第7話 「冬の喫茶店」
冬の午後の光は、やさしいというより、頼りない。
そういう光の中で、平野澄子はコーヒーカップを両手で包んでいた。
窓際の二人掛けの席。
向かいは誰もいない。
三年前から、ずっとそうだ。
「珈琲舎 丘の上」は、住宅街の奥まったところにある小さな店だった。
カウンターに五席、テーブルが三つ。
マスターの川口さんが一人でやっていて、BGMはいつも小さなクラシック。
壁には古い映画のポスター。
窓の外にはイチョウの木が一本。
今は葉が落ちて、枝だけになっている。
澄子は六十七歳だった。
正雄とこの店に初めて来たのは、三十年以上前のことだった。
まだ子供が小さく、二人でゆっくり出かける機会などほとんどなかった頃、正雄が「散歩がてら行ってみよう」と言い出した。
歩いて十五分ほど。
澄子は遠いと思ったが、正雄の歩き方が嬉しそうで、ついていった。
コーヒーが美味しかった。
窓からイチョウの木が見えた。
正雄は迷わず窓際に座って、川口さんに「今日のおすすめは?」と聞いた。
「この人はどこへ行っても最初にそれを聞くんですよ」と澄子は笑った。
「そうしないと、メニューに書いてない一番うまいやつを頼み損ねる」と正雄は言った。
川口さんが「そのとおりです」と言いながら、その日の豆で淹れた一杯を出してくれた。
正雄はそれを飲んで、「うん、これだ」と言った。
それ以来、二人の定番になった。
正雄は六十四歳で会社を定年退職した。
その少し前から、左手の指輪を外していた。
「なんか邪魔でね」と言った。
三十八年間、同じ指輪をしてきた人だった。
澄子は何も言わなかった。
ただ、癖だけが残った。
何かを考えながら話すとき、正雄は必ず左手の薬指の付け根を右手の親指でくっと押さえた。
指輪があった場所を確かめるような動作だった。
指輪がなくなっても、体は覚えていた。
澄子が「また触ってる」と言うと、正雄はきょとんとして「そうか?」と言った。
自分でも気づいていなかった。
その癖を、澄子以外に気づいた人はいなかっただろう。
退職してから二人でやろうと決めたことが、いくつかあった。
喫茶店めぐりをしよう。
正雄はコーヒーが好きで、良い豆の店を見つけては「今度行こう」と言い続けていた。
北海道のラベンダー畑を見に行こう。
澄子が雑誌で写真を見て「一度でいいから行きたい」と言い続けていた。
正雄は地図を引き出しから出してきて、行き方を調べ始めた。
二人でゆっくり歩こう。
どこへでも。
これがあれば十分だと、二人とも思っていた。
正雄が死んだのは、退職から二年後の冬だった。
十二月の朝、台所で倒れた。
澄子が気づいたとき、正雄はもう動かなかった。
心筋梗塞だった。
あっという間だったろう、と後から言われた。
痛みはなかっただろうとも言われた。
澄子にはそのどちらもわからなかった。
わかっているのは、一人で逝かせてしまったということだけだった。
それだけが、ずっと胸に引っかかっていた。
三年が過ぎた。
子供たちは独立して、それぞれの生活がある。
電話をくれる。
帰ってもくれる。
でも日々の時間は、澄子一人のものだった。
帰宅しても電気がついていない。
夕食は一人分。
正雄の椅子には、着替えたままにしていた上着がかかっている。
捨てられなかった。
戻せなかった。
ちょうどいいところに吊るせる場所がないのだ、と自分でも思っているが、本当のことを言えば、そのままにしておきたかった。
引き出しには、北海道のパンフレットが入ったままだった。
正雄が調べて印刷してきたもの。
ラベンダー畑の写真と、おすすめの宿と、七月の気温と。
何度か捨てようとした。
捨てられなかった。
老後は二人でゆっくり、と言っていたその時間が、正雄が先に逝って全部なくなった。
