君はケーキを隠すのが上手
悪の狼たちの口から垂れ落ちた涎が、君のキッチンの至るところを濡らしている。朝の眩しい光に醜くてらてらと光り輝く。現在の状況にそぐわない、この穏やかな晴れた朝の空気の中で。
君の震える手、そのみっともない動揺の様子を、ここでは誰も目にすることがない。少なくとも今この時この場で、それは有りがたいことだといえるだろう。
しかし目を上げれば、これは本当に悲惨な、目の当たりにすれば誰もが胸を痛める状況といえるものであった。
君のキッチンの戸棚は見事に破壊されていた。
鍋たちや、君のつましいあの冷蔵庫も反転した状態を見せていた。ここにじぶん以外に誰もいないのは本当に有りがたいことだ。
君じしんしか今の君を見てない。一晩ですっかり傷だらけとなっている床の上を少し進んだところで、けれど屈み込んでしまう君を。
鳴き交わす小鳥たちの声すらその耳に入らなくなっている君を。
散乱したものたちに対して何一つかける言葉がない、といった様子で顔を手で覆った君を。
君は本当に長いことそうしていた。
そうやって何も手にとらず、目のやり場にさえ困り果てたかのようにして不動の状態を続けていても、どこかで自覚してはいる。君の才能、君のセンス。
君が望んだわけではないとしても、おそらく君が決めたことだというになる全て。
君の世界は君しか見れない。正しい朝陽を、綺麗な君の世界を、誰もが奪おうとする。壊そうとする。
だって君は昔からいつだって、ケーキを隠すのが上手。
TAKE 2
ある真夜中のこと。君一人しか住んでいない君の一軒家から、歌声が漂いだす。
すると即座に暗がりから足音を完全に消したままでブーツたちは進み出て、家の壁にまで接近し、窓のある外壁に集まり、当然その最終目標は、君のバースデーケーキ。
そのケーキが素晴らしいものなのは分かりきっている。
君みたいな綺麗な人なら手にするものも当然そうなるんだから。
ただどんなふうに素晴らしいかそれを確認するだけのことがこんなにも難しいだなんて、これをどう考えたらいいんだかいつも分からない。
僕も、君のケーキに忍び寄る影の一つでしかない。
どきどきと胸はうるさく、君に、君のケーキに近づき、窓の下にへばりつく、僕は黒い影。
言語化し、刻まなくてはならないと感じる。
今夜、月はどういうふうにあるのかなんて思い出せない。こんなふうになるのは君のケーキを感じている時だけ。どうしても君のケーキを証明しないとと皆思っている。君のケーキを実際に目にした者はかつて一人としておらず、幼少時代から君を知っている者もそうであることで熱は高まったのも否定しない。今夜こそはと意気込んで誰もが武装している、完全にオーバープロデュース、なぜなら君は孤独な一人暮らし。君が襲撃を受けたという話はきっとまたスクープになるだろう、隣町にまで噂は波及し少女たちは涙を流し、とんでもなく巨大化していく、君の話でまたもちきりになる。
考えているうちに僕は足が動かなくなった、影が何をしようと、だって何にもならないんだから。
僕が何を見ようとも、見たことにはならない。誰も信じない。
君はケーキを隠すのが上手。
TAKE 3
知ってるよ。
君ならやってくれる、君ならファンキーでモンキーな老人のバイク乗りにやがてなって、昼日中バイクをとばすだろう。当然のこととして、君はとても長生きをするだろう、日に日に話題の人物として街の人からも注目されるだろう、むしろそこを生きる目的としてしまえるだろう。敵がみんな老いて死ぬ時のことを考えるのだけが、昔から好きな君だったから。街を走り抜けていくバイクの上で君はやるだろう、君はようやくケーキを隠すことなく食すだろう、高々とケーキを持ち上げて。本当の君は、だって正々堂々とやるのを好んだはずだから。
本当の君なんて君自身にさえよく分からない誰かだったものね?
