第4話 「先生の赤いボールペン」
十月の夕暮れは、やけに早く来る。
宮本陽子が教室に入るとき、窓の外はまだ明るかった。
でも授業が終わって廊下に出ると、空はもうすっかり暗くなっていた。
その三十秒で世界が変わったような気がして、いつも少し、置いていかれた感覚になる。
秋はそういう季節だ。
気づかないうちに、何かが終わっている。
東京・中野にある学習塾「ライズアカデミー」の講師室は、窓のない小さな部屋だった。
ホワイトボードと、折り畳みテーブルと、パイプ椅子が三つ。
換気扇が回る音だけがずっとしていて、外の音はほとんど入ってこなかった。
陽子はそこで次の授業の準備をしながら、赤いボールペンで採点用紙に点数を書き込んでいた。
赤いボールペンを使うようになったのは、いつからだろう。気づいたら使っていた。
橘和彦先生が死んだのは、三年前の夏だった。
陽子が三十二歳の夏、橘先生は通勤途中に車に撥ねられた。
朝七時十分、横断歩道の手前で。
信号は青だったという。
それを知ったのは同窓会の案内メールで、誰かが追記で「橘先生が今年の夏に亡くなりました」と書いていた。
陽子はその文字を三回読んで、それでも意味がわからなかった。
しばらくしてから、やっとわかった。
椅子から立てなかった。
橘先生は、陽子の高校二年と三年の担任だった。
現代文と小論文を教えていて、教え方が独特だった。
黒板にはほとんど何も書かなかった。
代わりに、生徒に問いかけ続けた。
「どう思う?」
「それはなぜ?」
「本当にそうか?」と、ひとりひとりの顔を見ながら聞いた。
最初は戸惑っていたクラスが、三ヶ月もたつと、誰でもがしゃべれるようになっていた。
口癖は「答えは問題の中にある」だった。
どんな設問でも、どんな悩みでも、ちょっと立ち止まって先生に話すと、最後にそう言った。
最初はきれいごとに聞こえた。
でも受験が終わって、大学に入って、そして陽子が塾講師になってから、その言葉の意味がじわじわとわかってくるようになった。
答えは問題の外にはない。
問題の中にある。
それはどんなことにも当てはまった。
先生がよく使っていたのが、赤いボールペンだった。
油性の赤いボールペン。
ブランドにこだわりはなかったようだが、必ず赤だった。
授業中に板書をするときではなく、プリントに書き込むときや、答案を返すときに使った。
赤いインクの走り書きで、「惜しい」とか「もう一歩」とか「ここが大事」とか書いてくれた。
陽子が大学受験に合格したときの答案用紙には、「よくここまで来た」と書いてあった。
その答案用紙は、まだ実家の引き出しの中にある。
陽子が塾講師になったのは、先生の影響だと思っている。
誰かに何かを伝える仕事がしたかった。
ちゃんと向き合って、その人だけに言葉を届けたかった。
入塾したその春に、先生に電話しようと思っていた。
「先生みたいになりたくて、塾の先生になりました」と言いたかった。
でも電話する前に夏が来て、夏に先生はいなくなった。
言えなかった言葉が、まだそこにあった。
橘健太が「ライズアカデミー」に来たのは、その年の十月の頭だった。
大学院を出たばかりの、二十五歳だった。
専門は英語で、週に三日、高校部の英語担当として入ることになった。
講師室で初めて自己紹介をされたとき、陽子は「橘」という名前のところで一拍、止まった。
「よろしくお願いします、橘健太です」
「よろしく。名前、珍しいね」
「橘は珍しいですね、よく言われます」
それだけだった。
珍しい苗字ではあるが、世の中に橘という姓の人間は一定数いる。
赤の他人だろうと思った。
ただ、なんとなく気になった。
最初の授業を終えて戻ってきた健太が、講師室のテーブルに教材を広げ始めた陽子の隣に座り、採点を始めた。
ペンケースから取り出したのが、赤いボールペンだった。
陽子は手を止めた。
油性の赤いボールペン。
ブランドはどこか、陽子の角度からは読めなかった。
でも、その赤の色と、インクの走り方が、記憶の中の赤と重なった。
(気のせいだ)とすぐに思った。
赤いボールペンを使う人間などいくらでもいる。
