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第3話 「ニャンコが帰ってきた」

 部屋が、鳴らなくなった。


 木村恵子がそう気づいたのは、ゆずが逝ってから一週間ほどたった頃だった。

 部屋の中でいつも何かの音がしていた。

 爪が板の間をひっかく音。

 ご飯の皿が動く音。ふわりと着地する音。

 そして——何よりも——ちいさくて舌足らずな、あの声。

 部屋はずっと鳴っていた。

 十六年間、ずっと。

 それが消えると、部屋はただの箱になった。

 壁も床もそのままなのに、何かが根こそぎ変わっていた。


 ゆずは十一月の初めに逝った。

 老衰だった。

 十六歳と四ヶ月。

 人間で言えば八十歳を過ぎている。

 最後の一ヶ月は食欲が落ちて、足元がふらつくようになって、それでもコタツの端から恵子の膝の上へと必死に登ろうとした。

 最後の夜は、恵子の腕の中に収まって、小さく「うにゅ」と鳴いて、それきり鳴かなくなった。


 恵子は縁もゆかりもない川崎の小さなアパートで、三十七歳のときにゆずと出会った。

 雨の日に段ボール箱に入って捨てられていた子猫だった。

 声を聞いたとき、「みゃう」でも「にゃあ」でもなく、「うにゅ」というちいさな声が聞こえた。

 思わず段ボールを開けた。

 クリーム色の、目がまだ開いていないちいさな命が、必死に声を出していた。

 何も考えずに抱き上げていた。

 それから十六年、二人で暮らした。


 恵子は五十三歳だった。

 独り身だった。

 結婚はしなかった。

 したかったかと問われれば、しようとしたこともあったが、うまくいかなかった。

 以来、仕事と猫だけの生活が続いた。

 仕事は十年前に勤めていた食品会社を辞めて、今は近所のスーパーでパートをしている。

 収入は少ないが、一人分には足りた。


 ゆずが逝ってからの一ヶ月、恵子は仕事以外ほとんど外に出なかった。

 出なかったというより、出る理由が思い浮かばなかった。

 帰ってきたら出迎えてくれる存在がいないと、帰宅することもただの動作になる。

 食事の支度をするのがおっくうになって、コンビニの惣菜を買って帰ることが増えた。

 部屋の掃除が滞った。

 窓を開けなくなった。

 ゆずの皿はまだそこにあった。

 水飲み場もそのまま。

 爪研ぎもそのまま。

 一番置けなかったのは押し入れの中のクッションだ。

 古くなった恵子のセーターをほどいて作った手縫いのクッション。

 ゆずが一歳の頃から十六年、ずっとそこで寝ていた。

 押し入れを開けるとクッションがあって、クッションには猫の毛が残っていた。

 触れると、指先にふわりとゆずの匂いがした。

 それだけが理由で、押し入れを開けることができなくなった。


 雨が降り始めたのは、夜の九時を過ぎた頃だった。

 十二月に入って最初の週、気温が急に下がった日で、雨は最初から細かく冷たかった。

 恵子はコタツに入って、テレビをつけたまま何も見ていなかった。

 コンビニで買った小さな鍋焼きうどんの容器が、食べかけのまま脇に置いてあった。

 音がしたのは十時前だった。


 玄関のドアの、下の方から。

 引っかくような、微かな音。

 風が吹いて雨足が強くなったせいかと思ったが、また聞こえた。

 今度はもう少し、意志のある音だった。

 恵子はコタツから出て、玄関へ向かった。

 ドアを開けると、冷たい空気と一緒に雨の匂いが入ってきた。

 廊下に、ぐっしょりと濡れた小さな塊があった。


 猫だった。

 子猫、というには少し育っていた。

 三ヶ月か四ヶ月か。

 毛色はトラ柄で、ゆずとは全く違う。

 首輪はなかった。

 外に出て迷い込んできたか、捨てられたか。

 びしょびしょで、冷たいだろうに、恵子を見上げて、何も言わなかった。


 (関係ない)と思った。

 もう猫は飼わないと決めていた。

 こんな思いをするくらいなら、思い入れを作らない方がいい。

 そう思っていた。

 (でも、雨の中には置けない。)

