風吹く鄙の珠の巫女8
それは予想だにしない動きだった。
冥之上はスオウの手をぬるりと抜け出すと手のひらを盾のように広げて見張りの者の矛を退けたのだ。
スオウは驚いた。
しっかと抑えていたのに関節を外したかのような動きで抜け出す事が出来たのは冥之上が人としてあるべき関節の動きという概念に捉われていないからだろう。
だが驚いたのはその事ではない。
隙があると見て見張りに目配せしスオウごと斬らせようとした長老と、その凶刃から冥之上が自守ってくれたことに驚いたのだ。
今までの冥之上は危害を加えられそうになってもどこ吹く風だった。
現に先ほどは見張りの横薙ぎを甘んじて胸で受け流していたし、怪我をするということがないのだ。
だからこそ聖域から下山している時はスオウも冥之上ごと牙狼を叩き切っていた。
つまり冥之上は守るという動作をする必要がなく、敢えて受け止めたのはスオウを守ろうとしたと考えなくては説明がつかなかった。
「冥……!?」
「おお」
人ならざる手の形にたじろき後ずさる長老と見張りたち。
そして何故か感嘆の声をあげる冥之上。
土の精隷は自身の変化を興味深げに眺めていた。
無意識のうちに手が出たということなのか。
「な、なんだ其は!?」
「なんだこれは」
「己はそんなことが出来たのか……」
「私はこんなことが出来たのか」
「なんなのだ己は。まあ、いい。然なることよりも……汝ら、今、私ごと討たんとせしか」
「……汝は、汝は妖に憑かれたり! のう、長よ、のう!?」
「げにも! それなる異相は土の精隷が所作の伝えに非ず、前代なり。なんと忌ま忌ましきことよ。禍事は絶たねばなるまいぞ!」
「愚かな……我ら人が何を知りつる!? 精隷を、上を、何を知りつるぞ! 我ら、いかでか思い知らる!」
「なめげなり、栖鴬!」
人如きが精隷や精隷を創り給うた上を全て理解出来るわけもないのだから、と冥之上を受け入れたスオウに対して長老や見張り達は頑なだった。
見たこともないのに言い伝えで知った気になっている彼らとって言い伝え以外の未知は恐怖でしかない。
同じく今まで精隷を見たことがないスオウだが彼には他の者とは異なる点があった。
彼は鄙の男たちの嫉妬を和らげるために進んで鄙の外で狩りをしたり遠くの鄙まで交易の手伝いをしたりと、外に触れる機会が誰よりも多かったのである。
自然の中では思い通りにいくことのほうが少ない。
遠くの鄙にはその土地のしきたりがあり、それは風吹く鄙とは大きな違いがあっても交易を成功させるためには受け入れねばならない。
そうやって若者は柔軟になっていた。
それが一層男たちの反感を買うことにもなっていたが今までは有用な彼を表立って邪険に扱うことが出来る者などいなかった。
だが、今まではである。
いけ好かない男が妖に憑りつかれたとあらば見張りたちは鄙を守るために喜んで立ち上がった。
何事かと出て来た住人たちが集まると長老が叫ぶ。
必要なのはこれからの素晴らしい生活を約束する彼の妹だけであり異分子と成り下がった彼自身は最早いらなかった。
「皆の者! 此奴は妖に憑かれたるぞ! 鄙に招き入れ、祭礼を塞かんとせり!」
「なんと!?」
「そんな……スオウ様……!?」
「長よ。私に……年を経て働きわたる私に……かくもむげにあたるか」
「黙れ。汝の事過ちぞ。ただ素直に従いたるをよしとせず、定めに背きたる物腰ぞ憎し」
「聞き直し給う!」
「汝は儂が鄙には不要な──」
長老が言葉を切ったのは言い合いの最中であるにも関わらず冥之上が歩き出したからだった。
まったく脈絡のない動きに一同は唖然としたが珠の巫女の元へ向かおうとしていることが分かると見張り達は慌てて行く手を阻んだ。
だが斬撃もすり抜けてしまう相手をどうやって止めるというのだろう。
焦った長老は魔除けの装飾を首から千切ると冥之上に突き出しながら泡を飛ばして怒鳴った。
「やらせはせぬ、やらせはせぬぞ! 珠の巫女は闇女上への供犠なり! 妖ばらに渡してなるものか!」
「闇女上は私に巫女の力を賜りにゆけとだけ言った。供犠などは求めていなかったぞ」
「信ならず! 去れ、去れーっ!」
首飾りを振り回し祝詞を奏上する長老だったが当然悪霊ではない冥之上には効かない。
しかし冥之上が足を止めたのは単純にその必死さに興味を持ったからだろう。
その背中にスオウは声をかけた。
冥之上の言葉すら長老には響かず妹を生贄とする儀式は不可避と知り、不要と言われ恐らく今後鄙にいることさえ出来なくなってしまった若者は全てがどうでもよくなっていた。
「煩わしいか、冥之上。望みあるなれば憚ることないぞ」
「ん?」
「こういうことだ!」
スオウは冥之上の背中目掛けて矛を投げた。
矛は身体をすり抜けると長老の脳天を割った。
口を戦慄かせた老人が倒れ伏すのと周囲から悲鳴があがるのは同時だった。
おー、と感嘆の声をあげた冥之上は絶叫しながら襲い掛かってくる見張り達に腕を振った。
途端に矛のような形状となった腕は矛よりも長い間合いで見張りの内の一人の脳天を穿った。
更に矛と化した腕の途中が分かれもう一本となり別の見張りの頭を割る。
大混乱となった女たちは逃げ出し男は武器を手に取り立ち向かってくる。
冥之上はまるで条件反射のように次々に男たちを迎え撃ち、スオウは絶叫の中で頭を抱えて膝をついていた。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
悪いのは闇女上の遣いらしからぬ風体の冥之上か、それともそんな者を連れてきてしまった自分か、頭の固い長老たちか。
若者は歯を食いしばるとゆっくりと立ち上がって歩き出す。
こうなってしまった以上は取り返しなどつくわけもなく今は出来る事をするのみだ。
「巫女だ! 珠の巫女をやれ! 悪霊の手に渡る前にお返しするのだ!」
文字通り上の如き理不尽さで次々に鄙人を屠っていく冥之上を恐れたか、男たちは案の定血迷って小木蔵を目指し駆けだした。
スオウはそんな仲間たちを追い、立ち塞がり切り結んでいった。
全ては血を分けた肉親であるたった一人の妹のために。
血飛沫は朝食の炊事の煙にのり空を赤く染めていった。