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第1話 「桜の木の下で待ってる」

君が選んだ桜の木の下で、見知らぬ子どもが手を振っていた

 花びらが一枚、肩に落ちてきた。


 払おうとして、やめた。

 田中誠二はブルーシートの端に腰を下ろしたまま、缶ビールを両手で包むようにして、ただ空を見ていた。

 今年も来てしまった、という気持ちと、来なければよかったという気持ちが、胸の中で静かに押し合っていた。

 どちらが勝つわけでもなく、どちらが負けるわけでもなく、ただその二つが並んで、風に揺れる桜の梢を見上げていた。


 桜ヶ丘公園。

 武蔵野の外れにある、さして広くもない市民公園だ。

 桜の木は全部で三十二本。

 誠二は数えたことがある。

 というより、母が数えていたのを覚えている。

 「この公園は三十二本なのよ」と母は言っていた。

 なぜ三十二本なのかは誰も知らないし、誠二も聞かなかったし、今となってはもう聞けない。


 母の菊江が逝って、今年で三年になる。

 肺癌だった。

 発見されたときにはすでに転移していて、告知から十一ヶ月で逝った。


 誠二は当時四十一歳で、小さなシステム会社のプロジェクトマネージャーをしていた。

 仕事の繁忙期に入院が重なり、見舞いに行けない週が何度もあった。

 夏の終わりに一度、病院の廊下で「もう来なくていいよ」と言われた。

 そのときは「そんなこと言わないでよ」と笑って返したが、あとになって、あれは本心だったのかもしれないと思うようになった。

 心配させたくなかったのか。

 負担をかけたくなかったのか。

 それとも、会いに来るたびに顔が小さくなっていく自分を見せたくなかったのか。


 秋になった。

 落ち葉が病院の中庭に積まれ、その上に冬が来た。

 母は十二月の終わりに逝った。

 誠二の腕の中ではなく、夜中に一人で、静かに。


 葬儀を終えて数日後、誠二は母の部屋を片付け始めた。

 押し入れの奥から出てきた古い写真の束の中に、この公園で撮った一枚があった。

 母が四十代の頃だろうか。

 桜を背に、少し照れたように笑っている。

 誠二が幼い頃、毎年花見に連れてきてもらったのがこの公園だった。

 レジャーシートを広げて、母の手作りのおにぎりを食べて、桜の木の下で寝転んで空を眺めた。

 そういうことを、大人になってからはほとんどしなくなっていた。


 翌年の春、誠二は一人でこの公園に来た。

 理由はうまく言葉にできなかった。

 来なければよかったかもしれないとすぐに思った。

 それでも翌年もまた来て、その次の年も来た。


 今年は平日の昼を選んだ。

 週末は人が多すぎる。

 家族連れの笑い声や、若い男女の無邪気な声が、どことなく居心地を悪くさせた。

 一人でいることを責められているような気持ちになるわけではないのだが、それでも少し、重かった。


 平日の桜ヶ丘公園は静かだった。

 シートを広げているグループもいくつかあったが、みな話し声を低く抑えていた。

 年配の夫婦が、言葉少なに弁当を広げていた。

 犬を連れた女性が、桜の幹にもたれて本を読んでいた。

