第9話 「言葉のかわりに」
今年、奈緒はお兄ちゃんが死んだ年になった。
三十七歳。
大森哲が心臓発作で逝ったのは三年前の冬で、そのとき哲は三十七歳だった。
同い年になった、という言い方は正しくない。
でも奈緒には、今年に入ってからずっとその感覚があった。
お兄ちゃんが見ていた景色を、私は今見ている。
お兄ちゃんが知らなかった三十七歳を、私は生きている。
それが何かを変えたわけではない。
ただ、秋になると少し、重くなる。
哲は言葉を持たなかった。
生まれつきの重度の知的障害で、声は出た。
でも言葉にはならなかった。
「うー」という声と、「あーあー」という声と、声にならない呼気と、それだけで三十七年を生きた。
表情は豊かだった。
それは奈緒が言えることだから、言っておきたい。
哲は笑うとき、全身で笑った。
目が細くなって、頬が上がって、体がゆらゆら揺れた。
悲しいとき、顔がくしゃくしゃになった。
腹が立つとき、眉間に縦皺が入った。
それだけを見れば、感情のない人間だとは誰も思えなかった。
思えなかったはずだ。
でも、世の中はそう見なかった。
奈緒が小学校の三年生のとき、商店街で哲が大きな声を上げたことがある。
何か嫌なことがあったのか、機嫌が悪い日だった。
哲は突然「うあーっ」と叫んで、その場でくるくると回り始めた。
奈緒の母がなだめようとしたが、哲は止まらなかった。
周りの人たちが足を止めた。
見ていた。
奈緒もその場にいて、人の視線を全部体で感じた。
怖かった、というより、その視線の意味が怖かった。
困惑でも、驚きでもなく、もっと薄い、遠ざかるような目だった。
そのとき奈緒は、はじめて「恥ずかしい」と思った。
思った瞬間、自分が嫌いになった。
お兄ちゃんのことを恥ずかしいと思った自分が、ひどく嫌いになった。
その感情を持ったことを、奈緒は今でも引きずっている。
三十七歳の今でも、あの瞬間を思い出すと、胸の奥の方が痛くなる。
哲が奈緒に「すき」を伝えるとき、言葉は使わなかった。
右手の人差し指を立てて、自分の左手の甲を三回トントンと叩いた。
それだけだった。
いつからそうしていたのか、奈緒には覚えがない。
気づいたときにはそうしていた。
奈緒が学校から帰ってくると、玄関まで走ってきて、「うー」と言いながら、トントントンと叩いた。
奈緒が泣いているとき、隣に来て、黙ってトントントンと叩いた。
奈緒が料理を作ってやったとき、食べながらトントントンと叩いた。
「すきってこと?」と奈緒が聞くと、哲は「うー」と言った。
「うー」はいつも、そういうときに出る声だった。
その意味を証明することはできない。
哲が何を意図していたかを、確かめる方法はない。
だから奈緒はずっと、「本当にそういう意味だったのか」を疑い続けた。
信じていたが、疑っていた。
信じたかったから、疑ってもいた。
哲が施設に入ったのは、奈緒が十四歳のときだった。
父と母が限界になった。
奈緒にはわかっていた。
毎日のことが、二人の体と心を少しずつ削っていた。
施設に入れることは、正しい選択だった。
今でもそう思っている。
施設の職員さんは丁寧で、哲は穏やかに暮らしていた。
面会に行くたびに、哲は玄関まで走ってきた。
トントントン、と叩いてくれた。
でも奈緒は社会人になってから、面会の回数が減った。
仕事が忙しかった。
それは本当のことだった。
でも、それだけでもなかった。
行けない理由を、自分で作ることがあった。
それを今でも認めることができる。
認めながら、それでも変えられなかった自分を、許せていない部分がある。
最後に会ったのは、哲が亡くなる一ヶ月前だった。
帰り際、哲はいつものようにトントントンと叩いた。
奈緒は「また来るね」と言った。
また来るね、が来なかった。
公園に来たのは、特に理由のない日曜日だった。
十一月の末で、銀杏が半分ほど散っていた。
黄色い葉が地面を覆っていて、風が吹くたびにまた落ちた。
奈緒はベンチに腰を下ろして、何も考えないようにした。
何も考えないようにすると、かえって哲のことを考えた。
今年お兄ちゃんの年になったこと。
あの商店街のこと。
施設に入る日の朝、哲が奈緒の手をぐっと握ったこと。
その手が温かかったこと。
公園には何人か子どもがいた。
遠くで女の子が鬼ごっこをしていた。
砂場に小さな子どもが二人いた。
そして、ベンチの隣に、男の子が来た。
五歳か、六歳か。
赤いジャンパーを着ていた。
何も言わずに、奈緒の隣にちょこんと座った。
手に何かを持っていた。
どんぐりを三つ。
奈緒は男の子を見た。
男の子も奈緒を見た。
そのとき。
男の子が右手の人差し指を立てて、自分の左手の甲を、三回、トントンと叩いた。
奈緒の体が、動かなくなった。
目を疑った。
(よくある動作かもしれない)と思おうとした。
(子どもはよく手遊びをする。たまたまだ。)
でも指が固まっていた。
目が離れなかった。
男の子は叩き終わって、また奈緒を見た。
何か要求するわけでもなく、何かを主張するわけでもなく、ただ奈緒を見た。
「ねえ」と奈緒は言った。
声がかすれた。
「今、何したの?」
男の子はきょとんとした。
「すき、ってこと」と言った。
奈緒は声が出なかった。
男の子はそれ以上何も言わなかった。
どんぐりを一つ手に取って、眺め始めた。
奈緒の目から涙が出た。
声はなかった。
ただ目から水が出て、止まらなかった。
男の子が顔を上げて奈緒を見た。
泣いているのに気づいたかもしれなかった。
でも怖がらなかった。
ただ、静かに見た。
(お兄ちゃん)と奈緒は思った。
声にはならなかった。
でも全身でそう呼んだ。
三年間ずっとそこにあった疑問と一緒に呼んだ。
伝わっていた?
