第6話 「春の終わりに、ミモザ」
四月の終わりになると、美穂はいつも呼吸のしかたを忘れた。
忘れる、というのは正確ではないかもしれない。
息はしている。
生きている。
でも胸の奥の何かが、この季節になると固く縮んで、普通の深さまで空気が入ってこなくなった。
毎年そうだった。
桜が散るころから始まって、新緑が濃くなるころまで続いた。
自分でもうんざりするほど、毎年そうだった。
田村美穂は三十八歳だった。
七年前の四月、美穂は女の子を産んだ。
正確には、産めなかった。
妊娠八ヶ月まで、何も心配していなかった。
健診のたびに「順調ですよ」と言われていた。
胎動もあった。
毎晩夫の誠がお腹に手を当てて、蹴った拍子に「おっ」と声が出た。
それが二人の笑いになっていた。
名前はもう決めていた。
女の子だとわかったとき、二人でいくつか候補を出し合って、最後に迷いなく「はな」にした。
理由はうまく言えなかった。
ただそれが、一番しっくりきた。
ある朝、目が覚めたとき、胎動がなかった。
(まだ眠いのかな)と思った。
お腹に手を当てて、しばらく待った。
来なかった。
少し体を動かした。
来なかった。
昼になっても来なかった。
夕方、誠が帰ってくる前に病院へ電話した。
すぐ来てくださいと言われた。
そのまま帰れなかった。
女の子だった。
体重は一キロ七百グラム。
産声はなかった。
はな、と名前だけがある。
七年が過ぎた。
誠とはそのまま一緒にいた。
離れようとは思わなかった。
でも、はなのことを口にする機会は、少しずつ減っていった。
出せなかったのではなく、出す言葉を持っていなかった。
二人ともそうだった。
話せば何かが崩れると思っていたのかもしれない。
崩れたとしても大丈夫だったのかもしれない。
それでも、なかなかできなかった。
去年の春、二人で引っ越した。
環境を変えようと誠が言い出した。
美穂も素直にうなずけた。
前のマンションよりも少し小さい、駅から十分ほどの集合住宅だった。
ベランダが東向きで、朝の光が気持ちよく入ってきた。
ミモザは五年前の三月、誠が持ってきた鉢植えだった。
美穂の誕生日の夜、仕事から帰るなり何も言わずに抱えてきた。
誠はそういう人だった。
記念日を忘れることもあるが、忘れていない日には何も言わずに何かをする。
「なんで今日?」と美穂は聞いた。
「三月生まれだから」と誠は言った。
少し間があって、「あと、なんか……はなみたいだと思って」
美穂は黙った。
誠も何も続けなかった。
二人でしばらく、ミモザの鉢を食卓の真ん中に置いて、眺めた。
黄色い小さな花が丸く集まって、枝からこぼれるようについていた。
あたたかい色だった。
丸くて、柔らかくて、あたたかい。
美穂はそのとき、心の中だけで思った。
(もしいつかまた子供が生まれたら、ミモザみたいな子がいい。はなという名前のままでいい。黄色くて丸くてあたたか、そういう子に。)
声には出さなかった。
誠にも言わなかった。
ただ心の中だけで、そっと思った。
以来、ミモザを育て続けた。
引っ越しのときも持ってきた。
毎年三月に咲いて、四月の末まで少しずつ残った。
花が終わっても枝を切りすぎないように、水をやりすぎないように、日当たりに気をつけながら、五年間育てた。
その集合住宅の廊下で「はな」と初めて会ったのは、越してきて二週間ほどのことだった。
隣から一つ向こうの部屋の子どもだった。
六歳だと、後から母親に聞いた。
くりくりした丸い目で、薄いピンクの上着を着ていた。
美穂が郵便受けを確認して戻ってくると、廊下の端に立って空を見ていた。
「こんにちは」と美穂が言うと、女の子は振り返ってまっすぐ美穂を見た。
「こんにちは」と言った。
人見知りをするふうでもなく、馴れ馴れしくもなく、ただ静かに挨拶した。
不思議な落ち着きがあった。
「何を見てたの?」と美穂は聞いた。
「トンボ」と女の子は言った。
「でも行ってしまった」
それだけ言って、廊下の向こうへ歩いていった。
それからも時々、廊下で顔を合わせた。
女の子はいつも嫌がらずに挨拶した。
美穂もした。
それだけの関係だった。
名前を聞いたのはずっと後になってからで、母親と一緒のところへ出くわしたとき、「うちのはな、いつもお世話になってます」と言われた。
はな。
美穂は表情を動かさなかった。
動かさないようにしたというより、何も出てこなかった。
「いえ、こちらこそ」と言って、そのまま自分の部屋に入った。
ドアを閉めてから、しばらく動けなかった。
(同じ名前の子はいる。よくある名前だ。)
そう思おうとした。
思えなかった。
「はな」という声が、ずっと耳に残った。
それからは、意識的に距離を置いた。
廊下で会えば挨拶はした。
でもそれ以上は関わらないようにした。
なぜ関わってはいけないのか、うまく言葉にできなかった。
ただ怖かった。
何が怖いのかもわからなかった。
