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第12話 「あったかいね」

 祖母の手は、いつも温かかった。


 木村麻衣がそう気づいたのは、ずいぶん小さな頃のことだ。

 祖母の家に遊びに行くたびに、玄関でその手に包まれた。

 外から来た麻衣の手は冷たくて、祖母の手の中でじんわりと温もっていった。

「あったかいね」と祖母はいつも言った。

 麻衣の手のことを言っているのか、自分の手のことを言っているのか、子供の頃はわからなかった。

 今でも、どちらともとれると思っている。

 祖母の文江は、二年前の冬に亡くなった。

 八十三歳だった。


 押し花を教えてくれたのも、祖母だった。

 麻衣が小学三年生の夏、祖母の縁側で初めてやった。

 庭の花を一枚選んで、新聞紙に挟んで、辞書で重しをして、一週間待つ。

 出てきたときの薄さと、乾いた色の美しさが好きだった。

「ゆっくり押さないといけないのよ」と祖母は言った。

「急いで重しをかけると、形が崩れてしまう。花も、ゆっくりじゃないとだめなの」

 麻衣はその言葉をそのままノートに書き留めた。

 花を押すたびに読んだ。


 祖母がもう一つ言ったことがあった。

 押し花帳の最初の一枚を入れ終わったとき、「最初に押した花はね、お守りになるのよ。ずっとそばに置いておきなさい」と言った。

 麻衣はその花——名前も忘れた、淡い黄色の野花——を小さな袋に入れて、それから二十年以上、財布の中に入れている。

 誰かに話したことは一度もなかった。


 文江の認知症が進んだのは、祖母が八十一歳を過ぎた頃からだった。

 最初は物忘れだった。

 次第に、日付がわからなくなった。

 台所が危うくなった。

 施設に入ったのは八十二歳の春だった。

 麻衣は毎月会いに行った。

 仕事があっても、疲れていても、月に一度は行った。

 行くたびに施設の廊下を歩いて、文江の部屋に入った。

「おばあちゃん、麻衣だよ」と声をかけるたびに、文江は顔を向けた。

「どなた?」と言った。

 最初にそう言われた日のことは、今でも覚えている。

 笑顔のまま「どなた?」と言う祖母の顔。

 廊下に出て、壁に手をついた。

 泣かなかった。

 泣けなかった。


 それからも毎月行き続けた。

「どなた?」と言われるたびに、「孫の麻衣です」と言った。

 文江はきょとんとして、「あら、そう」と言った。

 それで終わりだった。

 でも、手を握ると、変わらなかった。

 名前も顔も、誰が誰かもわからなくなっても、麻衣が文江の手を両手で包むと、文江は必ず言った。

「あったかいね」

 その言葉だけが変わらなかった。

 施設の部屋の中で、窓から光が入る昼下がりに、文江は麻衣の手を握り返しながら「あったかいね」と言った。

 それだけを、ずっと言い続けた。

 麻衣はそのたびに思った。

 これは私への言葉なのか、と。

 それとも誰の手を握っても、そう言うのか。

 確かめる方法はなかった。

 確かめることが怖かった。


 最後に会ったのは、文江が亡くなる一週間前だった。

 その日、文江はほとんど眠っていた。

 麻衣が隣に座って、文江の手をそっと握った。

 しばらくして、文江がうっすらと目を開けた。

 麻衣を見た。

 何も言わなかった。

 でも少しの間、目を開けたまま、麻衣の顔を見ていた。

 それから、目を閉じた。

「あったかいね」と言った。

 小さな声だった。

 でも聞こえた。

 麻衣は「うん」と言った。

 声が震えた。

 文江はそのまま眠った。

 一週間後、施設から電話が来た。


 葬儀が終わってから、麻衣はずっとその疑問を抱えていた。

 最後まで、わかっていてくれたのだろうか。

「どなた?」と言い続けたあの二年間、文江に麻衣は何者だったのか。

「あったかいね」は、麻衣への言葉だったのか。

 それとも、誰の手でも温かければそう言ったのか。

 どちらかを知ることは、もうできなかった。