 恵子は子猫を抱き上げた。

 ぐっしょりと、重かった。

 廊下に水が滴った。

 ドアを閉めた。


 洗面所のタオルで拭いてやると、子猫は大人しかった。

 緊張か寒さかで体が固まっていて、抵抗する元気もないようだった。

 毛が乾いてくると、ふわりと膨らんで、思っていたより大きく見えた。

 台所に行って、あまりものがないか探した。

 ゆずに与えていた缶詰がいくつか残っていた。

 食べさせてみると、がつがつと食べた。

 相当空腹だったようだ。


(今夜だけだ)と恵子は思った。

(明日の朝、どこかに連絡しよう。)


 リビングに戻ると、子猫はすでに部屋の中を歩き始めていた。

 そのとき気づいた。

 歩き方が、少しおかしかった。

 右前脚を、わずかに引きずるように歩いていた。

 病気ではなく、クセのような感じで、歩けないわけではない。

 でも、右前だけ、ほんのわずか、引きずる。

 恵子は立ったまま、その歩き方を見た。

 ゆずも、右前脚を引きずって歩いた。

 捨てられていたときからそうで、どこかで怪我をしたのだろうと思っていた。

 治ることはなかったが、一生そのまま、右前だけ少しだけ引きずって歩いた。

 (そういう猫は多いのかもしれない)と思おうとした。


 子猫が口を開いた。

「うにゅ」

 恵子は動けなくなった。

「みゃう」でも「にゃあ」でも「にゃん」でもなかった。

「うにゅ」だった。

 ゆずが十六年間、ずっと発し続けた声だった。

 ゆずを動物病院に連れて行ったとき、「珍しい鳴き方ですね」と言われたことがある。

 個体によって鳴き方は違うが、「うにゅ」という表現をそのまま使われたのは初めてだと先生が言っていた。

 子猫はもう一度、「うにゅ」と言った。


 そのままリビングを横切り、廊下へ出た。

 恵子はついて行った。

 子猫は廊下を進んで、寝室へ入った。

 恵子の後をついて来るのではなく、自分で行き先を決めて歩いていた。

 まるで間取りを知っているように、迷わなかった。

 寝室の押し入れの前で、子猫は止まった。

 引き戸に前脚をかけて、引こうとした。

 うまく開かない。

 恵子はしゃがんで、引き戸をそっと開けてやった。

 子猫は中に入った。

 薄暗い押し入れの奥に、クッションがあった。

 古いセーターをほどいて作った、くたびれた手縫いのクッション。

 子猫はまっすぐそこへ歩いて行って、くるくると一回転して、そこに丸まった。

 ゆずが十六年間、毎晩していたことと、全く同じように。


 恵子は押し入れの前にしゃがんで、しばらくそのまま動けなかった。

 子猫は目を細めていた。

 クッションに顎をのせて、尻尾だけを緩やかに揺らしていた。

 恵子のことを見たり、見なかったりしながら。


 胸の奥から、何かが込み上げてきた。

 悲しみとも違った。

 喜びとも違った。

 でも目から水が出てきた。

 止めようとしたができなかった。

 手の甲で拭っても、また出てきた。


 子猫が顔を上げた。

「うにゅ」と言った。

 恵子は笑った。

 泣きながら笑った。

 笑いながら泣いた。

 声が変になった。

 鼻が詰まった。

 それでも笑いが止まらなかった。

 こんなに笑ったのはいつぶりだろうと思った。

 ゆずが死んでから、笑っていなかったかもしれない。


 恵子は手を伸ばして、そっと子猫に触れた。

 子猫は逃げなかった。

 するっと指を受け入れて、目を細めた。

「ゆず?」と小さく聞いた。

 子猫は答えなかった。

 猫は答えない。

 でも恵子にはわかった。

 答える必要がなかった。

「また、よろしくね」と恵子は言った。