晴れた空の下で君はかます、ケーキを隠すのが、君は初めて下手くそになっているだろう。その日その時に初めて。でもそんなこと当たり前、いつだって暗がりにいるような子ども時代を過ごした事実を本当のところは激しく憎み続けてもいた君だ、だから君は快晴の午前中にバイクを走らせるんだろう、青空の下の違反者、君はもう止まりたくなくなっちゃうだろう、そうして君はケーキを夢中で味わうだろう、君は通報されるだろう、また街の連中に話題を提供することになるだろう、トリッキーな様にケーキを口一杯に頬張りそのままどこまでも逃亡を続ける君なのだろう。
同時に、ひょっとして君の最後がそこだったりするのか、だとしたら、君はとても、やっぱりケーキを隠すのが上手。
TAKE 4
君の舌が太い指たちに挟まれ引っ張り出される。口内にないかと、明るすぎるライトに照らされる。ない。次。
君の瞳の奥底に隠されてやしないかと至近距離から血走った目たちが、代わる代わる覗き込む。ない。ここにはない。次。
彼らは君の躰にいくつか穴を開けて、指を潜り込ませた。ない。悲鳴しかない。
数分前にすでに君の借りたアパートの部屋はぐちゃぐちゃに荒らされ、今こうして君は身包みを剥がされ、それでも君が隠したケーキはどこにもない。いつまでも目的のものが見つからない苛立ちのために、涙を浮かべる者さえ見られた。おぞましい吠え声が部屋の壁を震わせた。
舌でペロっと舐めてみれば、君の血には、ケーキの気配はやはりなかった、そんなところにあるわけがなかった、しかし君の血がどこか甘い味がするといい出す者がいる。
彼らの中で、君と君のケーキの関係性は確かなものだと、一様に確信は強まってしまう。どこにもケーキが影も形もないからこそ、僅かな可能性が光り輝いた。
だから彼らは探し続ける。君のケーキを。次。次。次。
君はケーキを隠すのが上手、君じしんが消えちゃうくらい。
TAKE 5
君の森に犬たちが解き放たれる。
こうして今晩もまた同じことが繰返されるわけだ、この期に及んで君は胸を痛めてしまう。
すでにじぶん自身の血でできた水溜りに半身を浸しているというのに。
君の粗末な布の服が破かれた時にも、何にも感じないでいられたのに、じぶんの存在の仕方のせいで森の住人たちに怖い思いをさせてしまうのが君にはこたえるのだ。
でも最悪の事態を陥っててもなくすことはない君のそれが長所でもある、無意識下でそれが君の救いでもあり続けている。
君は君じしん拒絶しているほどにケーキを隠すのが上手、本とに上手。
TAKE 6
フィールドスコープを用いても、君はちゃんと君。
昼日中に狙撃され君は音もなく倒れる。
内心結構どうでも良くなってきてる。
とにかく君は、ちゃんとケーキを隠すのが上手。
そんな君を、彼らのうちの誰かは凶弾でもって呆気なく撃ち殺した。でも、とても君らしい最期。
君って何だか蜂の巣にされても理不尽な死には思えない。
きっと、君の躰は地面にやけに軽い音を立てて倒れた。たちまち夜の闇に包まれて、君の静かな感じの瞳はかろうじてといった趣きで、君の向かいたい方向かどうかも分からない方を向いちゃあいるんだけれど、それが一体何を示しているというのか?
