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第5話 「リールの帰り道」

 夕暮れになると、坂の上から犬の鳴き声が聞こえることがある。


 福島孝則は台所の窓を開けたまま夕飯の支度をしていて、その声を聞くたびに手を止めた。

 止めて、またすぐに動かした。

 考えないようにしながら、どうしても考えた。

 外の空が橙色に染まる時間が、一番いけなかった。

 リールと歩いていたのが、いつもその時間だったから。

 リールが死んでから、七年が過ぎていた。


 トイプードルだった。

 チョコレートブラウンの、丸くてふわふわした体。

 前脚が耳の長さよりほんの少し短くて、走るとぴょんぴょん弾むような歩き方をした。


 孝則が三十五歳のとき、妻の由美子に頼み込んでもらった子だった。

 由美子は最初、乗り気ではなかった。

 実家で代々犬を飼っていて、子供の頃から何度も見送っていた。

「あの辛さはもう無理。いつかさようならが来るのがわかってて飼うなんて、もうできない」と言った。

 それが一番強い反対理由だった。


 それでも孝則は、ペットショップのケージの中でころんと丸くなっていた子犬を、一度見てしまったら諦められなかった。

 チョコレート色の毛がケージの明かりの下でつやつやと光っていた。

 眠っているのに耳だけぴくぴく動かして、時々後ろ足をけっていた。

 何かの夢でも見ているのか、口の端が少し動いた。


 名前はその場で思いついた。

「リール」。

 笑い声という意味のフランス語。

 大した理由はない。

 ただ、その顔に似合うと思っただけだった。

「変な名前」と由美子は言った。

 でも笑った。

 一週間後、二人でペットショップに戻った。


 リールは七年間、孝則の家で生きた。

 七歳は早すぎる。

 トイプードルならまだ折り返しにも届かない。

 病名は膵外分泌不全で、最初の症状が出てから一年半で逝った。


 リールは孝則に似た犬だった、と由美子はよく言った。

 マイペースで、呼んでもすぐには来ない。

 でも自分から来たいときは全力で来る。

 散歩のとき、気になる草の匂いがあれば何分でも動かない。

 孝則も散歩が好きだった。

 夕暮れの坂道を、リールのペースで歩くのが好きだった。


 リールには癖があった。

 嬉しいとき、くるくると回るのだ。

 右まわりに、必ず三回。

 孝則が仕事から帰ったとき。

 散歩のリードを出したとき。

 大好きなおやつが来るとき。

 その三つのときはかならず、右まわりにくるんくるんくるん、と三回まわった。

 由美子が「右まわりって決まってるの?」と笑いながら確かめた日があって、孝則も何度か意識して数えたが、確かに右まわりだった。 

 なぜかはわからなかった。

 リールにも理由はなかっただろう。

 そういう犬だった。


 もう一つ、甘えたいときには前足でトントン叩く癖があった。

 孝則が椅子に座っていると、足元に来て、右の前足でぽんぽんと膝の外側を叩く。

「ねえ」と言うような動作だった。

 それで抱き上げると、おとなしく膝の上に収まった。

 由美子の膝では決してそうしなかった。

 孝則の膝だけだった。

 由美子が「えこひいき」と言うたびに、リールは聞こえないふりをした。

 その七年間が、孝則の人生の中心にあった。


 リールが死んだのは、十月の終わりだった。

 病院から連れて帰った夜、リールは孝則の膝の上で眠った。

 最後の夜まで、前足で孝則の膝をトントン叩いた。

