荷物
わたしはじぶんの荷物はじぶんで持つ。思い遣りがなく、冷たい人間だと何度かいわれてきた。どんな場合でも他者を尊重すべきだ、と。わたしにできることが誰にとっても簡単にできることだとは限らない、そういわれた時も何回もあった。
助け合いの精神。人は誰しも一人で産まれてくるわけじゃない。巡り巡って、差し伸べた手はじぶんに返ってくる。
知るかよお前らの理屈なんか。
世のなかの大半の人間はじぶんの荷物を誰かに持たせることを当たり前にしていたり、また反対に誰かの荷物を持ったりしたりしている、そんな様子を横目に、一人でわたしは道を歩き続けていると、そういえるのかもしれない。メンタルヘルス、食品アレルギー、性的指向、出産適齢期。いくらでもある、それが他人のであれ自身のであれ、人間が人間らしく生きようと考え暮らしていればいつしか抱えている他ない荷物はあって、ときには、人一人が抱え込むには無理が生じるケースもある。外の世界を歩いていて、持っている荷物があまりに多くてよたよた歩きみたいにしか進めなくなっている人間もいる。少なくとも傍目には手ぶらで歩いていてフットワークの軽い生き方ができている人間もいる。増えたり、減ったりする荷物。本有的だろうと、後天的だろうと、その人のそれはその人の荷物である点に変わりはなかった。
そしてわたしはじぶんの荷物は誰かに持ってもらおうとは思わない。わたしと話をしたこともなく、また話したいとも思っていない癖に、わたしの様子を見ただけの外野からあれこれいわれる筋合いはないのだし、たまたま運のいい生き方ができているだけの人間、今はたまたまそんな時期ってだけだ、という指摘にかんしても全くそこは同じ。私はそれらを、じぶんの荷物に加えるつもりはない。全然ない。言外に、調子づいてんなよ、と漂わす人たちだが、あれも意味が分からない。でもこれもわたしの荷物ではない。置いていく。
「たまたまだタイミング的に上手くいっただけだお前なんか! 運がよかっただけで、空っぽだ! 空虚だぞ!!」
わたしは背後からの声にも振り返らずに次の目的地に移動するだけだ。
聞く耳を持たない、といわれるしいわれている人たちもよく見るけど、わたしみたいな人々はいつも考えた上で聞く耳を持たないことにしているのは間違いない。コンプレックス。異性愛規範。出自。それらは全部、彼らの荷物だ。わたしの荷物だった時なんかない。これから先もない。わたしはわたしの正しいと思えていること、じぶんの考える善いことを見つめてる。フェアネスについて思いを巡らす。それから栄養バランスも。わたしの歩んできた道。わたしの体。わたしの精神。わたしのセクシャリティ。わたしの荷物はわたしだけの荷物で、誰にも持ってもらいたいだなどとは、考えている時がない。
「あなたのその荷物、私のじゃないんで。絶対に持ちたくないです」