君ってケーキを隠すのが、あれっ上手なんだったっけあれっ君って何だったっけ何がどういいんだどこ育ちの君なんだっけ君って君は君らしいがどこからどうやって来た君なんだっけどちらが君じゃなく君で君は君って要するに君って何番目だったかな。
TAKE 7
「わるいこはだあれ?」
TAKE 8
昨日、君の暮らす建物は全焼した。だけど連中、燃やすのを実行に移しながらも内心相当辛かったと思うよ、ここまでやるのかって、マジでやんのかよって全員ちゃんと思いながらやったんだと思う。
全部君が悪いんだよ。
要因より、原因である君が悪い。
君はとびきりケーキを隠すのが上手だ、誰も君の本当を見つけられない。一度として君のことを知り得た人はこの世界にはいない。
君は何もかもを上手にやりすぎる。
連中があんな手段まで用いたのは、単純に過ぎるけれど、君のうちを燃やすことで、君を炙り出す作戦ってわけだ。
ところが誤算があつて、君は火事を見るとすぐに踵を返し町を出てしまったようなのだ。
ああ、事の成り行きとしちゃ当然。そして君には絶対に絶対に僕らの気持ちなんて分からない。
君には永遠に理解できない。連中がどれだけこのことで怒りと悲しみを抱いているか、君はどうせ想像さえしてないよね、君はまったく正しいよ、正しすぎるんだよね。
だけどやっぱり君が悪いよ、彼らみんな君のことが子供の頃から大好きだった、だから君の部屋に火をつけたのに、君は決めつけた。君は町を出てしまった。誰もそんなメッセージは受け取っていなかった。君はいきなり行動に移した。君は以前から出ていく準備を終えていたんだと知り、僕らは本当にショックだった。
町のバス会社のところに情報を求め僕らがやって来るせいで、その内に頭に血がのぼったのか、大人たちと若者たちで小競り合いを起きてしまう日が続いてた。存在そのものが罪深い君。
君はとても綺麗なのに、誰にも決して与えない。
君はいつも、僕らから甘いケーキを隠すのが上手。
TAKE 9
誰からも望まれていない、望んでいない。
君はケーキを隠すのが上手。
君じしんよく分からない理由で君は君だ。
君はケーキを隠すのが上手。
風を切ってじぶんの家の建っている方向へ進みながら、誰に何をいわれようが、泣きながら、君はケーキを隠すのが上手。
マジでケーキを隠すのが上手。
君はケーキを隠すのが上手な中にケーキを隠すのが上手。
君は生きてる間ずっと、ずっと、ずっとケーキを隠す、暴かれながら、切り裂かれながら、心の他には何もかも売りに出しながら、雨に撃たれながら、ずっと。
TAKE 10
君はケーキを隠すのが上手を上手にできるを上手に隠すのを上手にできる君のなかにケーキを君を君としてケーキとして隠すのを隠すのを上手な君でケーキで上手な君のケーキの君のケーキの君のもので君な君の君の上のケーキの上の上上下上下上「逃げて!」、そうして君のっぽい君のケーキを隠すのが上手に隠す上に君のなかにケーキを上手に隠す君、そうだよね?
TAKE 11
君に出された手紙を総合的にまとめると以下の文になる。
「君の命乞いも、君の約束も、君の金貨も、意味を持たない。君はケーキを隠す。君はケーキをずっと後ろに隠す。君は他人をそうやってわらうのだ。今までずっと、ずっと、ずっとそうやってきた。知っている。許してあげる、だからケーキを皆の前に置くんだ、そうしたら許すから。大丈夫、これで最初で最後。大丈夫、君のケーキからその手を離しさえしたら、これまでの君の行いも見逃すし、命も保証する。分からないんだ、どうしてケーキを隠すのがそんなに上手で、そしてどうして、いつも最後まで隠し通すことを選ぶのか、誰一人理解できない。君は知らない。多くを知らずにいる、例えば君がいることで、町から立ち去り難い青年たちはいまだ大勢いること。ここに住み着いた娘だっているくらいなんだから。君は、君はきっと、じぶん以外誰もいなくなった時に、隠していたケーキを取り出す。君はキスなんかしないでもしあわせなんだ。そうとしか思えない。考えるだけで吐きそうだ、無理だ、だってそうじゃない? 君は秘密ばかりの子供だったし、今もわりにそう。そして何より、誰一人真実を知らない君のケーキ。君とケーキのことばかり僕らは夢にみてしまう。まるで保育所にいた頃の小さなじぶんと変わっていないみたいな気持ちにもなり、しばしベッドの上で現実との落差に呆然としている朝もある。こんなにも君を忘れることができないなんて。こんな今になってしまうだなんて。
