。


 親方が息をのむ。


「その印は、工房の保管帳にもある。灯守だけの契約なら、あんな印はつかない」


 トルネも立ち上がった。


「港の鐘を鳴らす前に、毎年、住民代表が集まっていた。俺は子どもだったけど、親方から聞いてる。春を王都へ送る年は、返す日も一緒に決めたって」


 セドリックの眉がわずかに動く。


「記憶と古い帳面で、王室契約院の原本を否定するのか」


「否定しているのは、私たちではありません」


 レオンが口を開いた。


「ここにある偽原本が、港の同意を消している。俺の父が代官だった時期に、灯台の記録と住民の署名が同時に失われた。俺はそれを見て見ぬふりをしていた」


 広間の視線が彼へ集まった。レオンは一度だけ目を閉じ、それからまっすぐ前を向いた。


「代官の名で、港の意思を王都へ渡した。父の罪だけではない。役目を理由に黙っていた俺の責任でもある」


 セドリックが机を叩いた。


「自ら罪を認めるなら、証言の信用性は失われる!」


「いいえ」


 ユノアは静かに返した。


「罪を隠すための証言なら、彼は今ここに立ちません。契約の空白は、都合の悪い言葉を消しても、消した人の恐れまでは消せないのです」


 水晶盤が鳴った。透明な表面に、誰にも読めないはずの文字が次々と浮かぶ。古い照合印が、法廷の記録紙へ転写されていく。


 ――返還を求める者、霧港。

 ――同意を求める者、灯守。

 ――記録を残す者、契約院。


 三つの名が並んだところで、セドリックが懐から黒い封蝋の印を取り出した。


「その術式を停止させよ。契約院長官の権限により、提出物を無効とする」


 印が卓へ押しつけられる。黒い波が紙面を覆い、春の光が押し返された。


 しかし、光は消えなかった。


 レオンが灯台守の腕輪を卓に置いた。トルネが工房の保管帳を開く。親方が港の住民名簿を差し出す。傍聴席から、ひとり、またひとりと、霧港の者たちが自分の名を記録官へ告げた。


「俺たちは、春を返してほしい」


「港の同意なしに、季節を持っていかないで」


「この名を、空白にしないで」


 声が重なり、塩銀紙の上に新しい線が走った。消された第七条の空白を囲むように、幾つもの名前が灯る。


 記録官が震える手で羽根ペンを動かした。


「審理記録、第七条の存在を示す複数の照合印と証言を確認。原本の再鑑定、および王都への季節魔法移送記録の全面開示を命じる――」


 結論ではなかった。けれど、もう誰にも消せない始まりだった。


 セドリックの黒い封蝋が、ひび割れて床へ落ちる。


 ユノアは隣のレオンを見た。彼は彼女の手を取らなかった。ただ、選ぶ余地を残すように、手のひらをわずかに開いている。


 ユノアは自分から、その手を握った。


 公開審理の記録には、港の名と、灯守の名と、契約院の名が並んだ。その最後に、二人の名前も記されることになる。


 白紙だった場所へ、誰かの命令ではなく、自分たちの意思で。

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