第10話 「雨の日だけ」
雨が降ると、橋本克也はなずなのことを考える。
考えようとするわけではない。
ただそうなる。
電車を待つホームの屋根を雨が叩く音がすると、体が先に思い出す。
二十一年前、大学の構内の軒下で聞いた雨の音に、今の雨が重なる。
克也は四十二歳で、なずなは二十一歳のまま止まっている。
その差が毎年広がっていくことに、いつまでたっても慣れない。
藤原なずなとは、大学二年のゼミで同じになった。
最初は話していなかった。
なずなはいつも少し遅れて教室に来て、隅の席に座った。
発言は少なかったが、発言するときは的を射ていた。
笑うとき、声をあまり出さなかった。
それでも笑っていることはわかった。
そういう人だった。
話すようになったのは、ゼミの帰りに雨が降った日だった。
二人とも傘を持っていなくて、校舎の軒下で雨が弱まるのを待っていた。
「雨の日って、静かでいいね」となずなは言った。
「そうかな」と克也は言った。
「濡れるの嫌じゃない?」
「傘さしてる人の方が嫌そうな顔してるよ」となずなは言った。
確かにそうかもしれなかった。
克也は笑った。
それから何度か、二人で話すようになった。
好きになったのが、いつ頃かはわからない。
気づいたときにはそうなっていた。
なずなが笑うとき、なずなが本の話をするとき、なずなが雨の音を聞きながら黙っているとき、克也はなずなのことを見ていた。
目が勝手に向いた。
ある雨の日の午後、また二人で軒下にいた。
なずなが克也の顔を見て言った。
「橋本くんって、雨の日だけ優しそうな顔するよね」
克也は「そんなことないよ」と言った。
恥ずかしかったから言った。
本当のことは言えなかった。
「本当にそうなのに」となずなは笑った。
雨の音がしていた。
そのとき言えばよかった。
言えなかった。
なずなが入院したのは、三年生になってすぐだった。
二年生の終わりに白血病が見つかって、春から入院することになった、とゼミの仲間から聞いた。
克也はすぐには信じられなかった。
昨日まで隣にいたのに。
軒下で雨を見ていたのに。
お見舞いに行った。
何度か行った。
なずなは点滴をつけながら、でも話し方はあまり変わらなかった。
本の話をした。
窓から外が見えた。
雨の日に行くと、なずなは「雨だね」と言って窓を見た。
克也は手紙を書いた。
何度も書いた。
「ずっと好きだった」
「ゼミで話すようになってから、ずっとそう思っていた」
「元気になったら、一緒にどこかへ行きたい」。
書いて、書き直して、封筒に入れた。
病院に持っていった。
廊下を歩いて、なずなの部屋の前まで来た。
ドアの前で、止まった。
渡せなかった。
なずなは今、闘っている。
そこに自分の気持ちを押しつけるのは違う。
困らせたくなかった。
返事を考えさせたくなかった。
元気になってから、元気になってから言おう。
そう思って引き返した。
その後も、何度か病院の前まで行った。
毎回、引き返した。
なずなが死んだのは、二十一歳の秋だった。
克也には連絡が来なかった。
ゼミの仲間から聞いた。
葬儀は家族だけで行ったと言われた。
克也は何もできなかった。
手紙は封筒に入ったまま、机の引き出しにあった。
しばらく、雨が降るたびに、軒下のことを思い出した。
しばらく、というより、今でもそうだ。
二十一年経っても、雨が降ると克也はなずなのことを考える。
考えながら、あの引き出しにある封筒のことも考える。
捨てたことはない。
読み返したこともほとんどない。
ただ、まだそこにある。
十月の夜、仕事の帰りだった。
駅のホームで電車を待っていた。
秋雨が降っていた。
屋根を雨が叩く音がした。
克也はホームのベンチに座って、線路の向こうの暗さを見ていた。
隣に、女性が来て立った。
三十代の前半くらいだろうか。
傘を持っていなかった。