 叩かれるたびに孝則は「うん、いるよ」と言った。

 声に出して言えた夜と、声が出なかった夜があった。

 翌朝、動かなくなっていた。

 表情は穏やかだった。


 孝則は一時間ほど、リールの横に座ったままでいた。

 由美子が来て、肩に手を置いた。

 それだけで孝則の体が音を出した。

 泣いたというより、体が勝手に声を上げた。

 由美子もそのまま泣いた。

 二人とも、しばらく、それ以外に何もできなかった。


 七年が過ぎた。

 それでも孝則は、別の犬を飼おうとは思えなかった。

 思えなかったのは、理由がちゃんとあった。

 リールを失ったときの重さが、まだ体の中に残っていたからだった。

 あの重さを知っている体で、もう一度同じことをすることが——できなかった。

 次の犬を飼うということが、リールのことを「終わらせる」ことのように感じられて、それが辛かった。


 七年は長い。

 それでも引き出しに手をかけて引けない感覚は、変わらなかった。

 由美子も同じだった。

「次の子」という言葉が出たのは一度だけで、二人とも何も言えないまま夕食が終わった。

 翌朝、「まだいいかな」と由美子が言った。

「うん」と孝則は言った。

 それで決着はついた。


 チョコレートブラウンのトイプードルを見かけるのが辛かった。

 その毛色が視界に入ると、胸の奥から何かが込み上げた。

 悲しみなのか、ただの愛しさなのか、両方なのか、区別がつかなかった。

 どちらにせよ、しばらく動けなくなった。


 出会ったのは、土曜日の午後だった。

 由美子が外出していて、孝則は一人だった。

 洗濯を済ませてから、あてもなく外に出た。

 気づいたらいつもの坂を上っていた。

 リールと歩いた道だった。

 坂の上の公園に出た。

 週末だったが人は少なかった。

 ベンチに老夫婦が座っていた。

 遠くで子どもが走っていた。


 植え込みの手前に、一頭の犬がいた。

 チョコレートブラウンのトイプードルだった。

 小さく、まるく、ふわふわと。

 リードが柵に結ばれていた。

 飼い主らしい女性がベンチに座って、スマートフォンを見ていた。


 孝則は足が止まった。

 遠回りして帰ろうかと思った。

 でも体が動かなかった。

 トイプードルが顔を上げた。

 孝則の方を見た。

 次の瞬間、犬が動いた。

 リードの限界まで孝則の方へ駆け寄ってきた。

 それだけならよかった。

 でも駆け寄りながら、くるんと回った。

 右まわりに。

 三回。


 孝則は動けなくなった。

(たまたまだ)と思った。

(犬はよく回る。方向も回数も、たまたまだ。)

 でも足が止まって、体が固まって、目が離れなかった。

 犬がこちらを見ていた。

 しっぽを振りながら、孝則のことをまっすぐ見ていた。


「なでてあげてください」

 飼い主がベンチから顔を上げた。

 四十代くらいの女性だった。

「人懐っこい子で。嫌でなければ」

「あ、はい」と孝則は言った。


 気づいたら、もう歩き出していた。

 しゃがんだ。犬が近づいてきた。

 くんくんと孝則の手を嗅いだ。

 鼻がつめたかった。

 それだけで、もう喉の奥が詰まってきた。

 頭を撫でた。

 チョコレートブラウンの、ふわふわとした毛だった。

 その奥に、少しだけ温かい体温があった。

 触れた指先がゆっくり暖まっていく感触。

 七年前に毎日触れていた感触だった。

 七年前に毎朝毎晩触れていた感触と、まったく同じだった。

(こういう毛の犬はほかにもいる)と思った。

(トイプードルはみんなこんなものだ。)