君の存在意義は君じしんがよく知っていた。
そして君は誰も愛さなかった。
どれだけ愛されても、けして君は同じものを返さなかった。
女子からも男子からも告白されてた君。
今も君は痩せてて、今もとても姿が良くて、昔から変わることなく君は通行人たちの注目の的だ。
外見だけの話ではなくて、君には力がある。
夜の暗い部分を好む狼たちよりもっと闇の深い場所に、君はケーキを隠しているのか? だとしても、だからこそ際立つ、君は上手な君を隠せない、もっといいやり方が、いいものを隠す人が町に住んでいたら良かったのにと、ときどき僕らは思う。君の部屋からはいい匂いがする。それは本当だ。君のブラウンの瞳、君の黒い短い髪。君はいつも結局、誰よりも綺麗な存在であるということで、根本的にそれは悪いというか、問題なのは君じしんでいたいと明らかに願っていた点にある。
君の生の形はまるで手品だね、そして君の躰は芸術そのもの。観客たちの視線の動きを君は君であることで誘導しているのだ。
廊下ですれ違った時、いつも君から甘い香りが漂った。それで男子も女子も狂う。
全ての責任を君が負わなくちゃならないわけではないんだとしても。
君は綺麗だった。
君は見るたびに綺麗になっていく。
君のケーキを誰も見たことがない。
君が頷くのを誰も見たことがない。
君はひとことも発することはなかった、何もかもを軽蔑していた。
君はケーキを隠すのが上手。
君がケーキ。
君の口笛もとびきり高級な菓子みたいだ。君ほど綺麗な存在に相応しい人間はいないし、一度でもどこかの奴にキスされてしまったら、君は君じゃなくなる。それが一番恐ろしい。僕らはフォークの接近を想像しただけで、許せない、壊れる。
誰ともキスしないで、そのままでいてよ。
君が学生の頃には同級生たちは牽制しあっていて、何事も起こらないまま時だけが過ぎていった。もうそれだけで君の価値が分かる。君の運命が。
君はいつか、骨も残らないありさまで食べられてしまう、めちゃくちゃにされる、と。
君がケーキを隠すのが、上手くなければよかった。正直なところをいえば、そうだ。凡庸な存在であったなら、非道い最後にはならないのに、と。だけどもちろん、君は君だ。
君は見るだろう。君しか見てない世界があるように。
君一人だけで、君が君のためのケーキをつくり出したように。
君の罪を君は見て、そして君が選んだ場所がどういうところなのかを君は見ることになるだろう。君は見て、君は知る。けっして君は消えない。誰も君から奪えない。それでも、君は何かを消され、何かを奪われる。君はケーキを隠すのが上手。君のケーキを一緒に食べたいなんて願ってない、どうしたいのかすら誰もちゃんと考えれていない、誤解しないでくれ、混乱しているだけだなんてそんな単純なもんじゃないんだ。その夢を、君が終わらせてほしい」
TAKE 12
何故君なんだろう。
でも君だけだ。ずっと、いつまでも君一人。
一人残らずいつまでも君からの手紙を待っているわ、いつまでもきっと待つ。
でもこの物語にかんしては結末なんて最初から見えちゃってる、君のやるようなことなどみんなよく知っている。君は消える。実際、何もいわずに消えた君。それだけで、消えない傷をそれぞれに残していった。大小様々の傷、暗い夜には光る傷、これがわたしたち全員を罰するのだろう。
君が町からいなくなった日も、町の景色が色を失ったりはしなかったし、音楽も消えたりはしなかった。そうなる理由がないから。
わたしたち、君をずっと見ていた理由を結局みつけられなかった。
君は今元気にやっているのかしら?