でも雨を嫌がっている様子がなかった。
屋根の端から落ちる雨を、静かに見ていた。
「傘、ないんですか?」と克也は聞いた。
自分でも気づかないうちに聞いていた。
「忘れてきちゃって」と女性は言った。
「でも、雨好きなんで」
克也の体が、少し止まった。
「雨、好きですか?」と聞いていた。
「好きです」と女性は言った。
「なんか、静かでいいじゃないですか」
電車が来るまで、少し時間があった。
女性は克也の隣に立ったまま、雨の音を聞いていた。
克也も隣で聞いていた。
二人とも何も言わなかった。
雨の音だけがしていた。
女性が、ふと言った。
「急に変なこと言うんですけど」
克也は顔を向けた。
「雨の日だけ優しそうな顔する人って、なんか好きなんですよね」
克也の息が止まった。
「そういう人って、いるじゃないですか」と女性は続けた。
「雨の日だけ、ちょっと表情が変わる人。普段はそうでもないのに。見てると、なんか、いいなって思うんです」
克也は何も言えなかった。
「橋本くんって、雨の日だけ優しそうな顔するよね」——なずなの声が、耳の奥で鳴った。
本当にそうなのに、と笑った声が。
雨の音がしている軒下で、克也の顔を見ながら言った声が。
二十一年前の言葉だった。
克也以外には届かなかったはずの言葉だった。
克也がずっと、胸の中だけで持ってきた言葉だった。
それが今、別の声で、聞こえた。
目が、熱くなった。
どうにか落ち着かせようとした。
見知らぬ女性の前で泣くわけにいかなかった。
でも喉の奥が詰まって、目の縁が熱いままだった。
克也はホームの先の暗さを見た。
雨が降り続けていた。
(なずな)と思った。
声にはならなかった。
でも、その名前を、全身で呼んだ。
電車が来た。
女性が「お先に」と言って乗り込んだ。
克也は一本見送った。
ホームに一人残った。
雨の音が大きくなった気がした。
次の電車まで数分あった。
克也はベンチに座って、その数分、ただ雨を聞いていた。
届いていた、と思った。
手紙は渡せなかった。
告白はできなかった。
退院してから言おうと思っていたら、退院は来なかった。
あの封筒は今でも引き出しにある。
なずなには一度も読まれなかった。
でも——届いていた。
雨の日だけ優しそうな顔をする、ということを、なずなは見ていた。
克也が雨の日にどんな顔をするかを、なずなは知っていた。
言葉にして、克也に伝えてくれていた。
その言葉が二十一年間、克也の中で生きていた。
克也が今夜この顔をしていることに、今夜ここで誰かが気づいてくれた。
それで十分だった。
十分以上だった。
帰宅して、引き出しを開けた。
封筒があった。
二十一年前に書いた手紙。
少し黄ばんでいた。
クリーム色の便箋に、克也の字で書いてある。
「藤原なずな様」と宛名を書いた封筒。
一度も開けられなかった封筒。
克也はそれを手に取った。
読まなかった。
読む必要はなかった。
二十一年前の自分が何を書いたか、おおよそ覚えていた。
覚えていなくても、何を思っていたかはわかっていた。
それは今も変わっていない。
封筒を、机の上に置いた。
引き出しではなく、見える場所に。
雨の音がまだ聞こえていた。
窓を叩く音が、静かなリズムで続いていた。
なずなが好きだった音だった。
克也は窓の外を少し見て、それから封筒を見た。
「届いてたよ」と小さく言った。
声が出るかどうかわからなかったが、出た。
「ちゃんと見ててくれてたんだね。ありがとう」
雨が降り続けていた。
それだけで、今夜は十分だった。
告白できなかったことも、手紙を渡せなかったことも、退院を待てなかったことも、二十一年間引き出しの中にしまい続けたことも、全部ひっくるめて——それでもなずなとの時間は、美しかった。
雨の音を聞きながら、克也はそう思えた。
二十一年かかって、ようやく、そう思えた。