その日はそれだけだった。
変だと思い始めたのは、一週間ほどたってからだった。
廊下ですれ違ったとき、健太が採点中の答案用紙に何かを書き込んでいた。
「惜しい」という文字が見えた。
陽子は立ち止まって、見て、また歩いた。
授業中の健太を、陽子は窓越しに一度だけ見た。
教室の外から覗いたわけではなく、廊下を歩いていて、ガラス戸の向こうに見えただけだった。
健太は黒板の前に立って、生徒に何かを問いかけていた。
生徒が答えると、健太は頷いて、また問いかけた。
その問いかける仕草が——顎を少し引いて、生徒の顔を真正面から見る、あの仕草が——見覚えのある形をしていた。
陽子は廊下で立ち止まった。
三秒ほど立ち止まって、また歩いた。
講師室に戻って、健太のペンケースが置いてあるのを見た。
そっと触れた。何本か入っていた。
全部、赤いボールペンだった。
(橘先生も、赤いボールペンしか使わなかった。)
偶然の一致は、いくつかある。
でもその一致が積み重なり始めると、人はそれを偶然とは呼べなくなっていく。
陽子は自分の気持ちをうまく整理できないまま、その週の残りの授業をこなした。
二週間目の金曜日、健太が珍しく早く戻ってきた。
テストを返した後で時間が余ったらしく、腕を組んで何かを考えている様子だった。
陽子が採点している横で、健太が独り言のように言った。
「この子、惜しいんですよね」
「何が?」
「解き方の手順は合ってるのに、最後で間違えてる。答えまでもう一歩なのに」
「見せて」
健太が答案用紙を差し出した。
陽子はざっと目を通した。
英語の長文読解で、最後の記述問題の答えが少しずれていた。
「答えは問題の中にあるから」と陽子は言おうとして、健太が先に言った。
「答えは問題の中にあるんですよね。最後の段落に全部書いてあった」
陽子はペンを持ったまま、止まった。
健太は気づいていなかった。
答案用紙を受け取って、「次にフィードバックしてみます」と立ち上がった。
陽子はしばらく、動けなかった。
次の授業は、高校三年生の現代文だった。
陽子が担当しているクラスで、健太は関係ない。
でもその日、いつものように授業をしながら、陽子は橘先生のことをずっと考えていた。
授業の後半に、評論文の難問を出した。
今年度の入試に実際に出た問題で、正答率が低い。
生徒たちが頭を抱えながら解いている間、陽子は黒板の前に立って、静かに待った。
十分後、一番前に座っている西川という女子生徒が、鉛筆を置いた。
陽子が添削すると、正解だった。
正確ではなかったが、核心をついていた。
「惜しい。でもここはよく気づいた」
陽子は答案用紙の余白に、赤いボールペンで書いた。
そして——気づかないうちに——やっていた。
右手を軽く握って、わずかに引く、小さなガッツポーズ。
ほとんど動いていない。
傍から見れば何もしていないに等しい。
でも橘先生と陽子の間では、それが「よくやった」のサインだった。
先生が問題を解いた生徒に贈る、目立たないほどの小さな喜びの表現。
先生が最前列に座っていた陽子にだけ、いつも見えた。
扉のそばで、健太が立っていた。
次の自分の授業の前に、教材を取りに来たのだろう。
扉越しに、陽子の方を見ていた。
陽子がそのガッツポーズをしたとき、健太の右手が、わずかに動いた。
ほんの一瞬だった。
健太自身は気づいていなかった。
でも陽子には見えた。
右手を軽く握って、わずかに引く——全く同じ、あの動作。
反射だった。
条件付けられたように、無意識に、体が動いた。
健太はそのまま扉を開けて入ってきて、「すみません、教材取りに」と言って、棚から資料を取って出て行った。何も知らない顔をしていた。
陽子は黒板の前で、しばらく立っていた。
廊下に出ると、健太はもうエレベーターの中にいた。
扉が閉まる瞬間、陽子と目が合った。
健太は軽く頭を下げて、扉が閉まった。
陽子はその閉まった扉をしばらく見ていた。
言うべきことがあるような気がしたが、何を言えばいいかわからなかった。
「あなたは橘先生ですか」などと言えるはずもない。
言えたとしても、健太には何のことかわからないだろう。
