第14話 「隣のおじいさんが教えてくれたこと」
清一郎さんが死んだと知ったのは、亡くなってから半年後のことだった。
田中雄介は三十五歳で、東京に出てきて十年になる。
年に一、二回帰省する故郷に、清一郎さんはもういない。
正月に実家へ帰ったとき、母が「そういえば隣の清一郎さんが亡くなったのよ、去年の夏に」と何気なく言った。
雄介は「そうか」と言った。それ以上は言えなかった。
その夜、実家の自分の部屋で、雄介はしばらく天井を見ていた。
清一郎さんは、雄介が物心ついた頃から隣の家に住んでいた。
小柄な老人で、雄介が小学校に入る頃にはもう七十代だったと思う。
庭で野菜を育てていた。
縁側に腰掛けて緑茶を飲んでいた。
奥さんは早くに亡くなっていて、一人で暮らしていた。
子供や孫は遠くに住んでいた。
雄介はよく遊びに行った。
特に理由はなかった。
庭に入ると清一郎さんが「またお前か」と言った。
嬉しそうだった。縁側に座ると緑茶が出てきた。
夏はトマトが出てきた。
「俺が育てたトマトだ、うまいぞ」と言って、清一郎さんが自分でも食べた。
本当にうまかった。
話し上手ではなかった。
でも雄介が話しかけると、丁寧に聞いた。
雄介が学校でのことを話すと「そうか」と言った。
「それで?」と聞いた。
それだけだったが、聞いてくれているということが嬉しかった。
空を見るのが好きな人だった。
縁側に座って、よく上を向いていた。
「今日の空はいい色だ」と時々言った。
雄介には最初、何がいい色なのかわからなかった。
でも何度も一緒に空を見るうちに、少しわかるようになった気がした。
ある夏の夕方だった。
二人で縁側から空を見ていた。
まだ青いが、端が橙色になり始めた夕暮れ前の空だった。
清一郎さんがふと言った。
「な、右の目だけで空を見てみろ」
「右の目だけ?」
「左を閉じてみろ」
雄介は左目を閉じた。
右目だけで空を見た。
「少し色が変わった気がする?」と清一郎さんが聞いた。
「気がする」と雄介は言った。
「なんか、少し濃い?」
「そうだろ」と清一郎さんは言った。
満足そうだった。
「なんでそうなるのかはわからん。でも俺は子供の頃から気づいていた。右目で見ると、色が少し違う」
「なんで左だと違うの?」
「わからん」と清一郎さんは言った。
「そういうもんだ。人に言うなよ、秘密だぞ」
なぜ秘密なのかは聞かなかった。
でも「お前だけに教えるぞ」と言われた気がして、雄介は嬉しかった。
それからというもの、雄介はいい空があると右目だけで見るようになった。
左目を閉じて、右目だけで空を見る。
色が変わる気がする。
気のせいかもしれない。
でも変わる気がするのは今も変わらない。
三十五歳になっても、空を見るたびに右目だけで確かめる。
誰にも話したことはなかった。
清一郎さんと「秘密だぞ」と言った言葉を、そのまま守ってきた。
清一郎さんが死んだと知ってから、その癖が余計に出るようになった。
空を見るたびに右目で見て、清一郎さんのことを思った。
縁側のこと。
トマトのこと。
「またお前か」と言いながら嬉しそうだった顔のこと。
東京に出てきてからは一度も会いに行かなかった。
連絡もしなかった。
帰省のたびに「挨拶だけでも」と思ったが、できないまま時間が過ぎた。
「死んだのか」と思うたびに、どこかが重くなった。
四月の日曜日、雄介は近所の公園にいた。
特に目的はなかった。
天気がよかったから外に出た。
ベンチに座って、コーヒーを飲んでいた。
桜はもう散っていて、新緑が出始めていた。
空は高く、雲が少なかった。
右目で空を見た。
いつものように。
左目を閉じて、右目だけで青さを確かめた。
隣に子供が来た。
五歳か、六歳か。
帽子を被っていた。
