偽物の原本
レオンの父の名が、白い紙の上で凍りついていた。
ユノアは封筒から最後の頁を取り出し、窓から差す薄明かりにかざした。紙は古びて見えるよう灰色の粉を塗られているが、繊維の奥には新しい銀砂が残っている。封蝋も同じだった。古い印を溶かし、別の頁へ押し直した跡がある。
「この署名は、本当にお父さまのものですか」
レオンは答えず、頁の下端に指を置いた。
「字は同じだ。だが、父はこの時期にはもう灯台を離れていた」
「離れていた?」
「王都へ呼ばれた。季節灯の故障について報告するためだと聞いている。戻ったときには、何も話さなくなっていた」
レオンの指先から、淡い青い光が漏れた。紙の上に残った灯脈が反応し、署名の周囲に細い線が浮かぶ。線は一度、父の名を囲み、それから頁の外へ伸びていった。
ユノアは息を止めた。余白に書かれていたのは、署名の効力を定める文ではなかった。
――署名者は、別紙に記された内容を読み、港の代表へ説明したうえで同意するものとする。
その一文が、最後の頁から消されている。
「お父さまは、内容を説明されたのでしょうか」
「分からない。ただ、父の署名の上にある灯脈は、途中で切れている」
レオンが指した場所には、銀の線が不自然に途切れていた。署名とは、書いた者の意思と契約の条文を結ぶものだ。けれど、この線は名の途中で押しつぶされ、別の魔法で縫い合わされている。
「署名を写したのです」
ユノアの声が震えた。
「本人が書いた字を使って、別の紙へ移した。だから形は同じでも、灯脈がつながっていない」
冬庫の床に置かれた契約書へ、ユノアは手を伸ばした。最初の頁から順に余白を読み取っていく。第七条の下には、春の記憶を霧港へ返す手順が残っていた。港の三つの区画から代表を選び、灯台守とともに季節灯へ署名すること。その代表には、契約の全文を読み聞かせ、異議を述べるための七日間を与えること。
ところが、偽の最後の頁には、その手順がなかった。
代わりに、黒い文字の隙間から白い空白がのぞいている。
――王室契約院が認めた代筆人の署名を、港の全代表の同意とする。
「これなら、代表を選ぶ必要がない。王都が選んだ一人に署名させれば、港全体が冬を望んだことになる」
「十七年前、父はそれを止めようとしたのかもしれない」
レオンは顔を上げた。その目に、怒りよりも深い困惑があった。
「だが、なぜ父の署名が使われた。父が自分で書いた原本があるなら、こんな偽物は必要ない」
「原本が残っているからこそ、偽物が必要だったのです」
ユノアは古い頁をめくった。塩銀紙の綴じ目に、ごく細い裂け目がある。最後の頁だけではない。第七条と署名欄の間に、紙を一枚抜き取った跡があった。
「本当の最後の頁は、別の場所に隠されている。偽物を原本として扱わせるためには、原本の存在を消さなければならないから」
トルネが床に膝をつき、円陣の線を調べた。
「じゃあ、さっき逃げた男は、それを探していたの?」
「いいえ。彼が持っていた季節印は、偽原本を有効にするための鍵です」
ユノアは緑の印を見つめた。表面には細かな傷が増えている。誰かが印を無理に契約書へ押しつけ、別の署名を重ねようとしたのだろう。
「季節印が偽原本を認めれば、こちらの証拠は改竄だとされます」
「ならば、印に先に真実を読ませる」
レオンはそう言って、印をユノアの前へ置いた。
「できるか」
「やってみます」
「無理はするな。君の力を、証拠にするために壊してほしくはない」
その言葉に、ユノアは一瞬だけ目を伏せた。王都では、余白読みの力が役に立つなら使われ、役に立たないなら白紙の令嬢と呼ばれた。けれどレオンは、力より先に彼女の意思を尋ねている。
「壊れるかどうかを決めるのは、私です」
ユノアは印に触れた。
冷たい光が掌へ流れ込む。海の底に沈んだ鐘の音が聞こえ、幾重にも重ねられた署名がほどけていった。冬を選んだという文字の下から、別の言葉が浮かび上がる。
――本契約は、港の代表三名が同意しない限り成立しない。
さらに、消された署名の一つが現れた。レオンの父の名の隣に、港の薬師と旧鐘楼の管理人の名が並んでいる。二人の署名には、同じように途中で切れた灯脈が残っていた。
「三人とも、説明を受けていない。だから本契約は成立していなかった」
レオンが低く言った。
「そうです。成立していない契約を、王都は十七年間、港の意思として使っていた」
そのとき、冬庫の外で馬のいななきが上がった。
続いて扉を叩く音。三度、間を置いて二度。王室契約院の公式の合図だった。
「開門せよ。監査の権限により、季節契約と季節印を引き渡せ」
レオンが立ち上がり、ユノアの前に立った。
「時間を稼げるのは、長くて数分だ」
「逃げるのですか」
「証拠を持って、港へ戻る。ここで捕まれば、偽物が原本として封じられる」
ユノアは最後の頁を封筒へ戻した。けれど、すぐには歩き出さなかった。
「レオン。私たちは、何を根拠に港の人たちへ説明しますか。王都の契約は無効だと伝えるなら、私たち自身の約束も、同じように疑われます」
レオンは黙った。
偽原本の隣には、空白の紙が一枚残っている。誰の名も、何の条件も記されていない、白い塩銀紙だ。
「なら、まず私たちが書く」
彼は紙を見つめたまま言った。
「誰かに決められた契約ではなく、二人が読んで、二人が断れる約束を」
扉の向こうで、封印を破る魔法が鳴った。
ユノアは白紙を抱え、レオンの手を取る。今度は冷気ではなく、確かな灯脈が二人の間を走った。
「急ぎましょう。偽物の原本より先に、私たちの言葉を港へ届けます」
冬庫の奥の壁が、緑の光に照らされて震えた。隠された頁の在りかを示すように、古い鐘の音が一度だけ響いた。