なくなったというよりも——自分だけが取り残された、という感覚だった。
計画だけが残って、二人のうちの一人が消えた。
そういう感覚が、三年経っても変わらなかった。
週に一度、丘の上に来るのは習慣になっていた。
特に理由を考えているわけではなかった。
どこかに出なければ、一日中家の中にいることになる。
この季節は寒くて、公園にも行きたくない。
なぜか足がここへ向いた。
川口さんは何も言わなかった。
「いらっしゃいませ」と言って、いつもと同じコーヒーを出してくれた。
澄子がいつも頼む豆で、いつもの淹れ方で。
それが今は一番ありがたかった。
説明しなくていい。
顔を作らなくていい。
ただここに座って、コーヒーを飲んでいるだけでよかった。
今日は店に二人しかいなかった。
澄子と、カウンターで川口さんに話しかけている男性だけ。
男性に気づいたのは、席についてすぐのことだった。
若かった。
二十代の前半か、まだ学生かもしれない。
紺のコートを着て、カウンターの端に腰掛けていた。
川口さんと話しながら、時々笑っていた。
そのとき、言葉が届いた。
「今日のおすすめは何ですか?」
澄子の手が、止まった。
(よく聞く言葉かもしれない)と思おうとした。
(珍しくない。コーヒーの店でそう聞く人はいる。)
でも体が固まっていた。
正雄がどの喫茶店に入っても、最初に必ずそう言っていた。
「今日のおすすめは?」。
メニューより先に、必ずそう聞いた。
それが正雄の流儀だった。
川口さんが答えている。
男性が「じゃあそれで」と言っている。
澄子はコーヒーカップを両手で包んだまま、男性の背中を見ていた。
男性はコーヒーが来てからも、しばらく川口さんと話し続けていた。
豆のこと、産地のこと。
澄子にはよくわからない話だったが、川口さんが楽しそうに答えていた。
そのとき、男性がふと黙った。
何かを考えているのか、目を少し伏せた。
左手が膝の上にあって、右手の親指が——薬指の付け根を、くっと押さえた。
澄子の目が、そこに釘付けになった。
薬指に指輪はなかった。
それでも指輪があった場所を確かめるように、右手の親指が、ゆっくりと左手の薬指の付け根を押さえていた。
澄子は呼吸の仕方を忘れた。
(よくある動作かもしれない)と思おうとした。
思えなかった。
三十年間、正雄のその動作を見てきた。
「また触ってる」と言うたびに「そうか?」ときょとんとした正雄を見てきた。
指輪を外してもその癖だけが残った正雄を、ずっと見てきた。
あの動作が、今、別の人間の手に宿っていた。
目が、熱くなってきた。
澄子は窓の外を見た。
イチョウの木が、枯れ枝だけで冬空に立っている。
冷たい光の中で、細い枝が風に揺れていた。
(正雄さん)と思った。
声には出さなかった。
でも全身でそう呼んだ。
三年間、ずっとそこにあった重さと一緒に呼んだ。
先に行かないでほしかった。
一人にしないでほしかった。
北海道に、二人で行きたかった。
あなたが先に逝って、私一人が取り残されたと思っていた。
計画だけが引き出しの中に残って、あなただけがいなくなったと思っていた。
でも。
ここにいる。
こうして来てくれている。
別の声で「今日のおすすめは?」と言いながら。
別の手で、同じ場所をくっと押さえながら。
ここに来てくれている。
涙があふれた。
声はしなかった。
澄子はカップを持ったまま、ただ窓の外を見ていた。
頬を伝う涙が、冬の光の中でぼんやりと滲んだ。
払わなかった。
払う力が、しばらく出なかった。
川口さんが気づいているかもしれなかった。
でも川口さんは何も言わなかった。
カウンターの向こうで、静かにグラスを磨いていた。
それがありがたかった。
男性は一時間ほどいて、静かに席を立った。
コートを着て、財布を出して、川口さんにお礼を言った。
