第35章 佐藤の回想
佐藤は壁にもたれ、荒くはないが、まだ少しだけ疲れの残った息を吐いた。
それから、あの時の光景を思い出すように、ゆっくり目を伏せた。
「田中さんたちと別れた直後から……正直、かなりギリギリだった」
小さくそう前置きして、佐藤は話し始めた。
あの時、俺は二体を引きつけたまま左の道へ飛び込んだ。
田中さんと鈴木を逃がすためとはいえ、冷静に考えればかなり無茶な判断だったと思う。
細い山道を全力で走る。
枝が顔に当たる。
足元の砂利が滑る。
それでも後ろを振り返る余裕なんてない。
背後から聞こえるのは、あの嫌な足音だ。
全速力で追ってきているのが分かる。
二体。
数としては少ない。
だが、山道で追われるには十分すぎる数だった。
一本道で、左右は斜面と藪。
止まれば追いつかれる。
転べば終わる。
しかも俺は、あいつらを確実に殺せるような“決定打”を持っていなかった。
鉄パイプは十分な武器になる。
だが、頭を一撃で砕くにはバットほど扱いやすくないし、打撃力には欠ける。
下手に振れば腕を取られるし、狭い道では振り抜くスペースも足りない。
一体ならまだしも、腕を持っていかれたところを二体目に襲われる可能性が高い。
だから俺はまず、逃げることに集中した。
道は少し先で折れ、県道はさらに森の中へ入るように曲がっていた。
幸い、俺の方が少し足が速かったおかげで、わずかに奴らを引き離せた。
その瞬間、少しだけ考える余裕ができた。
ただ、このまま走ってもどこかで体力が尽きる。
なら、どこかで一度、奴らの視界を切るしかない。
俺は県道の曲がり角を使った。
大きく左へ折れた瞬間、道の外の藪へ飛び込む。
そのまま二歩、三歩だけ斜面をよじ登り、倒木の陰に体を伏せた。
息を殺す。
心臓がうるさい。
喉が焼けるように熱い。
だが、それでも動かなかった。
数秒後、二体の感染者が走り抜ける。
まっすぐ道を追っていった。
俺のいた位置からは、やつらの腐った横顔がよく見えた。
あと少しでも遅れていたら、見つかっていたと思う。
……いける。
そう思った。
だが、そう簡単には終わらなかった。
一体が通り過ぎた後、もう一体が急に減速した。
首を小さく左右に振り、鼻先を上げる。
空気を嗅いでいる。
汗の匂いか、吐く息の匂いか。
とにかく、完全に気配を消し切るのはこの藪の中でも難しい。
感知されれば、自然領域だろうが関係なく突っ込んでくるだろう。
俺は反射的に、地面に顔を押しつけた。
匂いを消せるわけじゃない。
だが、少しでも気配を薄くしたかった。
そいつは数歩、道を戻ろうとした。
やばい、と思った。
あと数メートルこっちへ来れば、感知した証拠だ。
このまま見つかれば終わる。
ーーその時だった。
先に走っていった一体が、少し先で何かにぶつかったらしく、ガシャーンと派手な音が響いた。
多分、放置されたバイクか何かだろう。
減速したやつは音の方に気を取られ、そちらへ反応してすぐにまた走り出した。
助かった……。
全身から一気に力が抜けそうになったが、まだ動かなかった。
こういう時に早く立ち上がると、匂いや音を撒き散らして気づかれて終わる。
やつらが完全に離れたのを確認してから、ようやく息を吐いた。
それから俺は、できるだけ足音を立てないように藪の中を移動した。
本来の目的地はホームセンターだ。
だが、このまま道を戻れば、せっかく撒いた奴らを再び引き寄せる可能性がある。
なので藪の中を突き進み、一度大きく迂回して県道へ出ることにした。
遠回りにはなるが、このまま行けば町には着く。
ここは地元の地理感覚が多少あったおかげで、変に迷わずに済んだ。
ただ、問題はその途中だった。
森を抜けようとした時、小さな作業小屋のような建物を見つけた。
山仕事の道具でも置くための小屋だったのかもしれない。
扉は半分開いていて、中は暗かった。
本来なら無視すべきだったと思う。
だが、その時の俺は体力も削られていて、少しでも休める場所が欲しかった。
それに、もしかしたら使える物があるかもしれないと思った。
小屋の中へ入った瞬間、嫌な匂いがした。
腐敗臭と、鉄臭い血の匂いだ。
やばい、と思った時には遅かった。
奥の壁際に倒れていた“死体”が動いた。
そいつは作業員みたいな格好をしていた。
ヘルメットは割れ、片腕は肘から先がない。
食われてから感染発症したタイプだろう。