幸せだった?
私のことを、ちゃんとわかっていた?
施設に入れたこと、会いに行けなかったこと、あの商店街で恥ずかしいと思ったこと、許してくれる?
でも——すき、と、言ってくれた。
あの動作で。
あの指で。
三回、トントンと。
それだけで、全部に答えてくれた気がした。
遠くから「けんちゃーん」という声がした。
男の子が立ち上がった。
手のどんぐりを一つ、奈緒の膝の上に置いた。
それだけで何も言わずに、走っていった。
奈緒はどんぐりを手に取った。
小さくて、つるつるして、少しだけ温かかった。
しばらく、一人でベンチに座っていた。
涙は止まっていた。
胸の奥がまだ静かに揺れていたが、さっきより重さが軽かった。
銀杏の葉が風で舞った。
日が傾いてきた。
公園の光が、夕方の色になっていた。
哲のことを思った。
哲が電車の中で声を上げたとき、顔をそらした人たちのことを思った。
あのとき奈緒も、心のどこかで一緒にそらした。
でも哲は、隣に誰かがいてくれれば、ただトントンと叩いた。
怒りもしなかった。
恨みもしなかった。
ただ、そこにいる人を好きになった。
それだけだった。
哲が感じていたのは、自分たちと同じ感情だった。
嬉しさも、悲しみも、誰かへの愛しさも。
言葉の形をしていなかっただけで、中身は同じだった。
奈緒にはわかっていた。
三十七年、一緒に生きてきたからわかっていた。
でもそれが、世界には届きにくかった。
言葉にならないものは、見えにくい。
見えにくいものは、怖い。
怖いものは、遠ざけてしまう。
もしその怖さを少しだけ置いて、ただ隣に座れたなら。
哲はきっと、右手の人差し指でトントンと叩いてくれた。
それだけで世界が変わるわけではないけれど、その一つ一つが積み重なれば、少しずつ変わっていくかもしれない。
そんなことを、奈緒は三十七歳の秋に、初めて言葉にして考えた。
哲が教えてくれた、ということも。
帰り道、奈緒は母に電話した。
「お母さん、お兄ちゃんの写真、送ってくれる?スマホに入れておきたくて」
母は少し間があってから「どれがいい?」と聞いた。
「笑ってるやつ」と奈緒は言った。
「いっぱいあるわよ」と母は言った。
少し笑った声で。
「全部送って」と奈緒は言った。
電話が切れた。
夕暮れの住宅街を歩いた。
どんぐりをジャンパーのポケットに入れて、手を出したら、まだ少し温かかった。
家に帰って、スマートフォンに写真が届いた。
母からの添付ファイルを開くと、三十枚以上あった。
幼い頃の哲。
家族で海に行ったときの哲。
施設の庭で職員さんと一緒に写っている哲。
どれも笑っていた。
全身で笑っていた。
目が細くなって、頬が上がって、体がゆらゆらしていた。
奈緒はその写真を、一枚ずつ、ゆっくり見ていった。
どれを見ても、哲は笑っていた。
それだけで、十分だった。
幸せだったのか、という問いへの答えは、もう必要なかった。
ここに全部あった。
言葉の形をしていないが、全部ここにあった。
最後の一枚は、奈緒と哲が並んで写っている写真だった。
奈緒が高校生くらいの頃だろうか。
哲が奈緒の肩に頭をもたせかけている。
奈緒は少し照れた顔をしている。
哲は目を細めて笑っている。
右手の人差し指が、奈緒の腕の上に乗っている。
よく見ると。
左手の甲を、トントンと、叩こうとしている。
奈緒はその写真を、画面から出なくなるまで見ていた。