 でも手が、震えていた。


「何という名前ですか」と孝則は聞いた。

「モカです」と飼い主の女性は言った。

 モカ。

 リールではなかった。

 当然だった。


 孝則が手を離そうとした、そのとき。

 犬が、前足でぽんと叩いた。

 孝則の膝の外側を。

 右の前足で。ぽん、ともう一度。

 体が固まった。

 ぽん、ともう一度。

「ねえ」と言うような動作だった。

「いるよ」と言うような動作だった。

 孝則の膝の外側を、右の前足で、静かに、ゆっくりと。

 何も急がずに、ただそこにいながら。

(よくある癖かもしれない)と思おうとした。

 でも体が動かなかった。

 目から涙があふれた。


「大丈夫ですか?」と女性が言った。

 孝則は顔を上げた。

 女性が心配そうに見ていた。

「すみません」と孝則は言った。

「昔、この子に似た犬を飼っていたんです。トイプードルの、チョコレートブラウンの」

「亡くなったんですか?」と女性は聞いた。

「七年前に。七歳で」

「それは……」と女性は小さく言った。

「若かったですね」

 孝則はうなずいた。

 声が出なかった。


 犬がまた、ぽんと膝を叩いた。

 孝則の手が自然に犬の頭に戻っていた。

 撫でながら、犬の目を見た。

 まんまるの、黒い目だった。

 その目が孝則を見ていた。

 動じるでもなく、驚くでもなく、ただ静かに。

 ずっと前から孝則のことを知っていたような目で。


「また飼おうとは、なかなか思えなくて」と孝則は言った。

 いつの間にか声が出ていた。

 女性に話しかけているのか、目の前の犬に話しかけているのか、わからなかった。

「七年経っても、まだ怖くて。次の子を飼ったら、リールのことを終わらせてしまうみたいで」

 女性はしばらく黙っていた。


「うちも同じでした」とやがて言った。

「モカの前に、一頭いたんです。十三年一緒にいた子が。亡くなったとき、もう絶対に飼わないって決めたんです」

「でも飼ったんですね」

「飼いました」と女性は笑った。

「二年我慢したんですけど、やっぱり無理で」

「怖くなくなりましたか」と孝則は聞いた。

「怖いままですよ、今でも」と女性は言った。

「この子がいなくなる日を想像すると、今でも苦しい。でも、そのことを考えてる時間より、この子と今日どこへ行こうかって考えてる時間の方が、ずっと長くなりました」

 孝則はその言葉を、もう一度心の中で繰り返した。


 立ち上がる前に、もう一度だけ犬の顔を見た。

 犬は孝則と目が合ったまま、しっぽをゆっくり振り続けていた。

 急かすわけでも、引き止めるわけでもなく、ただそこにいた。

 ただ、孝則のことを見ていた。


 犬がもう一度、くるんと回った。

 右まわりに。一回だけ。

 それだけだった。

 でもそれで十分だった。

 孝則の目から、また涙が出た。

 止めようとしたが、もう止まらなかった。

 しゃがんだまま、犬の頭に額を近づけた。

 犬が鼻先を孝則の額に触れた。

 温かかった。


「ありがとう」と孝則は言った。

 声が震えた。

 犬がしっぽを振った。

「モカ」と飼い主の女性が静かに呼んだ。

 犬が振り返った。

 女性を見て、また孝則を見た。

 それからゆっくりと孝則の膝から前足を離して、女性の足元へ戻った。

 伏せて、尻尾だけをゆっくり揺らしていた。


 孝則は立ち上がった。足がしびれていた。

 目を拭った。

「ありがとうございました」と女性に言った。

「こちらこそ」と女性は言った。

「週末はたいていここにいますよ」

 孝則は頷いた。

 振り返って歩き出した。


 五歩ほど行ったところで、振り返った。

 犬が顔を上げていた。

 目が合った。

 しっぽが、一度、大きく揺れた。


 坂を下りながら、孝則は由美子に電話した。

 三回呼び出して、由美子が出た。

「どうしたの?」

「話したいことがあって」と孝則は言った。

「犬のことで」

 しばらく、沈黙があった。

「そう」と由美子は言った。

 それだけで何もわからない言葉のはずだったが、孝則には全部わかった気がした。

「帰ったら聞く。待ってて」

「うん」と孝則は言った。

 電話が切れた。

 夕暮れが深くなっていた。

 どこかで、小さな犬が一声鳴いた。


 その夜、由美子が帰ってきてから、二人でリールのことを話した。

 七年分、話した。

 リールがいかに偏食だったか。

 散歩で必ず同じ電柱を確認してから帰ったこと。

 冬になると孝則のジャンパーの中に入ろうとして、チャックに顎をはさんだこと。

 くるくる回る癖を、公園で子供たちに見られたとき、リールが不服そうな顔をしたこと。

 笑いながら話した。

 途中で泣いた。

 二人で泣いた。

 泣きながらまた笑った。

 お茶が冷めた。

 それでも話し続けた。

「また回るとこ、見たいな」と由美子がぽつりと言った。

 孝則は何も言わなかった。

 でも、うなずいた。


 布団の中で、孝則はリールのことを考えた。

 ぴょんぴょん弾みながら走るリール。

 右まわりに三回、くるんくるんくるんと回るリール。

 前足でぽんぽんと膝を叩いてくるリール。

 最後の夜、孝則の膝の上でトントン、トントンと前足を動かし続けていたリール。

 そして今日、公園で右まわりに回った犬の目。

 あの目が、孝則のことを見ていた。

 ずっと前から知っていたような目で。

 ちゃんとやってる、と確かめるような目で。

 ちゃんとやってる、と孝則は心の中で答えた。


 また歩くよ。

 また夕暮れの坂道を歩くよ。

 今度は一頭連れて、また右まわりに三回、回ってみせてくれ。

 ありがとう、リール。

 また会えて、よかった。

 由美子がそっと電気を消した。

 部屋が暗くなった。

 外で夜風が動いた。

 どこかで、小さな犬が一声鳴いた。


 孝則はそれを聞いて、目を閉じた。

 胸の中が、静かだった。

 重さは残ったままだった。

 でも、その重さがそのまま、温かかった。

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