第15話 「もうひとりの私」
鏡を見るたびに、芽衣の顔が見えた。
中島奈穂はそのことを、誰にも話したことがなかった。
話せなかった。
双子というのは、そういうことだ。
もう一人の自分の顔が、自分の顔に重なっている。
子供の頃は「瓜二つ」とよく言われた。
大人になってからは、メイクの違いや髪の長さで少しずつ変わっていった。
それでも根の形は同じだった。
鼻の少し上の骨のかたちも、笑うと出る左の頬のくぼみも、同じだった。
芽衣が死んで一年が過ぎた。
三十六歳の秋だった。
双子に生まれたのは偶然だが、奈穂には「初めからそうだった」としか言いようがなかった。
物心ついたときから隣にいた。
お腹の中でも一緒だったと母に聞いた。
奈穂が先に生まれて、芽衣が三分後に生まれた。
「奈穂が待ちきれなくて先に出たんだよ」と芽衣はよく笑って言った。
「あなたはいつも先走り」と。
子供の頃、怖いことがあると、二人でどちらかの布団に入った。
外が暗くなると、どちらともなく近づいていた。
ある夜、奈穂が怖い夢を見て泣いていたとき、芽衣が起きてきて隣に来た。
何も言わなかった。
奈穂の小指に、自分の小指をひとつだけ絡ませた。
「大丈夫だよ」と言った。
「どっちかが大丈夫なら、どっちも大丈夫なんだよ」と言った。
それがいつしか、二人の習慣になった。
試験の前も、発表の前も、失恋したときも、仕事でつらいことがあったときも、小指を絡めて「大丈夫」と言った。
誰かに教わったわけでもなかった。
ただそうしてきた。
大人になってから、二人の距離は物理的に離れた。
芽衣は二十八歳で結婚して、隣の県に移った。
子供が生まれた。
今は四歳だ。
奈穂は東京にいる。
会うのは年に二、三回になった。
でも月に何度か電話した。
特に用はなくても、電話した。
仕事のことを話して、芽衣の子供の話を聞いて、それで終わった。
最後に「大丈夫?」と聞くのも、「大丈夫だよ」と答えるのも、いつの間にか続いていた。
電話でだから、小指は絡めなかった。
「今度会ったとき絡めてあげる」と芽衣が言ったことがある。
その「今度」が来なかった。
事故は去年の秋だった。
芽衣が子供を保育園に迎えに行く途中だった。
信号のある交差点で、車が突っ込んできた。
芽衣はその場で亡くなった。
子供は先に保育園の中にいたから無事だった。
奈穂には義兄から電話が来た。
義兄の声が震えていた。
奈穂は最初、言葉の意味がわからなかった。
「芽衣が」という言葉を三回聞いて、やっと理解した。
鏡が見られなくなった。
しばらく、洗面所の鏡に布をかけた。
自分の顔を見ると、芽衣の顔が見えた。
芽衣がもういないのに、芽衣の顔をした人間がそこにいた。
その感覚に、どう慣れればいいのかわからなかった。
一年経った今も、慣れていない。
ただ、布はどこかの時点で外した。
外せた、ということだけがわかっている。
その日曜日、奈穂は芽衣の家に行っていた。
義兄と、四歳の姪・このちゃんに会いに行った。
月に一度は行くようにしていた。
姪の成長を見ていると、芽衣がいなくて、でも続いている何かを感じた。
このちゃんは今、少し芽衣に似てきた。
顔の形が似てきた。
見るたびに、胸の奥が痛かった。
それでも会いに行きたかった。
帰り道、公園を通った。
少し足が止まった。
ベンチに座ろうと思った。
急いで帰る必要はなかった。
座った。空が高くて、雲が白かった。
風がひんやりしていた。もう冬の手前だった。
芽衣のことを考えた。
「今度絡めてあげる」と言っていた小指のことを考えた。
あの電話のとき、芽衣の声がどんな声だったか、まだ覚えている。
でも少しずつ薄れていく気がして、それが怖かった。
