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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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12/20

冬を選んだ理由

 馬車の轍は、港の北側へ続いていた。


 霧のなかで消えかける緑の光を、レオンの灯脈が追っている。道の両側には潮風に錆びた倉庫が並び、閉じた扉の隙間から、冷えた海の匂いが流れてきた。


「この先に何があるのですか」


 ユノアが尋ねると、レオンは前を見たまま答えた。


「昔の季節倉庫だ。今は使われていない」


「季節をしまう倉庫?」


「正確には、季節灯へ送る前の記録と燃料を置いていた場所だ。春の種子、夏の潮、秋の風、冬の氷。それぞれを魔法に変えるためのものが保管されていた」


 トルネが息を切らしながら追いつく。


「あそこ、十年前から鍵がかかったままだよ。港の大人たちは、冬庫って呼んでる」


 冬庫。その名を聞いた瞬間、ユノアの胸の奥で、薄い紙をめくるような音がした。


 誰かが記録から消した言葉が、遠くで呼んでいる。


 倉庫の前には、王室契約院の馬車が止まっていた。御者の姿はない。扉には新しい銀鎖が巻かれ、王室契約院の封蝋が押されている。


「中へ入る」


 レオンが手を伸ばしたが、ユノアはその袖をつかんだ。


「待ってください。これは普通の封印ではありません」


 封蝋の表面には、文字が一つも刻まれていない。けれど、赤い縁の内側に大きな空白が沈んでいる。余白読みの力を重ねると、消された文が浮かび上がった。


 ――霧港の住民は、冬の継続を望むものとする。


 その下に、別の文が重ねられている。


 ――反対の署名は、春の返還を妨げる行為と見なす。


「冬を選んだ、という記録は、住民の意思ではありません」


 ユノアは鎖から手を離した。


「冬を拒めば、春を返す契約に反対したことにされる。選んだのではなく、選ばされていたのです」


 レオンの顔に、苦い影が落ちた。


「十七年前、港で大きな嵐があった。灯台の季節灯が壊れ、春の魔力が海へ漏れた。王都は修理の条件として、冬の季節印を港へ残した」


「冬を残すことが、修理の条件?」


「春を返すには、冬を固定して灯脈を安定させる必要がある、と説明された。皆、船を失い、畑も凍っていた。王都の言うことを信じるしかなかった」


 レオンは鎖に触れ、灯を流した。銀鎖が青く光り、封蝋が静かに割れる。扉の向こうから、乾いた紙の匂いがした。


 内部には木箱が積まれていた。箱の側面には、港の区画名と住民の家名が並んでいる。そのほとんどに、冬を示す白い印が押されていた。


 トルネが一番手前の箱を開ける。中には古い署名簿と、凍ったように白い塩銀紙が入っていた。


「これ、母さんの名前がある」


 少年の声が震えた。


 ユノアは簿冊を受け取り、ページの余白を読む。署名の横には、誰にも見えない文が残っていた。


 ――内容を読めない者は、冬の継続に同意したものとする。


 住民たちは、何を選ぶのか説明されないまま、指先を紙に押しつけていたのだ。


「だから、春の返還に必要な三名の代表が見つからなかったのですね」


「代表は、最初から同意したことにされていた」


 レオンの声が低くなる。


 奥の棚から、かすかな物音が聞こえた。二人が灯を向けると、黒い外套の男が窓を開けようとしていた。男の手には、奪われた季節印がある。緑の輪は弱々しく明滅していた。


「返して!」


 ユノアが叫ぶ。男は印を握り込み、窓の外へ身を乗り出した。


 レオンの灯脈が床を走り、男の足元を縛る。だが、男は印を冬庫の中央へ投げた。床に描かれた古い円陣が白く燃え、倉庫いっぱいに冷気が広がった。


「レオン!」


 ユノアは反射的に彼の手を取る。冷気は二人の間を裂こうとしたが、触れ合った指先から灯脈がつながった。青い光が円陣の線を逆向きにたどり、季節印を床へ落とす。


 男は窓から逃げた。トルネが追おうとしたが、レオンが首を振る。


「まず印だ。ここでまた奪われれば、港全体が冬の証人にされる」


 ユノアは印を拾わず、周囲の紙を見た。円陣の中央に、古い原本らしき契約書が置かれている。その最初の頁には、春の返還を約束する第七条が確かに残っていた。


 しかし、最後の頁だけが新しかった。紙の色も、封蝋の匂いも違う。


「これは原本ではありません。誰かが最後の頁だけを差し替えています」


 余白には、さらに一文が浮かんだ。


 ――冬を選んだ理由を知られたとき、偽りの原本は効力を失う。


 レオンがユノアを見る。


「理由を、港の人たちに伝える必要がある」


「ええ。冬が必要だったのではなく、冬しか選べないようにされた。その証拠を、今度こそ誰にも消させません」


 外では、遠くの灯台が一度だけ緑に瞬いた。季節印が応えたのか、それとも春の記憶が目を覚ましたのかは分からない。


 ユノアは差し替えられた最後の頁を封筒にしまった。紙の底には、王室契約院長官セドリックの署名と、見知らぬもう一人の署名が並んでいる。


 その名を読んだ瞬間、レオンの灯が凍った。


「……父の名前だ」


 冬庫の冷気が、二人の沈黙を深くした。

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