ベンチには座らずに、すぐそばに立って、空を見上げていた。
雄介が気づいたのは、その子が左目を閉じていたからだった。
右目だけで、空を見上げていた。
「何してるの?」と雄介は聞いた。
男の子が振り返った。
「右の目だけで見ると、色が違うんだよ」と男の子は言った。
雄介の手が止まった。
「違うの?」
「うん」と男の子はまじめな顔で言った。
「こっちの目だけで見ると、なんかちょっと違う色に見えるの。おじいちゃんが教えてくれた。秘密なんだって」
雄介はしばらく何も言えなかった。
「この空は特別だから」と男の子が続けた。
「特別な空のとき、右目で見るといいんだって」
胸の奥から、何かが込み上げてきた。
(清一郎さん)と雄介は思った。
声にはならなかった。
でも全身でそう呼んだ。
一年近く、ずっとそこにあった後悔と一緒に呼んだ。
会いに行けばよかった。
挨拶だけでも行けばよかった。
東京から一本電話するだけでよかった。
「またお前か」と言いながら嬉しそうにしてくれた顔を、もう一度見たかった。
でも。
来てくれた。
別の体で、別の声で。
でも「右の目だけで見ると色が違う」「秘密なんだって」という同じ言葉で。
ここに来てくれた。
目から涙が出た。
五月の光の中で、公園のベンチで、雄介は泣いた。
声は出なかった。
ただ、目から出た。
男の子がこちらを見た。
泣いているのがわかっただろう。
でも男の子は何も言わずに、また空を見上げた。
右目だけで。
「右の目で見るとさ」と男の子がまた言った。
「こっちの方が好きな色だよ」
雄介は声をどうにか抑えて「そうだね」と言った。
「おじさんも知ってたの?」と男の子は聞いた。
「昔、誰かに教えてもらった」と雄介は言った。
「秘密だって言われた」
「同じじゃん」と男の子は言った。
「なんで秘密なんだろうね」
「わからない」と雄介は言った。
「でも秘密の方が、大事にできる気がして」
男の子はしばらく考えてから「そっか」と言った。
それ以上は考えなかった。
また空を見上げた。
遠くから「たいちゃーん」という声がした。
男の子が「はーい」と言って走っていった。
帽子が少しずれた。それを片手で押さえながら走っていった。
雄介はベンチに一人残った。
コーヒーがぬるくなっていた。
空を見上げた。
右目だけで。
左目を閉じて、右目だけで。
青さが、少しだけ違った色に見えた。
いつもそうだった。
気のせいかもしれない。
でも清一郎さんが「そうだろ」と言って満足そうにしていた顔が、見えた気がした。
縁側で、緑茶を飲みながら、雄介と一緒に空を見ていた顔が。
帰り道、雄介は実家に電話した。
母が出た。
「清一郎さんのお墓、どこにある?」と雄介は聞いた。
「お寺にあるわよ。どうしたの?」
「次に帰ったとき、寄ろうと思って」
「そう」と母は言った。
「清一郎さん、あなたのことよく話してたわよ。よく遊びに来る子だって」
雄介は黙った。
のどが狭くなっていた。
「そうか」とだけ言った。
帰宅して、窓から空を見た。
夕暮れが始まっていた。
西の端が橙色に染まっていた。
今日はいい空だった。
右目だけで見た。
少しだけ、色が変わった気がした。
「清一郎さん」と小さく言った。
「また会えてよかった」
窓の外で、夕暮れがゆっくりと深くなっていった。
人は出会いの数で生きているわけではない、と雄介は思った。
短くても、長くても、残るものは残る。
縁側のトマトの味も、「またお前か」という声も、「右目だけで見ると色が違う、秘密だぞ」という言葉も、三十五歳の今まで残っていた。
清一郎さんは雄介の中に残り続けていた。
これからも残る。
そういう出会いが、きっと誰の人生にもある。
気づいていなくても、その人の言葉が今日の自分を作っている、そういう出会いが。




