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空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


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10/20

王都から来た監査官

 旧鐘楼の入口に立っていたのは、黒い外套を着た女だった。


 年は三十前後だろう。霧に濡れた銀灰色の髪を首の後ろで結び、胸元には王室契約院の青い徽章を留めている。女は三人を順に見たあと、レオンの手にある地図へ視線を止めた。


「霧港代官レオン・グレイヴ。記録修復士見習い、ユノア・セルティス。工房員トルネ・フィオ。相違ありませんね」


 問いかけというより、すでに記録された事項を読み上げている声だった。


「あなたは誰だ」


 レオンが地図を外套の内側へ隠す。女は懐から一枚の塩銀紙を取り出した。王都の封蝋が、霧の中でも赤く光っている。


「王室契約院監査部、マルタ・エイン。霧港の季節契約に関する臨時監査を命じられています。昨夜、旧鐘楼で契約流路の異常が検知されました。こちらへ入った理由と、所持している記録を提出してください」


「検知されたのは、王都へ流れていた季節魔法が港へ戻ったからでしょう」


 ユノアが言うと、マルタの眉がほんのわずかに動いた。


「季節魔法が王都へ流れていた、と?」


「地下に記録があります。港へ返還される春の三分の二を王都へ送る条文も」


 トルネが抱えていた記録板を強く抱きしめる。マルタは少年に近づき、徽章のついた手袋で記録板の端を指した。


「その板は契約院の管理物です。監査のため、預かります」


「嫌だ」


 即答したトルネの声は震えていた。それでも、板を差し出そうとはしなかった。


「俺たちの港の記録だ。王都に持っていかれて、また何年も返ってこなくなる」


 マルタは少年を見下ろした。冷たい目ではない。だが、相手の恐れを理解したうえで、そこに踏み込むことをためらわない目だった。


「返却を約束します」


「約束なら、紙に書いて」


 トルネが言い返すと、レオンの口元がわずかに緩んだ。けれどユノアには、マルタの手にした命令書の余白が見えていた。


 ――提出された記録は、監査終了まで返却しない。


 さらに、その下には別の文が重ねられている。


 ――港の証人が異議を唱えた場合、証人資格を停止する。


 表に書かれていない条文だった。契約ではない命令書にも、消された文は残る。


「トルネさんが記録を渡したら、証人としての資格を失わせるつもりですね」


 マルタの表情が初めて崩れた。


「余白読み、ですか。王都では珍しい力だと聞いています」


「珍しいから、あなたはここへ来たのですか」


「いいえ。異常を正しく処理するためです」


 マルタは旧鐘楼の中へ入り、床下へ続く蓋を見つけた。レオンが前へ出て道を塞ぐ。


「地下の記録は、港の証人三名で保全した。王室契約院の一方的な命令では開けられない」


「その保全手続き自体が、未登録です」


「登録されていないのではない。登録した記録を、そちらが消した」


 空気が張り詰めた。マルタはレオンをじっと見たあと、静かに息を吐いた。


「長官の名を見つけたのですね」


 セドリック・ヴァレル。その名を口にしていないのに、彼女は知っていた。


「ならば、話は早い。私の任務はあなた方を罰することではありません。旧鐘楼にある季節印を回収し、流路を元へ戻すことです」


「春を王都へ戻す、と?」


 ユノアの声が低くなる。


「王都には、季節を必要とする人々がいます。王都の備蓄がなければ、北方の飢饉を越せない。港だけの事情で流路を変えれば、別の誰かが冬に取り残されるのです」


 正しい言葉だった。だからこそ、ユノアはその奥の空白を探した。


 ――不足分を補うため、港の記憶を徴収する。


 この仕組みは、王都の飢えを救うためだけではない。集めた記憶の一部が、契約院の私的な保管庫へ送られている。だが、その文のさらに先は黒く塗りつぶされ、読み取れなかった。


「あなたも、すべてを知らされてはいないのですね」


 マルタの指が命令書の端で止まった。


「監査官は命令の正当性を疑わないものです」


「それは、監査ではなく執行です」


 ユノアが一歩進む。レオンは止めなかった。代わりに、彼女の背後へ灯脈の光を薄く灯した。逃げ道を確保するような光ではなく、彼女が立つ場所を照らす光だった。


 マルタは二人の間にある光を見て、目を細めた。


「仮の婚姻契約で、そこまで互いを信じるのですか」


「仮だからこそ、毎回選び直せます」


 レオンの答えに、ユノアの胸が小さく鳴った。


 そのとき、地下から金属が裂ける音がした。


 三人が振り返る。床下の円柱から伸びた銀管のうち、港へ戻る流路の継ぎ目が赤く明滅していた。誰かが遠くから契約を引き直している。緑の春の光が、再び東へ引かれ始めた。


「季節印が、ここにあるのですね」


 マルタが呟く。


 彼女の視線が、地下室ではなく、ユノアの胸元へ向いた。そこには昨夜、円柱の印を反転させたときに残った淡い光がある。


「違います」


 レオンが剣の柄へ手をかけた。


「季節印は港のものだ」


「所有権を決めるのは、あなたではありません」


 マルタが指を鳴らすと、旧鐘楼の外で馬車の扉が開いた。待機していた兵たちが、王室契約院の旗を掲げて霧の中から現れる。


 その瞬間、ユノアは命令書の空白に、見落としていた一文を読み取った。


 ――監査官が季節印に触れた時点で、港の返還契約は失効する。


「レオン、彼女を印に近づけてはいけません。触れられたら、港へ戻りかけた春が、正当な返還ではなく盗難として扱われます」


 マルタの顔から、わずかな迷いが消えた。


「ならば、触れさせてもらいます」


 彼女が地下への階段へ足をかけた。レオンは灯を広げ、トルネは記録板を胸に抱えたまま扉へ走る。


 霧港の鐘が、まだ朝でもないのに鳴り始めた。


 季節印を守るのか、監査官に証拠を渡すのか。選ぶ時間は、もう残されていなかった。

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