第13話 「別れた後も、気をつけてね」
訃報を聞いてから、三週間が過ぎていた。
吉田由紀は今でも、どこに悲しめばいいのかわからないでいた。
悲しんでいいかどうか、という方が正確かもしれない。
三年前に離婚した相手。
別れを選んだのは自分だ。
泣く権利が自分にあるのかどうか、その答えが出ないまま三週間が経っていた。
由紀は四十八歳だった。
達也と出会ったのは、二十八歳の秋だった。
共通の友人の集まりで隣になって、話してみると穏やかな人だった。
大きな声を出さない。
自分の話をあまりしない。
でも由紀の話を丁寧に聞いた。
笑うと目が細くなった。
それが好きだった。
結婚して十七年。
子供はいなかった。
欲しいと思う時期もあったが、お互いに踏み出せないまま時間が過ぎた。
それが原因だったのか、仕事のすれ違いが続いたせいなのか、今となってははっきりしない。
ただ、ある頃から二人の間に余白が増えて、その余白を埋める言葉を、どちらも持てなくなっていた。
離婚の話を切り出したのは、由紀の方だった。
達也はしばらく黙っていた。
「そうか」と言った。
それだけだった。
怒らなかった。
責めなかった。
それがかえって、由紀には辛かった。
達也の癖があった。
電話を終えるとき、必ず「気をつけてね」と言った。
どんな内容の電話でも、最後はそれだった。
由紀が「なんでいつもそれ言うの?」と聞くと、「なんとなく」と言った。
「心配だから」と言ったこともあった。
ある時期から「気をつけてね、ちゃんと食べてね」が加わった。
由紀が締め切りに追われて食事を抜いていることを、一度だけ話したことがあった。
それ以来、毎回そう言うようになった。
由紀は「わかってる」と言っていたが、内心は嬉しかった。
覚えていてくれている、と思った。
心配してくれている、と思った。
それだけで、あの頃はまだ大丈夫だった。
別れてから、年に数回、電話があった。
用件があるときだけだったが、それでも続いた。
税金のこと、共同で持っていたものの整理、それが終わってからも、時々かかってきた。
何かを言いたいわけでもなく、特に話すこともなく、少し話して切る、という電話だった。
最後はいつも「気をつけてね」だった。
「ちゃんと食べてね」は、別れてからは言わなくなっていた。
もう言う立場ではないと思ったのか、それとも忘れたのか。
「気をつけてね」だけになっていた。
最後に電話があったのは、半年前だった。
特に用はなかった。
少し話して「元気そうでよかった」と達也が言った。
「気をつけてね」と言って、電話が切れた。
それが最後の声になった。
義兄から電話が来たのは、先月のことだった。
達也が突然倒れた。
脳出血だった。
病院に運ばれたが、そのまま意識が戻らなかった。
由紀は電話を持ったまま、しばらく動けなかった。
泣いた。
声を上げて泣いた。
泣きながら「泣く権利があるのか」と思った。
別れたのは自分だ。
離婚を切り出したのは自分だ。
でも泣けた。
止まらなかった。
涙が出続けた。
葬儀には行かなかった。
行けなかった。
由紀の立場で行くことが、達也の家族に失礼な気がした。
遠くから、ただ手を合わせた。
それしかできなかった。
三週間、仕事をしながら、家に帰りながら、食事をしながら、ずっとどこかに引っかかっていた。
悲しいのかどうか、自分でもわからなかった。
悲しい、という言葉が正しいかどうかもわからなかった。
達也がもうこの世にいないという事実が、まだどこかで信じられなかった。
また電話が来る気がした。
「気をつけてね」という声が、また聞こえてくる気がした。
聞こえてこなかった。
それだけが、じわじわと続いていた。
仕事帰りの電車に乗った、金曜の夜だった。
座席が少し空いていた。
由紀は窓際に座った。
向かいの席に、二十代の男性が一人いた。
スマートフォンを耳に当てて、話していた。
声は小さかったが、静かな車内に少し漏れた。
「うん、わかった。そっちも気をつけてね」
由紀の体が、少し固まった。
(よく言う言葉だ)と思った。
(気をつけてね、は誰でも言う。)
男性の電話はまだ続いていた。
何か答えを聞いて、少し笑った。
「そう? よかった。あ、ちゃんと食べてよ。忙しいのはわかるけど」
由紀の手が、膝の上で止まった。
「うん。気をつけてね、ちゃんと食べてね」
電話が切れた。
由紀はしばらく、窓の外を見た。
夜の街が流れていた。
信号が赤から青に変わった。
コンビニの明かりが見えた。電車が揺れた。
「気をつけてね、ちゃんと食べてね」——達也がいつも言っていた言葉だった。
あの順番で、あの言い方で。
由紀が食事を抜いていることを話したとき以来、毎回言っていた。
別れてからは「ちゃんと食べてね」は消えて「気をつけてね」だけになっていた。
でも今、両方戻ってきた。
(まだ心配してくれているのか)と思った。
声にはならなかった。
でも確かにそう思った。
別れてから三年。
連絡も少なくなって、年に数回の電話になっていても、達也はまだ「ちゃんと食べてね」と思っていたのかもしれない。
言わなかっただけで、ずっと思っていたのかもしれない。
目から、涙が出た。
静かに出た。
声はなかった。
男性はもうスマートフォンを見ていて、こちらを見ていなかった。
由紀は窓の外を向いたまま、涙が頬を伝うのを止めなかった。
「悲しんでいいのか」という問いは、まだあった。
でも、少しだけ変わった。
悲しんでいいかどうかより先に、ただ悲しかった。
達也がいなくなって、悲しかった。
別れた相手でも、十七年一緒にいた人だった。
その人がもうこの世にいないということが、悲しかった。
それだけのことだった。
それだけのことで、泣いていい。
由紀はそう、三週間ぶりに思えた。
帰宅して、コートを脱いだ。
台所で水を飲んだ。
冷蔵庫を開けた。
卵があった。
野菜があった。
「ちゃんと食べてね」という声が、耳の奥でしていた。
由紀は冷蔵庫を開けたまま、少し笑った。
今夜は、ちゃんと作ろうと思った。
ちゃんと食べよう、と思った。
包丁を出した。
まな板を出した。
切り始めると、音がした。
野菜を切る音。
水が流れる音。
換気扇の音。
久しぶりに台所が鳴った。
「気をつけてね、ちゃんと食べてね」——それが達也の言い方だった。
今夜は食べる。
気をつけながら、ちゃんと食べる。
それが、今の由紀にできることだった。
食事を終えて、食器を洗いながら、由紀は達也のことを考えた。
怒らなかった人だった。
責めなかった人だった。
離婚を切り出したとき「そうか」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
別れてからも、年に数回「元気か」という電話をくれた。
最後は必ず「気をつけてね」と言った。
ありがとう、と由紀は思った。
声にはならなかった。
でも、食器を洗いながら、全身でそう思った。
一緒にいた時間のことも、別れを選んだことも、その後もたまに電話をくれたことも、全部を受け取って、ありがとう、と思った。
別れを選んだことは、後悔していない。
でも愛した時間を後悔したことは一度もなかった。
その二つは矛盾しない。
別れても、あの時間は本物だった。
ちゃんと食べてね、と心配してくれた人が、確かにいた。
その人が、今もどこかから「気をつけてね」と言っている。
水が流れていた。
台所の窓に、夜の光が映っていた。