 財布の中の、二十年以上前に押した花を、時々取り出した。

 薄くて、黄ばんで、それでもかろうじて形を保っていた。

「最初に押した花はね、お守りになるのよ」と言っていた祖母の声が、思い出すたびに耳に残った。


 三月の朝だった。

 通勤電車は混んでいた。

 麻衣は吊り革を持って立っていた。

 次の駅で席が空いて、隣に老婦人が座った。

 七十代か、もう少し上か。

 小さな体に厚いコートを着ていた。


 電車が揺れた。

 老婦人の手が、麻衣の手のひらに触れた。

「あったかいね」と老婦人が言った。

 麻衣の体が固まった。 

(よく言う言葉かもしれない)と思おうとした。

(冬の電車で手が触れれば、誰でも言うかもしれない。)

 でも体が動かなかった。


 老婦人は小さなバッグを膝に乗せて、窓の外を見ていた。

 しばらくして、独り言のように言った。

「最近、押し花を習い始めたのよ」

 麻衣の息が止まった。

「なかなか難しくてね」と老婦人は続けた。

「ゆっくり押さないといけないでしょう。急ぐと形が崩れてしまうのよ」

 喉が、詰まった。

「あの」と麻衣は言った。

 声がかすれていた。

「押し花の、最初に押した花はどうされましたか」

 老婦人が麻衣を見た。

 少し不思議そうにして、それから「お守りにしまっておいたわよ」と言った。

「先生にそう言われたの。最初の一枚は、ずっとそばに置いておきなさいって」


 麻衣は目から涙が出た。

 電車の中だった。

 止めようとしたが、出てしまった。

 老婦人が「あら」と言って、麻衣を見た。

「ごめんなさい」と麻衣は言った。

「おばあちゃんのことを思い出して」

「そう」と老婦人は言った。

 それ以上は聞かなかった。

 ただ、麻衣の手にそっと手を重ねた。

 温かかった。

 文江の手と、同じ温かさだった。

 乾いていて、少し薄くて、でも確かに温かかった。 


(おばあちゃん)と麻衣は思った。

 声には出さなかった。

 でも全身でそう呼んだ。

 わかっていてくれた?

 最後まで、私だってわかっていてくれた?

「あったかいね」は、私への言葉だった?

 答えは来なかった。

 でも——手が、答えていた。


 老婦人の乗り過ごす駅があったのか、ふと気づいて「あら」と立ち上がった。

「失礼しました」と言って、すたすたと歩いていった。

 麻衣は一人、吊り革を持ったままだった。

 目を拭った。

 窓の外で街が流れていた。

 三月の光が、ビルのガラスで弾けていた。


 会社に着いてから、麻衣はトイレに入って財布を開けた。

 小さな袋の中に、二十年以上前に押した花があった。

 薄くて黄ばんだ、淡い黄色の野花。

「最初に押した花はね、お守りになるのよ」と文江が言って、麻衣がその通りにしてきた花。

 麻衣はそれをそっと取り出して、光にかざした。

 向こう側が透けて見えた。

 花弁が薄く、光を受けて、かすかに輝いた。

 わかっていてくれた、と思った。

「あったかいね」は、私への言葉だった。

 名前を忘れても、顔がわからなくなっても、手の温かさは覚えていた。

 それだけで、十分だった。

 十分以上だった。


 お昼休み、麻衣は実家に電話した。

 母が出た。

「お母さん、おばあちゃんの押し花帳、まだある?」

「あると思うけど、どうして?」

「見たくなって」と麻衣は言った。

「送ってくれる?」

「いいけど」と母は言った。

「急にどうしたの」

「今日、おばあちゃんに会った気がして」と麻衣は言った。

 電話の向こうで、母がしばらく黙っていた。

「そう」と母は言った。

「会えてよかったね」


 その夜、麻衣は財布の中の花を、小さな額に入れた。

 机の上に飾った。

 光が当たると、薄くて透明で、まだ美しかった。

「おばあちゃん」と麻衣は言った。

「手、あったかかったよ。ずっと」

 窓の外で、春の夜風が動いた。

 カーテンが、ゆっくりと揺れた。

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