ただ何かが怖くて、自分から話しかけることも、笑いかけることも、しなかった。
それでも「はな」は、美穂を見るといつもまっすぐ目を合わせた。
逃げるでもなく、縋るでもなく、ただ静かに美穂のことを見た。
その目が、どこか落ち着いていた。
子どもらしい無邪気さとは少し違う、どこかずっと前から美穂を知っているような静けさが、目の奥にあった。
美穂は気づかないふりをした。
四月の終わり、晴れた昼前のことだった。
美穂はベランダに出て、ミモザに水をやっていた。
今年も咲いた。
黄色い小さな花が枝いっぱいに広がって、四月の光の中でふわりと揺れていた。
もうすぐ終わりだった。
あと一週間か二週間で、花は散る。
毎年そのことが少し寂しかったが、また来年咲くとわかっていた。
廊下を歩いてくる足音がした。
「はな」だった。
薄いピンクの上着を着て、一人で歩いてきた。
美穂が水をやっているのに気づいて、立ち止まった。
いつものように、まっすぐ美穂を見た。
「こんにちは」と言った。
「こんにちは」と美穂は言った。
「はな」はベランダの方を見た。
ミモザを見た。
「このお花、すき」と言った。
美穂の手が、止まった。
「なんで好きなの?」と美穂は聞いた。
自分でも気づかないうちに聞いていた。
声が少しかすれていた。
「はな」は少し考えた。
「なんかね」と言った。
「黄色くて丸くて、あたたかい感じがして」
体が動かなくなった。
水やりの缶を持ったまま、手すりのところで固まった。
聞こえたと思った。
でも聞き間違いかもしれないと思った。
もう一度聞きたかった。
でも聞けなかった。
黄色くて。
丸くて。
あたたかい感じ。
五年前の夜、誠がミモザを持って帰ってきたとき。
美穂が「なんでミモザ?」と聞いたとき。
誠が答えた言葉だった。
そのまま、そっくりそのまま。
黄色くて丸くてあったかそうで、はなみたいだと思って、と言った誠の声が今も耳に残っていた。
誠にしか言えない言葉だった。
美穂にしか聞こえなかった言葉だった。
「はな」がもう一度ミモザを見た。
「それとね」と言った。
「なんか、ここのお花、って感じがして」
「はな」が廊下の向こうへ歩いていった後、美穂は玄関のドアを閉めて、三歩でその場に座り込んだ。
壁に背をつけて、膝を抱えた。
声は出なかった。
でも体が震えた。
涙がどこから来るのか、止めようとしても止まらなかった。
指先が冷たかった。
それでも体は震え続けた。
(はな)と思った。
声にはならなかった。
でも全身でそう呼んだ。
胸の奥の、ずっと鍵のかかっていた扉の向こうへ、呼んだ。
七年間そこにあった重さが、今一度に押し寄せてきた。
守れなかったという感覚、足りなかったという感覚、毎年四月になるたびに戻ってきた罪悪感のすべてが。
でも同時に、何かが溶けていった。
消えたとは言えない。いなくなったとは言えない。
ただ——形を変えて、ここにいた。
ちゃんと来ていた。
廊下でトンボを見ていた。
まっすぐこちらを見ていた。
ミモザを好きだと言っていた。
美穂しか知らない言葉で、静かに、美穂に会いに来ていた。
夜、誠が帰ってきてから、美穂は話した。
話し始めると、止まらなかった。
「はな」という名前の子のこと。
廊下でよく会っていたこと。
怖くて距離を置いていたこと。
今日ミモザを見て何と言ったか。
その言葉が誠の言葉と同じだったこと。
その子の目が、どんな目だったか。
誠はずっと黙って聞いていた。
途中から目が赤くなっていた。
「ちゃんと来てたんだな」と誠は言った。
それだけだった。
でも美穂には、その一言で十分だった。
二人でしばらく、何も言わずに座っていた。
テレビはつけなかった。
外で夜風が動いた。
向こうの部屋から、かすかに子どもの笑い声が聞こえた気がした。
「はな」の声かもしれなかった。
ただの別の子どもの声かもしれなかった。
でも美穂には、どちらでも同じことだった。
翌朝、ベランダのミモザを見た。
花がほとんど散っていた。
昨日の風で、だいぶ落ちたようだった。
残っているのは枝の一番高いところに、一房だけだった。
美穂はそれを見て、少しだけ笑った。
まだいる。そこにいる。
来年も咲く。
また少し早い三月に、黄色くて丸い花が枝いっぱいについて、あたたかい色で咲く。
そのとき美穂はまた水をやる。
また廊下で「はな」に会えるかもしれない。
会えなくなっても、ミモザは咲く。
どちらにしても、同じことだと思った。
大切なものは消えない。
形を変えながら、ずっとそこにある。
美穂はベランダで、残り一房のミモザに水をやった。
水が細く、やわらかく落ちた。
朝の光の中で、花が少し揺れた。
「またね」と美穂は小さく言った。
声には出したが、届いたかどうかはわからなかった。
でも、届いているような気がした。
この七年間ずっとそうだったように、ちゃんと届いているような気がした。
風が吹いた。
ミモザが揺れた。




