第8話 「グーしか出さなかった」
八月の夜祭りは、煩くてちょうどいい。
村田慶太がそう気づいたのは、いつ頃からだろうか。
太鼓の音が腹の底まで響いてくる。
人混みの熱気と、焼きそばと醤油と砂埃の匂いが混ざり合う。
子どもたちの声が、大人たちの笑い声と重なって、収集がつかないくらいに空へ上がっていく。
その煩さの中にいると、何も考えなくていい気がした。
考えようとしても、音に流されていく。
毎年ここに来るのは、そのせいかもしれなかった。
慶太は四十五歳だった。
田口悠が死んだのは、二十五年前の夏だった。
二人は大学の同じ学科で、一年生の最初のガイダンスで隣に座ったのがきっかけだった。
悠は口数が多い方ではなかったが、言うことがいちいち妙で、慶太はよく笑わされた。
食堂でも、図書館でも、帰り道でも、いつも一緒にいた。
特別なことをしていたわけではない。
ただそういう友人だった。
悠にはじゃんけんの癖があった。
勝負をするとき、必ず相手の目をじっと見た。
逸らさなかった。
そのまま「いくぞ」と一言言って、それから出した。
出す手は、いつもグーだった。
一度もパーを出したことがなかった。
チョキも滅多に出なかった。
「なんでグーばっかりなんだよ」と慶太が笑うと、悠はまじめな顔で「グーが一番強そうだから」と言った。
「そういう問題じゃないだろ」と慶太が言うと、「そういう問題だろ」と悠は言い返した。
そのやり取りを、何度繰り返したかわからない。
悠が死んだのは、二十歳の夏だった。
前の夜、二人でいつもの居酒屋にいた。
特別な日ではなかった。
ただの夜だった。
夜の十一時を過ぎた頃に店を出て、悠は「自転車で来てるから」と言って駐輪場の方へ歩いた。
慶太は「そうか」と言った。
「気をつけろよ」と言った。
悠は少し歩いてから振り返って、「またな」と言った。
翌朝、電話が来た。
夜中に、帰り道の交差点で車にはねられたと言われた。
意識は戻らなかった。
慶太はしばらく、電話を持ったまま動けなかった。
窓の外で蝉が鳴いていた。
夏だった。
悠が「またな」と言った声が、耳の中でずっとしていた。
またな、が来なかった。
また、が来ないまま、二十五年が過ぎた。
罪悪感というのは、形がない。
だから始末が悪い。
もし慶太が悪いことをしていたなら、誰かを傷つけていたなら、謝ることも、償うこともできる。
でも慶太がしたのは、「気をつけろよ」と言って、「またな」と聞いて、家に帰ったことだけだった。
それだけのことだったのに、翌朝から二十五年間、ずっとそれが胸に引っかかっていた。
もっと引き止めればよかった。
一緒にタクシーに乗ればよかった。
もう一軒付き合えばよかった。
そうしたら時間がずれて、事故は起きなかったかもしれない。
かもしれない、だけが残って、答えは二十五年経っても出なかった。
悠は二十歳のまま止まっている。
慶太は四十五歳になった。
二十歳の悠が知らない時間を、慶太だけが生きてきた。
それが申し訳なかった。
申し訳ないまま、うまく言葉にできないまま、毎年夏になるとこの祭りに来た。
悠と二人で来ていた祭りだった。
大学一年の夏から、毎年来ていた。
二年目からは一人で来ている。
神社の参道に縁台が並んでいた。
慶太はそこにビールを持って腰を下ろした。
目の前を、浴衣姿の子どもたちが走っていく。
金魚すくいの屋台から水の音がした。
遠くで太鼓が鳴った。
隣に、男の子が来た。
小学二、三年生くらいだろうか。
リンゴ飴を持って、縁台の端にぽんと腰掛けた。
近くに親がいるのか、あちこちを見回してから、慶太の方を向いた。
「おじさん、一人なの?」
遠慮のない声だった。
慶太は「そうだよ」と言った。
「なんで?」
「来たかったから」
「友達いないの?」
慶太は少し笑った。
「いたよ。昔ね」
男の子は「ふーん」と言って、リンゴ飴をかじった。
それ以上は聞かなかった。
子どもはそういうところが潔い。
しばらく二人で、祭りの喧騒を眺めていた。
男の子がリンゴ飴を半分まで食べて、「おじさん、じゃんけん強い?」と聞いた。
「どうかな」と慶太は言った。
「強くはないと思う」
「じゃあやろう」
男の子は特に理由を説明しなかった。
勝ったら何かをもらえるわけでも、負けたら何かをするわけでも、ないらしかった。
ただやろう、と言った。
子どもはそういうことを唐突にする。
慶太はビールを縁台に置いて、「いいよ」と言った。
男の子が、慶太の目を見た。
逸らさなかった。
まっすぐ、じっと見た。
慶太は少し、呼吸が止まりかけた。
でもまだ、偶然かもしれないと思っていた。
「いくぞ」と男の子は言った。
「じゃんけん、ぽん」
グーだった。
慶太も、気づいたらグーを出していた。
引き分けだった。
「もう一回」と男の子は言った。
また、目を見た。
逸らさなかった。
「いくぞ」と言った。
「じゃんけん、ぽん」——またグーだった。
慶太はパーを出した。
慶太の勝ちだった。
「負けた」と男の子は言った。
悔しそうではなかった。