前世の記憶を持って生まれてくる人間がいるとしても、それはほとんどの場合、本人には届かない形で現れるのだと思う。
癖として、嗜好として、反射として。
魂が覚えていても、意識はそれを知らない。
非常口の赤いランプが廊下に光を落としていた。
秋の夜の廊下は静かで、遠くから誰かの授業の声がかすかに聞こえた。
陽子は自分のペンケースを開けた。
赤いボールペンが三本入っていた。
一番よく使っていた一本を取り出して、キャップを外した。
インクが出た。問題なかった。
(先生)と、心の中で言った。
声には出さなかった。
声に出す必要もなかった。
言葉はちゃんと、届く場所に届くと思った。
先生が死んでから三年、陽子は「ありがとう」をずっと言えないでいた。
電話できなかったこと。
入塾の春に報告できなかったこと。
塾の先生になったのは先生のおかげだと、ちゃんと伝えられなかったこと。
それが、ずっと小さな棘のように刺さっていた。
でも今夜、何かが少し抜けた気がした。
棘が消えたわけではなかった。
でも棘の角度が変わって、もう痛くなくなった。
そういう感じだった。
先生は、また教えている。
この世界のどこかで、別の名前と別の顔で、でも同じように——問いかけながら、赤いボールペンで「惜しい」と書きながら、「答えは問題の中にある」と言いながら。
授業は続いている。
先生がいなくなっても、授業は続いている。
そういうものかもしれない、と陽子は思った。
教えるという行為は、誰か一人が抱えているものではなく、人から人へと渡されていくものだ。
先生から自分へ。
自分からまた誰かへ。
そうやって長い時間の中に引かれた、ひとすじの線。
陽子は赤いボールペンのキャップをはめた。
廊下の電気がタイマーで消えて、非常口の赤いランプだけが残った。
その光の中に、陽子は少しの間立っていた。
次の週、健太が「先生って赤いボールペン使うんですね」と言った。
「うん」
「僕も赤いボールペンしか使えなくて。ほかの色だと落ち着かないんですよ、なぜか」
「なぜか」と陽子はそのまま繰り返した。
「なぜかわからないんですけど」と健太は照れたように笑った。
陽子はそれを見て、微笑んだ。
「それでいいんだよ」と言った。
「理由がなくていい。そういうことは、そのままにしておいて」
健太は「そういうものですかね」と首をかしげた。
陽子はそれ以上説明しなかった。
説明できることではなかったし、する必要もなかった。
窓の外で、銀杏が黄色くなっていた。
秋が深くなっていた。
教室に蛍光灯がともり始める時刻が、また少し早くなっていた。
その夜、陽子は実家に電話した。
母が出て、少し話して、「何かあった?」と聞かれた。
「何もないよ。久しぶりに声聞きたくなっただけ」
「急にどうしたの」と母は笑いながら言った。
「なんかね、ちゃんと言えてなかったことが言えた気がして」
「何を?」
「ありがとう、みたいなこと」
「誰に?」
「昔の先生に」
母はしばらく考えてから「そう」とだけ言った。
それ以上聞かなかった。
電話を切った後、陽子は窓を開けた。
夜の空気が入ってきた。
金木犀はもう終わっていた。
代わりに、何の花の匂いでもない、
ただ秋の夜の匂いがした。
冷たくて、澄んでいて、どこか遠いところから来たような。
赤いボールペンをペンケースにしまった。
明日もここに来る。
また誰かに問いかける。
誰かの「惜しい」を見つける。
そしてあの小さなガッツポーズをするかもしれない。
気づかないうちに。
それでいいと思った。
先生のしていたことを、今は自分がしている。
いつか自分が教えた誰かが、また誰かに同じことをするかもしれない。
それは授業ではなく、もっと長い何かで——人から人へ渡り続ける、名前のないもの。
陽子は、初めて、本当の意味でそれを理解した。
「先生、ありがとう」
今度は声に出して言った。
小さな声だったが、聞こえていると思った。
どこかで赤いボールペンを手に持ちながら、「答えは問題の中にある」と言いながら、先生は聞いていると思った。
そして——きっと——うなずいた。