「美味しかったです」と言った。
川口さんが「またどうぞ」と言った。
男性はドアを開けて、外へ出た。
ドアが閉まった。
振り返らなかった。
澄子はそれを見送った。
それだけでよかった。
声をかけなかった。
引き止めなかった。
来てくれた。
それで十分だった。
十分以上だった。
帰り道、澄子は少しゆっくり歩いた。
冬の夕暮れが始まっていた。
空の端が薄いオレンジに染まっていた。
息が白かった。
道に誰もいなかった。
乾いた冷たい空気が、頬に当たった。
旅行代理店の前を通った。
ガラスの向こうにポスターが並んでいる。
沖縄。台湾。ヨーロッパ。
そして——北海道。
流れるような紫と白と青。
広大な畑が地平線まで続いている写真だった。
ラベンダーがたわわに咲いている写真だった。
澄子は歩みを止めた。
(一人で、行けるかな。)
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
今まで一度も、そう思えなかった。
正雄なしでは行けないと思っていた。
正雄のいない北海道に意味はないと思っていた。
でも今日は、そう思えなかった。
一人でも、行ってもいい気がした。
行って、その紫の中に立って、「正雄さん、きれいだよ」と声に出してみたい。
泣くかもしれない。
でも笑えるかもしれない。
どちらでもいい。
行ってみたい。
そう思えたのは、今日が初めてだった。
家に帰って、コートを脱いだ。
正雄の椅子に上着がかかったままだった。
澄子はそれを一度だけ見て、それからクロゼットを開けた。
ゆっくりと上着を外して、丁寧にハンガーに吊るした。
椅子が、空になった。
しばらく見ていた。
正雄がいつも座っていた椅子。
退職してからは、ここで新聞を読んでいた。
コーヒーを飲んでいた。
澄子の話を、きょとんとした顔で聞いていた。
左手の薬指の付け根を、気づかないまま押さえていた。
澄子は椅子の前にしゃがんで、座面にそっと手を当てた。
冷たかった。
でも手を当てていると、少しずつ何かが伝わってくる気がした。
そんなことはないと知っていた。
それでも確かに、何かが伝わってきた。
「今日ね」と澄子は言った。
「会ってきたよ」
静かな部屋の中で、澄子の声だけがした。
「来てくれてありがとう。ちゃんと、わかったよ」
椅子は何も言わなかった。
当然だった。
それでも澄子には、あのきょとんとした顔で「そうか」と言う声が、どこか遠くから聞こえた気がした。
夕食は豆腐と残りものを合わせた小さな鍋にした。
一人分だったが、久しぶりにだしをきちんと取って、ゆっくり火を通した。
そういう気持ちに、今日はなれた。
食べながら、引き出しを開けた。
北海道のパンフレットが、折れた角のまま入っていた。
取り出して、テーブルの上に広げた。
ラベンダー畑の写真。
正雄が調べて、印刷してきたもの。
行き方と、宿と、七月の気温と。
澄子はそれを見ながら、コーヒーを飲んだ。
来年の夏。
一人でも、行ける気がした。
あの紫の中に立って、「きれいだよ」と言ってみたい。
泣きながら言ってもいい。
正雄さんなら「そうか」ときょとんとするだろう。
それでもよかった。
パンフレットを丁寧に折り直した。
今度は引き出しではなく、テーブルの上に置いた。
見える場所に。
また来週、丘の上に行こうと思った。
川口さんのコーヒーを、ゆっくり飲もう。
窓際の席に、一人で座って。
向かいは誰もいない。
それでもいい。
それでも、行こう。
正雄さんが、また来てくれるかもしれない。
別の誰かの声で「今日のおすすめは?」と言いながら。
別の手で、同じ場所をくっと押さえながら。
一人でも、丁寧に生きていい。
今日、そう言いに来てくれた気がした。