淡々としていた。
「なんでグーばっかりなの?」と慶太は聞いた。
自分でも気づかないうちに聞いていた。
声が少しかすれていた。
男の子はリンゴ飴を持ったまま、まじめな顔をした。
「グーが一番強そうだから」
慶太の体が、固まった。
「グーが一番強そうだから」——その言葉を、慶太は二十五年前に聞いていた。
同じ口調だった。
同じ、まじめな顔だった。
「そういう問題じゃないだろ」と笑うたびに、「そういう問題だろ」と言い返してきた悠の、あのまじめな顔だった。
この言葉を聞いたのは慶太だけだ。
笑いながら聞いていた。
笑いながら、何度も聞いていた。
目から、涙が出た。
止めようとしたが、出てしまった。
八月の夜祭りの喧騒の中で、縁台に腰掛けたまま、慶太は泣いていた。
声は出なかった。
ただ涙が出た。
太鼓の音が響いた。
子どもたちが笑いながら走っていった。
その全部の中で、慶太だけがそこにいた。
男の子が顔を上げた。
慶太の顔を見た。
何も言わなかった。
大人が泣いていることに驚くでも、引くでもなく、ただ静かに見ていた。
その目が、落ち着いていた。
二十歳のまま止まっているはずの悠が、もし今も生きていたら、こういう目をするだろうかと思った。
いや、悠はこういう目をしていた。
慶太が泣きそうになると、何も言わずにただ隣にいた。
(悠)と慶太は思った。
声にはならなかった。
でも全身でそう呼んだ。
二十五年間、ずっとそこにあった重さと一緒に呼んだ。
引き止めればよかった。
一緒に帰ればよかった。
もっと他のことが言えたはずだった。
「またな」だけじゃなくて、もっと何か言えたはずだった。
それをずっと、二十五年間思っていた。
でも。
来てくれた。
別の体で、別の声で。
でも、同じ目で。
同じまじめな顔で「グーが一番強そうだから」と言いながら。
ここに来てくれた。
またな、が今夜、また、になった。
遠くから、女の人の声がした。
「けいちゃーん、こっちだよ」
男の子が立ち上がった。
リンゴ飴を持って、声の方を向いた。
「はーい」と言って、歩き始めた。
五歩ほど行ったところで、振り返った。
「またな」と言った。
慶太は、すぐには返事ができなかった。
のどの奥が、熱かった。
でも笑った。
うまく笑えたかどうかはわからなかった。
それでも笑って、手を一度だけ上げた。
「またな」と言った。
男の子は前を向いて、走っていった。
人混みの中に消えた。
慶太はしばらく、縁台に一人で座っていた。
ビールはぬるくなっていた。
太鼓の音が続いていた。
夜空に、花火が一発上がった。
「わあ」という声が、あちこちから上がった。
慶太は空を見上げた。
白い光が広がって、ゆっくりと消えた。
消えた後の空が、少しだけ明るかった。
「悠」と小さく言った。
今度は声に出した。
誰にも聞こえなかっただろう。
太鼓の音と人の声の中に消えた。
でも慶太には、届いた気がした。
「二十五年、ずっと引っかかってた」と言った。
「もっと引き止めればよかったって、ずっと思ってた」
花火がまた上がった。
今度は二発、続けて。
「でも、来てくれてありがとう。ちゃんとわかった」
慶太は目を拭った。
手の甲で、少し乱暴に拭った。
空の光が消えた。
また太鼓の音だけが残った。
遠くで子どもが笑った。
屋台の明かりが、参道を照らしていた。
帰り道、慶太は少しゆっくり歩いた。
夜の熱気がまだ残っていた。
参道を抜けると、急に静かになった。
住宅街の路地に入ると、虫の音がした。
遠くで太鼓の音が続いていた。
二十歳の悠のことを考えた。
いつもまじめな顔でグーを出していた悠。
「そういう問題だろ」と言い返してきた悠。
「またな」と振り返った悠。
慶太は四十五歳で、悠は二十歳のまま止まっている。
それは変わらない。
でも今夜、またな、が来た。
別の声で、別の顔で。
でも確かに来た。
(続きを生きていい)と思った。
お前の分を背負って生きなくていい。
お前が知らなかった四十五歳を、お前の代わりに生きなくていい。
ただ、慶太が慶太として生きていけばいい。
そう言いに来てくれた気がした。
悠らしい言い方だと思った。
じゃんけんで「グーが一番強そうだから」とまじめに言った、あの顔で。
家に帰って、灯りをつけた。
静かだった。
妻は実家に帰っていた。
一人の夜だった。
慶太は台所で水を飲んで、椅子に座った。
スマートフォンを取り出した。
大学のときの写真が数枚、古いアルバムアプリに入っている。
開いたのはいつぶりだろう。
指で遡って、二十代の頃の写真を探した。
あった。
居酒屋で撮った写真だった。
二人で乾杯している。
悠がカメラを向けられて、少し照れた顔をしている。
慶太はそれを笑っている。
いつ撮ったかは覚えていない。
でも確かに、そこにいた。
二人とも、そこにいた。
慶太はその写真を、しばらく見ていた。
「またな」と小さく言った。
今度は、言い切れた。
引っかからなかった。
二十五年分の「またな」が、今夜ようやく届いた気がした。