 誠二はいつも座る場所——公園の奥、東の端にある少し古い桜の木の根元——にシートを敷いて、コンビニで買ったサンドイッチと缶ビールを置いた。

 サンドイッチはほとんど食べなかった。

 ビールは少しずつ飲んだ。


 風が吹くたびに花びらが舞い、シートの上にも膝の上にも積もった。

 誠二はそれを払わずにいた。

 払ってもまた来る。

 だったらそのまま受け取っておけばいい。

 桜の木が毎年同じように花を咲かせるように、誠二も毎年ここに来る。

 それだけのことかもしれなかった。


 空は薄曇りで、太陽は輪郭を滲ませたまま白く光っていた。

 風は冷たく、花びらは一方向にではなく、らせんを描くように舞っていた。

 誠二はビールを飲み、何も考えないようにして、何かをずっと考えていた。


「ここ、いい?」

 声がしたので振り向くと、七歳くらいの女の子が立っていた。

 赤いコートを着ていた。髪は肩より少し長く、両側を細いゴムで小さくくくっている。

 目が大きく、頬が丸かった。

 誠二のシートの隅を見ているようだった。

「どうぞ」と誠二は言った。

「広いから」

 シートは六人掛けはあろうかという大きさだった。

 誠二が一人で端に座っているのだから、残りはほぼ全部空いていた。

 女の子は遠慮なく、誠二から一メートルほど離れた場所にちょこんと座った。

「桜きれいだね」と女の子は言った。

「きれいだね」と誠二はそのまま返した。

「毎年来るの?」

「まあ、そうかな」

「わたしも毎年来るよ」


 女の子は桜の梢を見上げながら言った。

 誠二も同じように見上げた。

 風が吹いて、花びらがまとめて落ちてきた。

 女の子が「わあ」と言って両手を広げた。

 花びらが手のひらに二枚落ちた。


「一人じゃないの?」と誠二は訊いた。

「ほら、あそこにおかあさんがいる」

 女の子が指差す方向を見ると、二十メートルほど先に、スマートフォンを持った若い女性が立っていた。

 誠二に気づいて会釈をした。

 誠二も会釈を返した。


「ここが好きなんだ、この木」と女の子は言った。

「この木?」

「なんかね、あたたかい感じがするの。ほかの木と違う」

 誠二はその木を見た。

 確かに、この木は少し他と違う。

 幹が太く、枝ぶりが左右に大きく広がっていて、花のつき方が密だった。

 誠二の母が好きだった木だ。

「この木が一番きれいよ」と言っていた。

「そうかもしれないね」と誠二は言った。


 女の子はしばらく黙って桜を見ていた。

 膝を抱えて、少し前かがみになって、子どもっぽい真剣な顔をしていた。


「ちゃんとご飯食べてる?」

 唐突に言われて、誠二は聞き違えたかと思った。

「え?」

「ご飯。ちゃんと食べてるかな、って」


 女の子は桜を見たまま言った。

 誠二の顔を見ていなかった。

 誠二は手元のサンドイッチを見た。

 袋の口を開けてもいなかった。


「そんなに食べてないかな」と正直に言った。

「ちゃんと食べなきゃだめだよ」

 それきり女の子は黙った。

 誠二も何も言えなかった。


 *ちゃんとご飯食べてる?*  ——母がよく言っていた言葉だった。

 

