霧の向こうの告白
海からの風は、まだ冷たかった。
灯台の地下通路を抜けた三人は、岩場に隠されていた小舟へ乗り込んだ。トルネが綱を解き、レオンが櫂を取る。港へ戻れば監査官に見つかる。王都行きの船に乗るには、夜明けまでに南の入り江へ着かなければならない。
ユノアは外套の内側に手を入れた。青い布で包んだ春の灯芯が、かすかな熱を返している。火はないのに、掌のなかで脈打っていた。
「それ、本当に春の色だね」
トルネが振り返る。
「港の季節灯は、もう何年も緑に光らなかった。親方が言ってたよ。春は消えたんじゃなくて、どこかにしまわれてるんだって」
「しまった者がいるなら、返す者もいるはずです」
ユノアが答えると、レオンの櫂が一度だけ水を大きく叩いた。
霧が濃くなってきた。海面と空の境目が消え、小舟は白い壁のなかを進んでいく。音だけが遠くまで響いた。どこかで鐘が鳴り、続いて、誰かの声が聞こえた。
――署名を。
ユノアは息を止めた。
霧のなかに、王都で渡された白紙の婚姻契約が浮かぶ。紙面には何もない。けれど余白の奥から、幾つもの声が重なっていた。家を守るため。港を守るため。国を守るため。そう言いながら、誰かが別の誰かの名前を使い、季節を奪っていく。
「ユノア」
レオンの声が、幻を断ち切った。
「ここにいるか」
「はい。少し、空白の声を聞いただけです」
「無理に読むな。灯芯を見張るだけでいい」
「あなたは、いつもそう言いますね」
ユノアは苦笑した。「読むな」「近づくな」「俺の後ろにいろ」。それは彼の不器用な気遣いだった。だが今は、その言葉を受け入れたくなかった。
「私は、あなたの後ろに隠れるためにここまで来たのではありません」
「分かっている」
櫂を動かしながら、レオンは言った。
「分かっているから、怖いんだ」
霧の向こうで、水が小舟の底を擦った。トルネが船首を確かめるため前へ移り、二人の間に静けさが落ちる。
「何が、ですか」
「君が俺の隣に立てることを知ってしまった。俺の命令も、父の名も、灯台守という役目も、君を縛れない。なら、君がここにいる理由は、俺にはない」
「理由ならあります」
「契約があるから?」
「いいえ」
ユノアは外套の前を押さえ、彼を見つめた。霧に遮られていても、灯脈の光だけは見える。緑の光は、以前より弱い。けれど消えてはいなかった。
「レオンが、私の言葉を待ってくれたからです。私の力を道具として扱わず、読んだものをどうするか、私に尋ねてくれたから。誰かに決められた婚姻から逃げてきた私に、もう一度、自分で選ぶ機会をくれたからです」
レオンは櫂を止めた。
「それは、代官としての責任だ」
「なら、今から言うことは代官への返事ではありません」
ユノアの声は震えた。それでも、空白へ手を伸ばすときのように、言葉をひとつずつ置いていく。
「私は、あなたが好きです。役目を背負っているからではなく、迷いながらも人の選ぶ権利を守ろうとする、レオンという人が」
霧が、二人の間を流れた。
レオンは目を伏せたまま、長い間答えなかった。拒まれることには慣れている。けれど、受け取った言葉を返すことには慣れていないのだと、ユノアには分かった。
「俺は、君に言う資格がないと思っていた」
「資格は必要ありません」
「そうだな。君は、いつもそう言う」
彼は苦く笑い、それからまっすぐにユノアを見た。
「俺も、君が好きだ。君が俺を必要としているからではない。君がいなくても立てる人だと知っているからこそ、それでも隣にいてほしいと思う」
言葉が、灯芯の熱よりも深く胸へ届いた。
「では、王都で全部を明らかにしたあとも?」
「ああ。父の罪が公になり、俺が代官でなくなっても。港に戻れなくなっても、君が望むなら、俺は君の隣に立つ」
「私が望まなければ?」
「そのときは、君の決めた道を見送る」
それは寂しい答えだった。けれど、ユノアが初めて自分のために欲しいと思った、自由な答えでもあった。
「なら、望みます」
ユノアは彼の手に自分の手を重ねた。櫂を握っていた指は冷えていたが、触れたところから灯脈が静かに伝わってくる。
「王都で、私たちの契約を自分たちで選びましょう。誰かの白紙を埋めるのではなく」
「約束する」
「その言葉も、署名も、二人で確かめます」
船首からトルネの声が飛んだ。
「見える! 霧の向こうに、南入り江の灯だ!」
白い壁の先に、ひとつの橙色の光が現れた。やがて霧が薄れ、停泊している王都行きの船と、その向こうの高い帆柱が見えてくる。
ユノアは灯芯を包んだ布を開いた。淡い緑が、朝の気配のない海を照らした。
霧の向こうに、まだ春は見えない。
それでも二人は、同じ方向を向いていた。次に置くべき言葉を、誰かに奪われないために。自分たちが選んだ名前を、皆の前で告げるために。
レオンの手が、離れずにそこにあった。