その感染者は、目だけはぎらついていて、立ち上がるというより跳ねるようにこっちへ来た。
小屋の中は狭い。
鉄パイプを振るには不向きだった。
俺は咄嗟に横へ避け、壁にそいつをぶつける。
だが感染者はすぐに体勢を立て直し、今度は噛みつこうとしてきた。
焦りはあったが、ここは冷静に対処しなくてはいけない。
ここで声を上げたら別のやつを呼ぶかもしれないし、大きな争いの音も危険だ。
逃げるにしても体力が限界に近い。
こいつから逃げたところで、他を引き寄せたら終わりだ。
なら、ここで素早く始末するしかない。
俺は半ば組みつくようにして、鉄パイプをそいつの首元へ押し込んだ。
腐った歯が、顔のすぐ横でカチカチ鳴っていた。
少しでも力が緩めば、首を持っていかれる距離だ。
「っ……!」
声にならない呻きが漏れる。
腕がきしむ。
だが押し負けるわけにはいかない。
その時、横の作業机にあったドライバーが目に入った。
俺はそれを掴み、やつの頭に突き刺した。
その衝撃で一瞬だけ体勢が崩れる。
その隙に鉄パイプを持ち替え、今度は下から顎へ突き上げた。
ゴキッ、という嫌な音がした。
頭がのけ反る。
そのままもう一撃。
さらにもう一撃。
最後は壁に押しつけるようにして、何度も顔面を打った。
完全に動かなくなるまで。
気づいた時には、小屋の壁にも床にも赤黒い血が飛び散っていた。
息は切れているし、手も震えていた。
自分でも、少しやりすぎたと思うくらいだった。
でも、あの時はそうしないと止まれなかった。
……やっぱり、怖かったんだと思う。
二体を引きつけて単独になって、やっと少し落ち着けると思った瞬間に、また目の前に現れた。
ああいうのが続くと、人間、冷静なつもりでもどこか壊れてくる。
一人には慣れていたつもりだった。
だが、一度仲間がいる空間を味わえば、また一人に戻るのがどこまでも怖くなる。
そんな感覚だった。
感染者を倒した後、小屋の中を見て回ったが、大した物はなかった。
古いロープ、錆びたスコップ、空のポリタンク。
だが奥の棚に、地図が一枚だけ残っていた。
この辺りの林道と町道が簡単に載った、観光用でもない本当に簡素な地図だ。
それが大きかった。
その地図で、自分が今どの辺りにいるのか、おおよその見当がついた。
地元ではあるが、ここまで外れた山道に来たことはない。
だからこそ、自分の位置が把握できたのは大きかった。
本来の県道へ戻るより、山の中腹を横切って町の外れへ降りた方が早い。
しかもそのルートなら、人家の少ない場所から入れる。
俺はその地図を持って、小屋を出た。
そこからしばらくは、ほとんど獣道だった。
途中で何度か、遠くに感染者の姿も見えた。
単体か、多くて二体。
田中さんたちと一緒なら避けやすかっただろうが、一人だと逆に慎重になる。
誰かが前を見てくれるわけでも、後ろを警戒してくれるわけでもない。
全部を自分一人で見なければならない。
その中で一番きつかったのは、静かすぎることだった。
誰もいない。
返事をする相手もいない。
足音と呼吸音だけがずっと続く。
その状態で山を歩いていると、どうしても考えてしまう。
田中さんたちは無事に逃げ切れたのか。
鈴木は転んでいないか。
そもそも、俺の判断は正しかったのか。
あの時、三人で一緒に走った方が良かったんじゃないか、とか。
そういう、考えても仕方ないことばかり頭に浮かんだ。
……正直、かなりしんどかった。
でも、ホームセンターに行くって約束していたからな。
だから迷わなかった。
無事なら、あそこにいる。
いなかったら……その時考えるしかない。
そう自分に言い聞かせて進んだ。
なんとか県道に出たのは、夕方前だった。
遠くで銃声が聞こえた。
パンッ。
少し間を置いて、また一発。
武装している人間がいる。
しかも田中さんたちの向かっている方角で。
だが、田中さんがいる限り、不用意に近づくことはしないだろうという妙な確信があった。
だからそこは深く気にせず進んだ。
そして、その夜は野宿で越した。
ただ、寝袋や装備はほとんど俺が持っていたから、二人がちゃんと夜を越せているかは本当に心配だった。
それでも、戻るわけにはいかなかった。
ここで中途半端に引き返しても、出会えない可能性が多いし、三人とも危険になるだけだと思ったからだ。
次の日の朝、俺はそのまま森を抜け、町の外れに着いた。