 電話のたびに言った。

 見舞いに来るたびに言った。

 それどころか、入院してからも、こちらが来るたびに「ちゃんとご飯食べてる?」と聞いた。

 病院のベッドで点滴を打ちながら、それでも息子の食事を心配していた。


 誠二はビールを一口飲んだ。

 喉の奥が少し熱くなった。

「今食べるよ」と言って、サンドイッチの袋を開けた。

 女の子はそれを見て、一度だけ小さく頷いた。

 二人はしばらく、ただ桜の下に座っていた。

 女の子は膝の上で落ちてきた花びらを一枚ずつ集め始めた。

 手のひらの上に三枚、四枚と並べて、それを眺めていた。

 誠二はサンドイッチを食べながら、その様子をぼんやりと見ていた。


「ねえ、知ってる?」と女の子が言った。

「何を?」

「桜の花びらが三枚重なったら、幸せになれるんだよ」

 誠二の手が止まった。

「三枚重なると?」

「うん。ぴったり重なったときだよ。ずれてたらだめ。ぴったり、きれいに重なったら、幸せになれる」

 誠二は女の子の手のひらを見た。

 三枚の花びらが、薄いピンク色に光を透かして、重なり合っていた。

 それは、誠二の母だけが知っているはずの話だった。


 誠二が小学校に上がる前の春、この同じ木の下で、母が教えてくれた話だ。

「これはね、お母さんのひみつ。誠二にだけ教えてあげる」と言っていた。

 誠二が父に話そうとすると「だめだめ、二人だけのひみつ」と笑いながら止めた。

 それ以来、誠二は誰にも言っていない。

 言う機会もなかった。

 ただ、毎年この時期になると、桜の花びらが三枚重なっているのを見るたびに、少しだけ胸があたたかくなった。


「知ってた?」と女の子が訊いた。

「……うん」と誠二は言った。

 のどが、狭くなっていた。

「昔、教えてもらったことがある」

「だれに?」

「大切な人に」

「ふーん」と女の子は言った。

それ以上は聞かなかった。

 花びらが重なった手のひらを、誠二の方にそっと差し出してきた。

「はい」

「……くれるの?」

「幸せになってほしいから」

 誠二はその手のひらから、花びらを三枚、受け取った。

 薄くて、やわらかくて、すぐに体温で少ししんなりした。

 三枚重ねたまま、胸のポケットに入れた。


 しばらくして、女の子の母親が呼びに来た。

「さくら、そろそろ行くよ」と言った。

 さくら、という名前だった。

 誠二はそれを聞いて、ああ、と思ったが、何も言わなかった。

 女の子は立ち上がって、赤いコートの裾を払った。

 コートに積もっていた花びらが散った。

「またね」と女の子は言った。

「またね」と誠二は言った。


 女の子は母親の手を握って歩き始め、十歩ほどいったところで振り返った。

「また来年も来るよ」

 それだけ言って、くるっと前を向いて、歩いていった。

 母親が「誰とお話してたの?」と聞くのが聞こえた。

「知らないおじさん」と女の子が答えた。

 母親が「知らない人と話しちゃだめって言ってるでしょ」と笑いながら叱るのが聞こえた。

 二人は桜並木の向こうへと消えていった。


 誠二は一人残って、空を見上げた。

 薄曇りだった空がいつの間にか晴れていて、桜の花が光の中に浮かんでいた。

 枝が細かく揺れるたびに、花びらが次々に離れては空に吸い込まれていった。

 散り際の桜は、惜しむでもなく、急ぐでもなく、ただ自分の重さに従うように、ゆっくりと、ゆっくりと落ちてきた。

 三枚重ねた花びらを、胸のポケットから取り出した。

 薄い光が透けて見えた。

 重なった三枚が、きれいに重なっていた。

 ずれていなかった。


 誠二は、泣いた。

 声は出なかった。

 ただ目から水が出て、止まらなかった。

 泣きながら、笑っていた。

 笑いながら、泣いていた。

 桜の花びらが肩に、膝に、次々と積もった。

 払わなかった。受け取っていた。


 *また来年も来るよ。*


 女の子の声が、耳の奥に残っていた。

 誠二は深く息を吸った。桜の匂いというより、土と草と、春の空気の匂いだった。

 それが肺の底まで入ってきて、ゆっくりと出て行った。


「お母さん」と、小さく言った。


 返事はなかった。

 当たり前だ。

 でも、どこかから聞こえてくるような気がした。

 奥の方から、遠くから、笑いながら「ちゃんとご飯食べなさいよ」と言う声が。


 誠二はサンドイッチの残りを食べた。

 コンビニのサンドイッチだったが、なぜか少し、おいしかった。

 帰り道、誠二は桜の木を三十二本、数えた。

 数えてみると、確かに三十二本だった。


 来年もまた数えよう、と思った。

 来年も、その次の年も。

 桜が咲くたびに、この公園に来よう。

 一人でも、誰かと来ても。

 誰かと来ることになるかどうかはわからないけれど、少なくとも一人でも来ようと思った。

 それが、何かに対する約束のような気がした。

 胸のポケットの中で、花びらが三枚、重なったまま収まっていた。


 改札を抜けて、電車を待つホームに出た。

 風が吹いた。

 桜の花びらが一枚、線路の向こうから飛んできた。

 誠二の手のひらに落ちた。

 一枚だけ。

 でも、それでもいい、と思った。


 電車が来た。

 誠二は乗り込んだ。

 扉が閉まった。

 ホームの屋根の向こうに、まだ薄く桜の木が見えた。

 揺れていた。

 遠ざかった。

 見えなくなった。


 誠二は窓の外の見えない木を、しばらく見ていた。

 もう一度だけ、「また来年も来るよ」という声が聞こえた気がした。

 今度は返事ができた。

 心の中で、静かに。


 *うん、待ってるよ。*

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