第2話 「麦わら帽子の子供」
八月の海は、音がちがう。
向井沙織がそう気づいたのは、今年で三度目のことだった。
波の音も、子どもたちの声も、砂の上を風が走る音も、全部が一段高い場所にある。
まるで世界全体が、少しだけ沸点に近いところで動いている。
そういう音だった。
沙織は砂浜のはずれ、人の少ないところにビーチマットを敷いて座っていた。
日傘はない。
帽子もない。
正直に言えば、熱いくらいがちょうどよかった。
日差しが肩に落ちてくる重さ。
砂の白さが目に刺さるような眩しさ。
それらが全部、自分が今ここにいるという証拠になった。
まだいる。
まだここにいる。
それを確かめるために、毎年この浜に来ていた。
息子の蓮が死んだのは、三年前の八月だった。
蓮は六歳だった。
急な発熱から始まった。
最初はただの夏風邪だと思った。
保冷剤で額を冷やして、ゼリーを食べさせて、それでよくなると信じていた。
二日目の朝、首筋が固いと言い出した。
三日目の夜、救急車を呼んだ。
診断が出るまでに五時間かかった。
細菌性髄膜炎だった。
進行が速すぎた。
沙織が意味を飲み込む前に、すべてが終わった。
蓮が生きていたのは、六年と二ヶ月と十七日間だった。
短い命だったとは思わない。
今でもそう思いたくない。
蓮はあの六年間に、沙織が知っている限りほとんどすべてのことを、精一杯やっていた。
毎日大笑いして、毎日転んで、毎日何かを怖がって、毎日何かを好きになっていた。
それが短かったとは、言えなかった。
ただ、足りなかった。
もっと見たかった。
もっと聞きたかった。
七歳の蓮を、十歳の蓮を、中学生の蓮を。
沙織はその全部を見られなかった。
その喪失だけが、三年経っても、同じ深さのまま、胸の中にあった。
夫の健一とは、一年前に別れた。
蓮の死が原因というわけでもなかったが、蓮のいない家で二人でいることが、お互いにとって苦しくなっていった。
誰が悪いわけでもなかった。
ただ、同じ場所で同じ重さのものを抱えていると、支え合うよりも、お互いが重さを思い出させてしまった。
ある夜、健一が「少し離れてみよう」と言った。
沙織は泣かなかった。
泣く力が残っていなかった。
今は一人で、世田谷の小さなマンションに住んでいる。
蓮の写真は飾ってある。
三歳の誕生日に撮った写真と、五歳の保育園の写真と、最後の夏に撮った海での写真の、三枚。
最後の海の写真の中で、蓮は麦わら帽子をかぶって、砂浜に向かって走っていた。
こちらを振り返っていたから、顔は半分しか見えなかった。
でも笑っているのはわかった。
蓮はいつでも笑って走っていた。
麦わら帽子には、紺色のリボンがついていた。
蓮のお気に入りだった。
どこで買ったものかもう覚えていない。
三歳の頃から、海に来るたびかぶって、絶対に脱がなかった。
砂の上で昼寝するときも、水際で遊ぶときも、かぶったまま寝てかぶったまま起きた。
その帽子は、蓮が死んでから行方がわからなくなった。
入院中は家に置いてあって、病院からそのまま戻らなかった。
捨てた覚えはない。
でも探してもどこにもなかった。
それだけが、今でもかすかに引っかかっていた。
正午を過ぎた頃、日差しが一番きつくなった。
砂浜の熱が足の裏から伝わってくる。
海の色が、濃い藍から白っぽい水色に変わって、日光でぎらぎらしていた。
潮の匂いが濃くなった。
波打ち際では、子どもたちが水を蹴り合っていた。
親たちが日傘の下で見守っていた。
アイスキャンデーの棒が砂に落ちていた。
沙織はペットボトルの水を飲んで、少しだけ目を細めた。
波の音を聞いていると、蓮の声が混じって聞こえる気がすることがあった。
「かーあさん、見て」という声。
「こっち来て」という声。
波が砕けるたびに、また消えた。
聞こえたと思ったのは、聞きたかっただけかもしれなかった。
でも、それでいいとも思っていた。
聞こえなくなったら、それの方が怖かった。
ふと、視界の端に、何かが映った。
左手の方、波打ち際から少し離れた場所に、小さな子どもがいた。
四、五歳か、それとも六歳か。
男の子だった。
一人で、砂を掘っていた。
両手で熱心に砂をすくって、また埋めて、また掘って。
そばに大人がいるふうでもなかったが、すこし離れたところにブルーシートを敷いた家族連れがいて、たぶんそこから来たのだろうと思った。
沙織はその子どもをぼんやり見た。
特に理由はなかった。
海に来ると、子どもを目で追う癖がついていた。
男の子ならなおさらだった。
蓮と同じくらいの年頃の子を見かけると、目が吸い寄せられた。
自分でわかっていたが、止められなかった。