声を忘れてしまったら、自分の半分が本当になくなる気がした。
女の子が来た。
六歳か、七歳か。
赤いコートを着て、公園の端からこちらに歩いてきた。
ベンチの前で止まって、奈穂を見た。
奈穂も見た。
「お姉さん、悲しいの?」と女の子は言った。
遠慮がなかった。
子供というのはそういうものだ。
奈穂は「悲しくないよ」と言おうとした。
でも口から出たのは「少しだけ」だった。
女の子は少し考えて、ベンチの隣に座った。
何も言わなかった。
奈穂も何も言わなかった。
しばらく、二人で公園の景色を見ていた。
それから女の子が、奈穂の手を取った。
右手の小指に、自分の小指をひとつだけ、絡ませた。
奈穂の体が固まった。
(芽衣)と思った。
まだ、偶然かもしれないと思っていた。
子供が大人の手を握ることはある。
小指を絡めることも、珍しくないかもしれない。
「大丈夫だよ」と女の子は言った。
奈穂の目から、涙が出た。
「どっちかが大丈夫なら、どっちも大丈夫なんだよ」
止まった。
何もかもが止まった。
風も、公園の音も、自分の呼吸も。
その言葉は、奈穂と芽衣の言葉だった。
二人だけの言葉だった。
誰にも話したことがなかった。
芽衣が布団の中で言った言葉だった。
その言葉を、この子が知っているはずがなかった。
でも今、確かに聞こえた。
泣いた。
声が出た。
公園で、声を上げて泣いた。
女の子は小指を絡めたまま、離さなかった。
奈穂が泣いても、小指を離さなかった。
(芽衣)と声で呼んだ。
泣きながら呼んだ。
一年間、呼びたくて呼べなかった名前を、今声に出して呼んだ。
会いたかった。
電話したかった。
「今度絡めてあげる」って言ったじゃない。
どうしてあの日、あの交差点だったの。
なんで先にいなくなるの。
私が先のはずじゃない、あなたがいつも言っていた、奈穂が先走りだって。
女の子は小指を絡めたまま、黙っていた。
泣き声が公園に溶けて、風に運ばれた。
どれくらい泣いたか、わからない。
少しずつ、声が小さくなった。
風が吹いた。
枯れ葉が飛んだ。
女の子が「寒い?」と言った。
奈穂は「ちょっとだけ」と言った。
「あったかくなる?」と女の子は言って、小指を少し強く絡めた。
奈穂は「うん」と言った。
小さく、うなずいた。
「大丈夫だよ」と女の子がまた言った。
「どっちかが大丈夫なら、どっちも大丈夫」
奈穂は、うなずいた。
遠くからお母さんらしき人が「もう帰るよ」と呼んだ。
女の子が立ち上がった。
小指がほどけた。「またね」と言って走っていった。
赤いコートが風に揺れた。
人混みに消えた。
奈穂は一人で、ベンチに座っていた。
右手の小指を、左手でそっと包んだ。
まだ温かかった。
小さな温かさが、そこに残っていた。
帰り道、奈穂は歩きながら芽衣のことを考えた。
鏡に映る自分の顔のことを考えた。
今日もし鏡を見たら、芽衣の顔が見えるだろう。
でも今日は、怖くない気がした。
芽衣の顔が見えても、それはもうひとりの自分の顔じゃなくて、芽衣がそこにいる、ということかもしれない。
鏡の中に、芽衣がいる。
だから見えても、大丈夫かもしれない。
どっちかが大丈夫なら、どっちも大丈夫。
奈穂が大丈夫なら、芽衣も大丈夫。
芽衣が大丈夫なら、奈穂も大丈夫。
それがずっと、二人の約束だった。
家に帰って、洗面所に行った。
鏡を見た。
自分の顔が映っていた。
鼻の少し上の骨のかたちも、笑うと出る左の頬のくぼみも、芽衣と同じ顔だった。
芽衣の顔が、そこにあった。
奈穂は自分の右手の小指を、左手の小指に絡めた。
「大丈夫だよ、芽衣」と言った。
「どっちかが大丈夫なら、どっちも大丈夫だから」
鏡の向こうで、芽衣が微笑んだ気がした。