町の縁を大きく回って、ホームセンターを目指した。
ーーーただ、その過程で判断を誤ってしまった。
町に入る前の県道で、道端に止まったままの自衛隊車両を見つけたんだ。
フロントの一部はへこんでいたし、側面にも引っかき傷があったが、まだ動きそうだった。
周辺には感染者の死体も数体転がっていた。
おそらく、去年の混乱の中でここで争いが起き、放棄されたものだろう。
本来なら、あんな目立つ物には近づかない。
だが、町があまりにも静かだった。
この場所に来るまでも、一体にも出くわさなかった。
町の規模感でここまでいないのはおかしい。
ただ、その時は“おかしい”よりも“ラッキーだ”と思ってしまった。
しかも、田中さんたちが生きているなら、ホームセンターにいる可能性が高い。
もし車が使えたら、町を手早く抜けられるし、場合によっては三人での帰路にも使えるかもしれない。
……そう考えてしまった。
町の中とはいえホームセンターまで、まだ4キロほどあった事も理由だった。
だから、異常さを脇に置いて、奴らに出くわすまでは車で行けると思ったんだ。
出くわしたら乗り捨てて、どこかに身を潜めて、それからホームセンターを目指す。
そのつもりだった。
鍵は刺さったままだった。
エンジンも、少しもたついたが生きていた。
奇跡みたいな話だが、本当に動いた。
それで俺は、できるだけ短く町を抜けるつもりで車を出した。
町はやはり静かだった。
拍子抜けするくらいに。
道にも、感染者の姿がまるで見えなかった。
一瞬、本当にいなくなったのかと思ったほどだ。
でも実際は違った。
感染者がいなかったんじゃない。
全部、どこかへ引き寄せられていたんだ。
そして俺が車で進み、あのスーパーの近くを通った時、
――ーー地獄を見た。
店の割れた入口や窓から、多数の感染者が次々と溢れ出してきた。
本当に、波みたいだった。
こっちへ一斉に向かってきて、車体に手をかけ、叩き、しがみつく。
慌ててアクセルを踏んで逃げようとしたが、このままでは車ごとやられる。
このままじゃまずいと思って、咄嗟に乗り捨てて走るしかなかった。
一瞬はどこかに身を潜めて撒こうと思ったが、数が多すぎて不可能だった。
だからホームセンターへ向かった。
広い建物の中なら、どこかで巻けるかもしれない。
田中さんたちがいる可能性も考えたが、もうその時点では、ホームセンターで叫んで気づいてもらうしかないと思っていた。
実際、ホームセンターに着いた時は半分賭けだった。
もし二人がいなかったら、そのまま俺一人で群れを引き連れ、逃げ道も分からず終わっていたかもしれない。
でも、いた。
奥で田中さんたちの姿が見えた時、正直、夢かと思ったよ。
本当に生きていたんだって。
嬉しかった。
だからこそ、次に思ったのは、とにかく気づかせないと、だった。
俺が連れてきた群れのせいで、二人が感染者に気づかれないまま巻き込まれたら終わる。
だから叫んだ。
佐藤はそこで少しだけ苦笑した。
だが、その目の奥には、あの時の張り詰めた緊張がまだ残っているようだった。
「で、その後は……二人も知ってる通りだ」
そこまで言って、佐藤は一度黙る。
そして、少しだけ表情を引き締めた。
「今回、俺はかなり運に助けられた。判断が全部正しかったとは思ってない。小屋に入ったのも、車両に乗ったのも、下手をしたらその時点で終わってた」
そこで一度、言葉を切る。
「でも……久々に一人で動いて、改めて分かったよ」
佐藤は俺たちを順番に見た。
「三人でいる安心感は、やっぱり半端ない。
だから次からは、よほどのことがない限り……もう、別行動はなしだ」
鈴木が静かに頷く。
俺も、何も言わずに頷いた。
あの分かれ道での判断は間違っていなかったと思う。
だが、誰か一人でも運が悪ければ、今ここに三人そろって座ってはいない。
家の外では、風がかすかに木を鳴らしていた。
夕方の光が、部屋の床を長く染めている。
生きて再会できた。
それだけで、本当は十分すぎるくらいだった。
けれど、この世界では、再会できたことは安心していいことと同じ意味じゃない。
今日を越えても、明日がある。
村へ帰るまでが、遠征だ。
それでも――
今この家に三人そろっている。
その事実だけは、ここにあった。
あとは村に帰る!
そしたら本当のスローライフの始まりだ。