男の子は帽子をかぶっていた。
麦わら帽子だった。
沙織はそこで、少し、呼吸が変わった。
麦わら帽子の子どもは珍しくない。
夏の浜辺には山ほどいる。
それはわかっていた。
わかっていたが、目が離せなかった。
帽子の縁が、日差しの中で白く光っていた。
男の子はまだこちらに背を向けて、一心に砂を掘っていた。
(見すぎない方がいい)と思った。
(関係ない子だ。)
でも、目が離れなかった。
風が吹いた。
海から来た風は湿っていて、塩の匂いがした。
男の子の麦わら帽子が、風に揺れた。
後ろ向きのまま、帽子が少しだけ持ち上がった。
その拍子に、リボンが翻った。
紺色のリボンだった。
沙織は立ち上がっていた。
気づいたら立っていた。
立とうと思ったわけではなかった。
体が先に動いていた。
足が砂に沈んだ。
一歩、また一歩、男の子の方へ向かっていた。
心臓が速くなっていた。
おかしい、おかしいとどこかで思いながら、足が止まらなかった。
(よくある帽子だ)と思おうとした。
(紺のリボンなんて、珍しくもない。)
でも、体は止まらなかった。
もっとよく見たかった。
近くで見たかった。
違うと確認して、早く落ち着きたかった。
それだけのはずだった。
十歩ほどまで近づいた。
男の子はまだ気づいていなかった。
砂に小さな穴を掘って、その穴に何かを埋めようとしていた。
小石か、貝殻か。
小さな手が、丁寧に砂をかぶせていた。
帽子を、正面から見た。
麦わら帽子に、紺色のリボン。
そしてリボンの結び目の右横に、ごく小さな、汚れのようなシミがあった。
沙織の足が、止まった。
三年前の夏、蓮が波打ち際で転んだ。
かぶっていた帽子が波に飲まれかけて、慌てて沙織が拾い上げた。
そのとき帽子についた砂が、リボンに薄くくっついた。
家で洗ったが、少し残った。
ごく小さな、褪せたシミ。
今、男の子の帽子の同じ場所に、同じシミがあった。
沙織は呼吸ができなくなった。
頭の中で声がした。
(ちがう。ちがう。そんなわけがない。)
でも体が震えていた。
両手が、気づいたら砂に向かって伸びていた。
何かを掴もうとするように、何かを確かめようとするように。
男の子が顔を上げた。
まっすぐ、沙織を見た。
黒い瞳だった。
眩しそうに目を細めて、でも怖がるでもなく、ただ静かに沙織を見た。
蓮の顔ではなかった。
顔は全然ちがった。
この子はもっと丸顔で、もっと日焼けしていた。
眉の形も違う。
でも、目だけが——目だけが——何かがおかしかった。
怖いわけでもなかった。
不思議でもなかった。
ただ、その目が沙織を見たとき、何かが貫いた。
胸の奥を、真っ直ぐに。
言葉にならない何かが。
男の子が口を開いた。
歌い始めた。
鼻歌のような、小さな声だった。
特定のメロディというより、思いつきで出てきたような、ゆったりとした音の連なり。
でも沙織が聞いた瞬間、世界から音が消えた。
波の音が消えた。
子どもたちの声が消えた。
風の音も、自分の呼吸の音も、何もかも消えた。
その小さな声だけが残った。
その旋律を沙織は知っていた。
知っているどころではなかった。
それは沙織が作った旋律だった。
蓮が二歳の頃から、沙織が毎晩ベッドで歌っていた子守唄だった。
どこかの歌ではなかった。
楽譜もなかった。
音楽の知識があるわけでもない沙織が、ある夜ふと口ずさんで、それを蓮が気に入って、以来ずっと二人の間だけの歌になった。
録音したこともなかった。
CDも楽譜も存在しない。
この世界のどこにも、この音の並び方を知っている人間は、沙織一人しかいないはずだった。
男の子が、歌っていた。
沙織の膝が折れた。
砂の上にそのまま崩れ落ちた。
両手が砂につかえた。
顔が歪んだ。
声を出そうとしたが出なかった。
代わりに全身が震えた。止めようとしたが、体がいうことをきかなかった。
(蓮)と思った。
思ったというより、体がそう叫んだ。
頭でもなく、心でもなく、体の芯の部分が。
信じようとしたわけでも、信じまいとしたわけでもなく、ただそこにあった確信が、全部一度に押し寄せてきた。
ぽろぽろと涙があふれた。
声がした。
自分が泣いている声だ、と少し遅れて気づいた。
こらえようとしたが、喉の奥から何かが出てきて止まらなかった。
波の音も子どもの声も、自分の声に混ざって聞こえた。
砂が熱かった。
両手に熱が伝わった。
それでも立ち上がれなかった。
男の子はまだ歌っていた。
沙織のことを見ながら、穏やかに、ゆったりと歌っていた。
どれくらいそうしていたのか、わからなかった。
ゆっくりと、震えが収まってきた。
