冬を選んだ理由
馬車の轍は、港の北側へ続いていた。
霧のなかで消えかける緑の光を、レオンの灯脈が追っている。道の両側には潮風に錆びた倉庫が並び、閉じた扉の隙間から、冷えた海の匂いが流れてきた。
「この先に何があるのですか」
ユノアが尋ねると、レオンは前を見たまま答えた。
「昔の季節倉庫だ。今は使われていない」
「季節をしまう倉庫?」
「正確には、季節灯へ送る前の記録と燃料を置いていた場所だ。春の種子、夏の潮、秋の風、冬の氷。それぞれを魔法に変えるためのものが保管されていた」
トルネが息を切らしながら追いつく。
「あそこ、十年前から鍵がかかったままだよ。港の大人たちは、冬庫って呼んでる」
冬庫。その名を聞いた瞬間、ユノアの胸の奥で、薄い紙をめくるような音がした。
誰かが記録から消した言葉が、遠くで呼んでいる。
倉庫の前には、王室契約院の馬車が止まっていた。御者の姿はない。扉には新しい銀鎖が巻かれ、王室契約院の封蝋が押されている。
「中へ入る」
レオンが手を伸ばしたが、ユノアはその袖をつかんだ。
「待ってください。これは普通の封印ではありません」
封蝋の表面には、文字が一つも刻まれていない。けれど、赤い縁の内側に大きな空白が沈んでいる。余白読みの力を重ねると、消された文が浮かび上がった。
――霧港の住民は、冬の継続を望むものとする。
その下に、別の文が重ねられている。
――反対の署名は、春の返還を妨げる行為と見なす。
「冬を選んだ、という記録は、住民の意思ではありません」
ユノアは鎖から手を離した。
「冬を拒めば、春を返す契約に反対したことにされる。選んだのではなく、選ばされていたのです」
レオンの顔に、苦い影が落ちた。
「十七年前、港で大きな嵐があった。灯台の季節灯が壊れ、春の魔力が海へ漏れた。王都は修理の条件として、冬の季節印を港へ残した」
「冬を残すことが、修理の条件?」
「春を返すには、冬を固定して灯脈を安定させる必要がある、と説明された。皆、船を失い、畑も凍っていた。王都の言うことを信じるしかなかった」
レオンは鎖に触れ、灯を流した。銀鎖が青く光り、封蝋が静かに割れる。扉の向こうから、乾いた紙の匂いがした。
内部には木箱が積まれていた。箱の側面には、港の区画名と住民の家名が並んでいる。そのほとんどに、冬を示す白い印が押されていた。
トルネが一番手前の箱を開ける。中には古い署名簿と、凍ったように白い塩銀紙が入っていた。
「これ、母さんの名前がある」
少年の声が震えた。
ユノアは簿冊を受け取り、ページの余白を読む。署名の横には、誰にも見えない文が残っていた。
――内容を読めない者は、冬の継続に同意したものとする。
住民たちは、何を選ぶのか説明されないまま、指先を紙に押しつけていたのだ。
「だから、春の返還に必要な三名の代表が見つからなかったのですね」
「代表は、最初から同意したことにされていた」
レオンの声が低くなる。
奥の棚から、かすかな物音が聞こえた。二人が灯を向けると、黒い外套の男が窓を開けようとしていた。男の手には、奪われた季節印がある。緑の輪は弱々しく明滅していた。
「返して!」
ユノアが叫ぶ。男は印を握り込み、窓の外へ身を乗り出した。
レオンの灯脈が床を走り、男の足元を縛る。だが、男は印を冬庫の中央へ投げた。床に描かれた古い円陣が白く燃え、倉庫いっぱいに冷気が広がった。
「レオン!」
ユノアは反射的に彼の手を取る。冷気は二人の間を裂こうとしたが、触れ合った指先から灯脈がつながった。青い光が円陣の線を逆向きにたどり、季節印を床へ落とす。
男は窓から逃げた。トルネが追おうとしたが、レオンが首を振る。
「まず印だ。ここでまた奪われれば、港全体が冬の証人にされる」
ユノアは印を拾わず、周囲の紙を見た。円陣の中央に、古い原本らしき契約書が置かれている。その最初の頁には、春の返還を約束する第七条が確かに残っていた。
しかし、最後の頁だけが新しかった。紙の色も、封蝋の匂いも違う。
「これは原本ではありません。誰かが最後の頁だけを差し替えています」
余白には、さらに一文が浮かんだ。
――冬を選んだ理由を知られたとき、偽りの原本は効力を失う。
レオンがユノアを見る。
「理由を、港の人たちに伝える必要がある」
「ええ。冬が必要だったのではなく、冬しか選べないようにされた。その証拠を、今度こそ誰にも消させません」
外では、遠くの灯台が一度だけ緑に瞬いた。季節印が応えたのか、それとも春の記憶が目を覚ましたのかは分からない。
ユノアは差し替えられた最後の頁を封筒にしまった。紙の底には、王室契約院長官セドリックの署名と、見知らぬもう一人の署名が並んでいる。
その名を読んだ瞬間、レオンの灯が凍った。
「……父の名前だ」
冬庫の冷気が、二人の沈黙を深くした。