 子猫は目を細めた。

 それ以上のことは何もしなかった。

 でも恵子には、それで十分だった。

 十分以上だった。


 恵子は立ち上がった。

 足がしびれていた。

 押し入れを少しだけ開けておいて、子猫が出入りできるようにした。

 台所に戻った。

 さっき食べかけていたコンビニの鍋焼きうどんが、冷めて固まっていた。

 恵子はそれを片付けて、冷蔵庫を開けた。

 卵があった。

 ねぎがあった。

 豆腐があった。

 豆腐は開封済みで、今夜使わないとだめだった。


 恵子は包丁を出した。

 久しぶりに、ちゃんと料理をしようと思った。

 一人分の何かを、きちんと作ろうと思った。

 理由はうまく言葉にできなかった。

 ただ、そうしたかった。

 体がそうしたがっていた。


 ねぎを切り始めた。

 ねぎを切る音がした。

 包丁がまな板に当たる音。

 換気扇を回すと風の音がした。

 外の雨の音も、少しだけ入ってきた。


 寝室の方から、「うにゅ」と声がした。

 恵子はそれを聞いて、もう一度笑った。

 今度は泣かなかった。

 ただ笑った。

 部屋に声が戻ってきていた。

 部屋がまた、鳴いていた。


 食事を終えた後、恵子は子猫の名前を考えた。

 ゆず、という名前をもう一度つけようかと思った。

 でもやめた。この子は、ゆずとは違う体を持って、違う顔でここに来た。

 同じ魂かもしれないが、同じ猫ではない。

 前の名前を押しつけるのは、失礼な気がした。


 毛色を見ながらしばらく考えて、「こむぎ」にしようと思った。

 トラ柄のくすんだ茶色が、小麦粉みたいだと思った。

「こむぎ」と呼んでみた。

 寝室から、「うにゅ」と聞こえた。


 来なかった。

 でも、聞こえていた。

 それでいいと恵子は思った。

 名前を呼ばれたら返事をしなければならないなんてことはない。

 猫には猫のペースがある。

 それはゆずが十六年かけて教えてくれたことだった。


 その夜、恵子はずいぶん久しぶりに、きちんとした時間に布団に入った。

 電気を消すと、しばらくして押し入れの方からかすかな音がした。

 子猫が動いているのだろう。

 耳を澄ませると、寝息のような、かすかなリズムが聞こえた気がした。

 聞こえなかったかもしれない。

 でも恵子はそれを聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。


 雨は続いていた。

 窓を叩く音が一定のリズムで続いていて、その音が子守唄みたいだと恵子は思った。

 こんなことを思ったのはいつぶりだろう。

 いつぶりかわからないくらい遠い以前から、恵子は夜に何かを「みたいだ」と思う余裕をなくしていたのかもしれない。


 眠りに落ちる前に、ゆずのことを考えた。

 十六年間一緒にいたゆず。

 捨てられていた段ボールの中で「うにゅ」と鳴いていたゆず。

 右前脚を少し引きずって、それでも颯爽と部屋を歩いていたゆず。

 死ぬ夜、恵子の腕の中に収まって、最後に一度だけ鳴いたゆず。

 ありがとう、と思った。

 別れが来ても、またこうして戻ってきてくれるなら、また全部受け取ろうと思った。


 十六年も、また十六年も。

 命に終わりが来るたびに、また出会えるなら。

 それは悲しいことではなく、むしろ、信じていいことだと思った。

 大切なものは、消えない。

 形を変えて、また帰ってくる。

 恵子はそのまま、眠った。

 部屋の中で、雨の音と、かすかな寝息のリズムだけが続いていた。

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