涙は止まらなかったが、嗚咽は静かになった。
砂の熱さを感じながら、沙織は顔を上げた。
男の子は、まだそこにいた。
もう歌っていなかった。砂の穴の作業に戻っていた。
こちらを見たり見なかったりしながら、小石を二つ並べて、また砂をかけていた。
何かを丁寧に埋めていた。
沙織は目を拭った。
手の甲が砂だらけになった。
男の子が顔を上げた。目が合った。
男の子は、笑った。
ね、と言うような顔で、笑った。
特に意味はないのかもしれなかった。
子どもはよく笑う。
でも沙織には、その笑顔がまっすぐ届いた。
胸の奥の、ずっと鍵がかかっていた場所に、何かが差し込まれた気がした。
「れん?」と沙織は言った。
とても小さな声だった。
男の子には聞こえなかったかもしれない。
男の子は答えなかった。
もう一度砂に視線を落として、また掘り始めた。
沙織のことを忘れたかのように。
でも忘れてはいなかった。
時々ちらりとこちらを見て、また砂に向かった。
そのときブルーシートの方から、女の人の声がした。
「けんちゃーん、おいで、ジュースあるよ」
男の子が立ち上がった。
パタパタと走り始めた。
走り方が、何でもないふつうの子どもの走り方だった。
麦わら帽子が風でずれた。
それを片手で押さえながら、走っていった。
ブルーシートに向かって走りながら、一度だけ振り返った。
沙織と目が合った。
男の子はそのまま、走っていった。
沙織はしばらく、砂の上に座ったままでいた。
足がしびれていた。
顔が乾いていた。
涙の跡が日差しで焼けて、頬が少しだけ突っ張った。
目の奥が重かった。
でも、胸の中は——三年前から、ずっとそこにあった重さが、少しだけ、軽くなっていた。
消えたわけではなかった。
蓮はいない。
蓮はいないし、あの男の子が蓮だとは言い切れない。
理屈では、似たような帽子を持つ子どもはいる。
たまたま同じような旋律を口ずさむこともある。
そう考えようと思えば、考えられた。
でも、と沙織は思った。
でも、それでいい。
信じることと、証明することは、別のことだ。
あの男の子が自分の歌を知っていた。
それだけで十分だった。
十分以上だった。
沙織は立ち上がった。
足がよろけた。
砂の中に足が沈んで、一歩目がうまく出なかった。
それでも体を起こして、波打ち際の方へ歩いた。
海に近づくと、波の音が大きくなった。
波が来て、砂の上を洗って、引いていった。
白い泡が砂に吸い込まれた。
沙織は靴を持ったまま、波打ち際に立った。
水が来た。
足首まで、ひたりと包んだ。
冷たかった。
砂の中に足が沈んだ。
引く波に砂が持っていかれて、足が少しだけ浮く感触がした。
蓮はここで遊んでいた。
波を蹴って、波に逃げて、それでも追いかけて、水しぶきを上げて笑っていた。
麦わら帽子をかぶったまま、水の中に倒れ込んで、ずぶ濡れになって笑っていた。
沙織は目を細めて、海を見た。
水平線の向こうに、白い雲がゆっくり動いていた。
空の青と海の青が、遠くの方で混ざっていた。
光がその上で弾けていた。
ありがとう、と思った。
声には出さなかった。
でも、全身でそう思った。
来てくれてありがとう。少しだけ見せてくれてありがとう。
それだけで、また歩けると思った。
また明日から、ちゃんと台所に立って、ちゃんと布団を干して、ちゃんと眠れると思った。
波が来た。
今度は膝まで来た。
スカートが濡れた。
少し笑った。
蓮はいつも、「かーあさん、そこ深いよ」と言っていた。
心配性だった。
六歳なのに、いつも沙織の手を引っ張って、深い方に行かないようにしてくれた。
もう一度、波が来た。
沙織はそれを受け取った。
帰りのバスの中で、窓の外を見ていた。
県道を走るバスから、夕暮れの海がちらちら見えた。
海は午後になって銅色に変わっていた。
その色の中に白い波頭が点々と光っていた。
沙織はバッグの中から小さなメモ帳を出した。
開いた白いページに、ゆっくりとした字で書いた。
*また来る。来年も、来ようと思う。*
それだけ書いて、閉じた。
バスが揺れた。
隣の席に、買い物袋を持ったお婆さんが座っていた。
窓の向こうで、どこかの子どもが自転車を押していた。
夕暮れの空に飛行機雲が一本、まっすぐに引かれていた。
世界はいつもどおりだった。
ただ、沙織の胸の中だけが、いつもとちがった。
重さが、少し軽くなっていた。
それだけのことだった。
でもそれで十分だった。
大切なことが消えたのではなく、大切なことが形を変えた。
それだけのことだった。
バスが動き続けた。
夕暮れが深くなった。
海は、まだそこにあった。




