王都から来た監査官
旧鐘楼の入口に立っていたのは、黒い外套を着た女だった。
年は三十前後だろう。霧に濡れた銀灰色の髪を首の後ろで結び、胸元には王室契約院の青い徽章を留めている。女は三人を順に見たあと、レオンの手にある地図へ視線を止めた。
「霧港代官レオン・グレイヴ。記録修復士見習い、ユノア・セルティス。工房員トルネ・フィオ。相違ありませんね」
問いかけというより、すでに記録された事項を読み上げている声だった。
「あなたは誰だ」
レオンが地図を外套の内側へ隠す。女は懐から一枚の塩銀紙を取り出した。王都の封蝋が、霧の中でも赤く光っている。
「王室契約院監査部、マルタ・エイン。霧港の季節契約に関する臨時監査を命じられています。昨夜、旧鐘楼で契約流路の異常が検知されました。こちらへ入った理由と、所持している記録を提出してください」
「検知されたのは、王都へ流れていた季節魔法が港へ戻ったからでしょう」
ユノアが言うと、マルタの眉がほんのわずかに動いた。
「季節魔法が王都へ流れていた、と?」
「地下に記録があります。港へ返還される春の三分の二を王都へ送る条文も」
トルネが抱えていた記録板を強く抱きしめる。マルタは少年に近づき、徽章のついた手袋で記録板の端を指した。
「その板は契約院の管理物です。監査のため、預かります」
「嫌だ」
即答したトルネの声は震えていた。それでも、板を差し出そうとはしなかった。
「俺たちの港の記録だ。王都に持っていかれて、また何年も返ってこなくなる」
マルタは少年を見下ろした。冷たい目ではない。だが、相手の恐れを理解したうえで、そこに踏み込むことをためらわない目だった。
「返却を約束します」
「約束なら、紙に書いて」
トルネが言い返すと、レオンの口元がわずかに緩んだ。けれどユノアには、マルタの手にした命令書の余白が見えていた。
――提出された記録は、監査終了まで返却しない。
さらに、その下には別の文が重ねられている。
――港の証人が異議を唱えた場合、証人資格を停止する。
表に書かれていない条文だった。契約ではない命令書にも、消された文は残る。
「トルネさんが記録を渡したら、証人としての資格を失わせるつもりですね」
マルタの表情が初めて崩れた。
「余白読み、ですか。王都では珍しい力だと聞いています」
「珍しいから、あなたはここへ来たのですか」
「いいえ。異常を正しく処理するためです」
マルタは旧鐘楼の中へ入り、床下へ続く蓋を見つけた。レオンが前へ出て道を塞ぐ。
「地下の記録は、港の証人三名で保全した。王室契約院の一方的な命令では開けられない」
「その保全手続き自体が、未登録です」
「登録されていないのではない。登録した記録を、そちらが消した」
空気が張り詰めた。マルタはレオンをじっと見たあと、静かに息を吐いた。
「長官の名を見つけたのですね」
セドリック・ヴァレル。その名を口にしていないのに、彼女は知っていた。
「ならば、話は早い。私の任務はあなた方を罰することではありません。旧鐘楼にある季節印を回収し、流路を元へ戻すことです」
「春を王都へ戻す、と?」
ユノアの声が低くなる。
「王都には、季節を必要とする人々がいます。王都の備蓄がなければ、北方の飢饉を越せない。港だけの事情で流路を変えれば、別の誰かが冬に取り残されるのです」
正しい言葉だった。だからこそ、ユノアはその奥の空白を探した。
――不足分を補うため、港の記憶を徴収する。
この仕組みは、王都の飢えを救うためだけではない。集めた記憶の一部が、契約院の私的な保管庫へ送られている。だが、その文のさらに先は黒く塗りつぶされ、読み取れなかった。
「あなたも、すべてを知らされてはいないのですね」
マルタの指が命令書の端で止まった。
「監査官は命令の正当性を疑わないものです」
「それは、監査ではなく執行です」
ユノアが一歩進む。レオンは止めなかった。代わりに、彼女の背後へ灯脈の光を薄く灯した。逃げ道を確保するような光ではなく、彼女が立つ場所を照らす光だった。
マルタは二人の間にある光を見て、目を細めた。
「仮の婚姻契約で、そこまで互いを信じるのですか」
「仮だからこそ、毎回選び直せます」
レオンの答えに、ユノアの胸が小さく鳴った。
そのとき、地下から金属が裂ける音がした。
三人が振り返る。床下の円柱から伸びた銀管のうち、港へ戻る流路の継ぎ目が赤く明滅していた。誰かが遠くから契約を引き直している。緑の春の光が、再び東へ引かれ始めた。
「季節印が、ここにあるのですね」
マルタが呟く。
彼女の視線が、地下室ではなく、ユノアの胸元へ向いた。そこには昨夜、円柱の印を反転させたときに残った淡い光がある。
「違います」
レオンが剣の柄へ手をかけた。
「季節印は港のものだ」
「所有権を決めるのは、あなたではありません」
マルタが指を鳴らすと、旧鐘楼の外で馬車の扉が開いた。待機していた兵たちが、王室契約院の旗を掲げて霧の中から現れる。
その瞬間、ユノアは命令書の空白に、見落としていた一文を読み取った。
――監査官が季節印に触れた時点で、港の返還契約は失効する。
「レオン、彼女を印に近づけてはいけません。触れられたら、港へ戻りかけた春が、正当な返還ではなく盗難として扱われます」
マルタの顔から、わずかな迷いが消えた。
「ならば、触れさせてもらいます」
彼女が地下への階段へ足をかけた。レオンは灯を広げ、トルネは記録板を胸に抱えたまま扉へ走る。
霧港の鐘が、まだ朝でもないのに鳴り始めた。
季節印を守るのか、監査官に証拠を渡すのか。選ぶ時間は、もう残されていなかった。




