上と神
スオウは全力で、小指の骨が折れているのも忘れて冥之上を殴った。
常人ならば首の骨が折れていたかもしれない振り抜きの一撃で両者は地面に倒れた。
それでも飽き足らず馬乗りになって何度も土の精隷の顔を叩きつける。
憂さ晴らしにしか過ぎない無駄な行為は暫くの間続いた。
こんなことをしても意味がないのは解っていた。
基本的にただの人間が大いなる力の化身である精隷に危害を加えることは出来ない。
大人しくしていた冥之上だったがスオウの腕を掴んで止める。
その顔はやはりまったくの無傷であった。
「また泣いているのか。何故泣く」
「これが……泣くということだとは理解出来るのだな。ならば何故その意味が分からぬ。ただ一人の妹を己に殺され、どうして悲しまずにいる者がいようか」
「おお、己の手で殺める事が能わなんだ故に悲しむのか」
「…………は?」
「珠の巫女は死した。今、勾玉は私の手にあり、魂はこの導祖の手にある。殺めたのは確かに私となろう。だがそれと汝の怒りが結びつかじ。考えてみしが、初めは殺めることそのものに憤んでいるのかと思ったが、それは違うのであろう。汝も多くの者を殺していた故、それでは道理に合わんからな。なれば己が手で殺むることが能わなかった故に悲しんでいるのではないかと考えてみた。すると涙の道理が通った。如何に」
スオウは言葉が返せなかった。
冥之上の言葉は個人の感情を無視した暴論ではあるが正論だった。
鄙の男たちの多くの命を奪ってしまった。
それは妹を救うためとはいえ、スオウにとっての妹がかけがえのない者であるのに対して男たちもまた誰かのかけがえのない命だったのだ。
二人の会話を聞いていた女たちがスオウの横に立つ。
弱々しく顔を上げたスオウが見たものは怒りや悲しみの顔ではなく妙に普段通りであったがスオウは向き直って手をついた。
辛いのは自分だけではない。
むしろ嘆いてばかりいるのは原因を作ったものとして不適切であった。
「スオウ様」
「みな……私は……すまない事をした。要无の供犠となりし定めを心得ず、闇女上の遣いを名乗る土の精隷を鄙に入れ、かくなる惨き有様となりしは私の擅なる行いが招きたる末だ。私の罪は幾十度の石打に甘んじたとて許されぬことであろう。抗いはせぬ。罪し給う」
「いい、いいのさ」
「……え?」
「私らがスオウ様を好みたるはスオウ様が女を慈しみくださるからさ」
「そうよ。此度のことも要无を救わんとなされたためと、私ら女衆は心得ております」
「供犠は決まって女ゆえ、私らもつと心得ぬ心地でありました」
「然なりよ。鄙一番を捧げるということなれば長様かふだんから威張り散らしてる男どもだろうにね」
「然なり。闇女上とて大君なき今は男日照りならん」
「必定必定、あはは」
夫を、息子を殺した相手を慰める女たち。
交易の為に遠くを巡り様々な死生観に触れていたスオウとは異なり死は一時の別れに過ぎないと信じる鄙の女たちは存外に軽かった。
魂は導祖によって新珠の泉に運ばれて清められ、いずれまた返ってくるものだ。
畑を覚え不作でさえなければ狩りに頼らなくても生きて行ける女たちは逞しく笑い、男などまた産めばよいと豪語した。
「要无も定めて幸いならん。巫女の力を遣いに返し、最期まで兄人様に愛しまれて」
「みな……有難し……。この栖鴬を許し給うか。この土の精隷を闇女上の遣いとて認め給うか」
「扨も弁えなさるなら今宵は私らと目合い給う」
「え?」
「然なり。減ったなら増やさねばなりませぬ」
「…………」
「そこな御遣い様は如何なるか」
「なんだ」
「さてもさても! 精隷にもおはしあり! しかれども種はありや?」
「なにをしつるか」
「そこな旅の御方も!」
「おお怖や怖や。こは散じるべきぞな」
空元気か、きゃあきゃあと騒ぐ女たちにスオウは心の底から感謝した。
いつしか数多くいた導祖はいつの間にか傍に佇む一人だけになっており陽も遠くの山の陰に隠れ、残るは夕焼けのみとなっていた。
最後の導祖は今一度冥之上と視線を合わせると消えて行った。
きっとあの手燭に灯っていた光は妹の魂なのだろう。
「暫し。スオウと申されたか。あの童の如き精隷が闇女上の御遣いなればゆめゆめ粗略になさることなかれ。何を成さんとしているのかは知らねども、関わらば傅かるべし」
「旅の御方よ……私にあれの行く末を見果せと申されるか」
「それが汝の定めならん」
そういうと旅の男はスオウに何かを渡してきた。
譲り受けるととれは土で出来た祭礼用の仮面であった。
「悲しき時もあろう。憤む時もあろう。其の時はこれを付けて紛らわせ。心が音泣きても顔を別かてば少しは治まらん」
「……有難し」
ゆっくりと話せる状況ではなく女たちは旅の男を捕まえスオウを立たせ、冥之上を押すと寝屋戸に誘った。
日が暮れては何も出来いので仕方がないことではあるが、埋葬は翌日へと持ち越されることとなった。




