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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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18/20

白紙に戻らない名前

 審理の翌朝、契約院の記録庫は、開け放たれた扉の向こうまで人で埋まっていた。


 長官の権限で封じられていた棚がひとつずつ開かれ、古い移送記録や灯台の修繕帳が、机の上へ運び出されていく。記録官たちは眠そうな目をこすりながら、王都へ送られた季節魔法の量と、霧港へ返された量を照合していた。


 「返還の記録は、二十七年前から途切れています」


 若い記録官が、震える声で告げた。


 「けれど移送の記録は、毎年残っている。春だけじゃない。夏の終わりに集めた灯脈まで、王都の温室へ送られているわ」


 机の上の帳面には、整った数字が並んでいた。数字だけを見れば、契約に従った正当な取引に思える。けれど余白に触れたユノアの指先には、紙の底から押し殺された声が伝わってきた。


 ――返すと、書いてあった。


 ――私たちは、返ると信じていた。


 言葉は幾重にも重なっていた。灯台守の声、漁師の声、塩を運ぶ商人の声。誰もが同じ約束を聞き、春が戻る日を待っていたのだ。


 ユノアは指を離し、息を吐いた。


 「ここにあるのは、消された条文だけではありません。返還を待っていた人たちの名前も、記録から切り取られています」


 レオンは隣で、開かれた帳面を見下ろしていた。徹夜続きの顔に疲労はあったが、目をそらさなかった。


 「名前を戻せるか」


 「私には、消されたものを読むことしかできないわ」


 「それで十分だ。読む人がいなければ、消されたことすら分からない」


 その言葉に、ユノアの胸の奥が小さく痛んだ。


 読むことしかできない。かつては、それを価値のない力だと思っていた。誰かが書いた契約の隙間を見つけても、自分で条文を決めることはできない。だからこそ、王都の人々は彼女を便利な目として扱い、婚姻契約さえ彼女の知らないところで整えようとした。


 記録庫の入口から、トルネの声が響いた。


 「親方が呼んでる! 港の名簿を写すなら、俺たちも手伝うってさ」


 彼の後ろには、霧港から来た人々が並んでいた。昨日の審理で名を告げた者たちだ。疲れているはずなのに、誰も帰ろうとはしなかった。


 「新しい名簿を作るんだって。今度は王都の許可がなくても、港に置く名簿をさ」


 親方が大きな紙束を抱えて入ってくる。


 「書くのは、本人だ。代わりに誰かが書くと、また都合よく消されるからな」


 机が足りず、床にも紙が広げられた。ひとりずつが自分の名前を書き、その横に、春の灯を返してほしいという短い意思を記していく。文字の読めない者は、指で印をつけ、隣の者に確かめてもらった。


 ユノアが余白を読むと、紙の上に淡い緑の線が浮かんだ。名を書いた人のところから線が伸び、隣の名前へつながっていく。


 「つながっている……」


 「契約になったのか?」とトルネが尋ねる。


 「まだ条文ではないわ。これは、誰かに命令された同意ではなくて、自分で選んだ意思が同じ場所にあるという印」


 「じゃあ、契約にできる?」


 「できる。でも、私が勝手に言葉を足してはいけない」


 ユノアは新しい紙の前に座り、筆を置いた。


 「港の人たちが、何を望むのか。いつまでに、誰が、どう返すのか。それを聞いてから書くの」


 人々は顔を見合わせ、少しずつ言葉を出した。春の灯は港の畑と海へ返すこと。王都へ送る季節魔法が必要な年には、港と王都の双方が量と期限に同意すること。灯台の記録は港にも保管し、改めるときは住民の代表が立ち会うこと。


 誰かひとりのためではない条文が、何度も書き直されていった。


 夕方になって人の波が途切れると、記録庫には二人だけが残った。窓の外では、王都の空に薄い霧がかかっている。遠い海から、春の気配を含んだ風が届いていた。


 レオンが懐から、古い封筒を取り出した。


 「これは、最初に君へ渡された婚姻契約だ」


 中の塩銀紙は、相変わらず白かった。けれど以前のような、何もない白さではない。ユノアが指を触れると、紙の奥からひとつの声が聞こえた。


 ――名前を書けば、役目を引き受けたものとする。


 その一文の下には、彼女の知らない条件がいくつも隠されていた。セルティス家の記録修復の技術を王都へ差し出すこと。霧港の代官に従うこと。拒否した場合は、家の借財を理由に身柄を契約院へ預けること。


 ユノアは紙を伏せた。


 「この契約には、私の名前がある。でも、私の意思はない」


 「だから破棄する」


 レオンは封筒ごと、卓上の灯へ差し出した。塩銀紙は青い炎を上げ、隠されていた条件も、王都の印も、音もなく崩れていく。


 「仮契約も、港の問題が解決したら終わりにする。君がそう望むなら」


 差し出されたのは、逃げ道だった。命令ではなく、選ぶための余白だった。


 ユノアは焼け跡に残った白い灰を見つめた。そこにはもう、誰かが決めた名前を守る必要はない。


 「レオン。あなたは、私に何を望んでいるの?」


 彼はすぐには答えなかった。灯台守の腕輪を外し、彼女の前に置く。


 「港を守る相手がほしい。俺が間違えたとき、黙らずに言ってくれる相手が。……それから、君と一緒に朝を迎えたい」


 不器用で、飾り気のない言葉だった。それでもユノアには、どんな美しい求婚文より信じられた。


 「私は、誰かの契約に名前を貸すつもりはないわ」


 「分かっている」


 「私自身が書く言葉なら、あなたと結びたい」


 レオンの瞳が揺れた。彼は手を伸ばしかけ、また止める。ユノアは今度も、自分からその手を取った。


 記録庫の中央には、港の人々が書いた名簿がある。ひとつひとつの名前は、もう白紙へ戻らなかった。消されても、誰かが代わりに取り戻すのではない。本人がここにいると、何度でも示せる形で残っている。


 「港へ戻ったら、正式な契約を書きましょう」


 ユノアが言うと、レオンは静かにうなずいた。


 「婚姻契約も?」


 「ええ。今度は、私たち二人が読み、二人で書くの」


 窓の向こうで、王都の鐘が鳴った。遠く離れた霧港でも、きっと灯台の火が応える。


 白紙だった場所に、ユノア・セルティスの名前がある。隣には、レオン・グレイヴの名前がある。


 それは誰かに与えられた役目ではなかった。二人が選び、二人が守ると決めた、まだ始まったばかりの約束だった。

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