君ってたぶん、ずっと一人で生きていくかもしれない。相互フォローなし、愛想笑いなし、サブスクなし、推しもなし。
かつての君に対して、誰も手を伸ばそうとしなかった、君の瞳は誰も映してなかった。君は、君が図書室で読んでいた本みたいに掴みどころがない人。
君くらい綺麗な人を見たことがなかったの。
「逃げないで!」
一緒に、と声はいいかけてた。まるで非道いことをしているのは君みたいに、その声は悲痛だったという。
その日、君は一糸纏わぬ姿にされていた、大勢が見ている中で君は通学路を駆けていた。振り返る顔を見ないように道だけを見下ろし、そうしながらも自宅まで駆けていった。
わたしたちが、わざわざ見るまでもなく、思い描くことが可能なシーン。君に置いていかれる人。片思いが人を愚かにする。
雑誌を広げても、TVを観てても、君がいない。
たまに映画館で、わたしたちはこれだと思う役柄を見つけてしまうと、実際に演じている役者をスクリーンの外に突き飛ばし、君を召喚して、ストーリーを楽しみ出すことがあった。正直にいって、これが一番この世で楽しい遊びで、あまりにスクリーンに集中しすぎるため、隣に誰が座っているかとかは、頭から完全に消え去っている。まるで若かった頃のように、まだ君が同じ町にいた頃のように、君を追いかけている。君だけを見ていた。他のものなんてどうだっていいと思っていた、あの頃と同じように。
学生の頃じぶんたちが後生大事にしていた潔癖が久し振りに顔を出し、OKテイクのことでわたしたちをひどく悩ます。何しろこの言葉ほど、実人生と関わりがないものもない。
正直にいって、これほど時間の経過があった後でも、わたしたちはじぶんを、学生時分と変わらないかのように感じている時がある。この時ほどぞっとする瞬間はない。我に返り、今隣にいる人に優しく声をかけるまでに、微調整をしなくてはならない。じぶんがどこにいるのか、誰を大切にしなくてはならないのか、入念に思い出す必要があるだなんて。
これではまるで、とわたしたちはその日の夜には決まって考える。まるで、だって、まるで何もかも意味はないと考えているかのようではないか。生きていくことも、どこにだって行けるようになったことも、実は何ら価値を感じていないというのか、心の底では?
君に対して彼らがしたことは確かに間違いだった、盗もうとしたり、燃やしたり。彼らはじぶんたちを正当化していたし、聞いたところじゃ今も変わらずそう。
かつて、君の目は、そんな彼らをずっと軽蔑していた。
付け加えるなら、わたしたちのことも君は軽蔑していた。
ああ、そういうのって、そういうのだけただちに分かってしまう。そんなものなのよね、わたしたちの中には心が傷ついた子もいた。当然だ、わたしたちは若くて、何も間違ったことはしてなかったけれど、正しいことも一つもできなかった。じぶんでもそこに気づいていながら、変えることができないでいるものを、君が真っすぐに見る時、眼差しはナイフに変わる、弱い心は呆気なくずたずたき引き裂かれた。
君みたいに、一人でいる強さもなかった。
君がいなくなった時、大半はほっとした。
あの子と遊んじゃいけません、と昔むかし大人たちはわたしたちにいい続け、しかもこれだけ時間がすぎた今でも変わらないようなのだ。
わたしたちが好意を抱いてはいけない季節として、町の大人たちが決めた存在、それが君だった。
わたしたちは昔ずっと、君を綺麗だと思っていた。誰も君に近づけなかった。
かつて、君はわたしたちのいるのと同じ場所にいた。立ったり座ったりを、皆と同じく繰返しながら、時おりは空を見上げていた。
彼らはそれを君の罪だといった。
わたしたちはそれを自己正当化の常套手段だとみなし、随分悪しざまに罵った覚えがある。
けれども、あの頃より遠くに来た今ではよく分かっている。わたしたち全員が、彼らの気持ちを理解できる立場にあったということを。君が彼らばかりかわたしたちにまで当時軽蔑の眼差しを向けたのも無理はない。
君だけが誰も愛さず、そして恐らく本物の優しさを君だけがその手に握っていた。今なら痛切にそれが感じ取れる、とうにわたしたちが捨て去ってしまったものを君ひとりだけが持ち続けていたのだと。
この世に存在しうる中で一番醜いミルクティーが今、わたしの手の中にある。この家に暮らし始めてから十年近く、ずっと使っているマグカップに入っている、一口分減っただけの、ああ、もうこれ以上は醜くなりようもないな、と思えるほどに醜いミルクティーだ。いうまでもなくすでにこれは冷え切っていた。これは今ここにあるけれど、何のためにあるんだろう? 誰のためにあるの? こういう運命だった? 大人の手に相応しいのってこういうのだけだから?
そして追い打ちとして、他の部屋で眠っている子供や夫の存在が、ただこの時間は睡眠中なだけでありまた必ず全員起きてくるのだという単純なその事実が意識に上って、それだけなのに嫌悪感がわき、わたしは思わず腕をさする。
半日前のことが頭から離れない。わたしは考えていた、公園前の電話ボックスにかけている誰かが諦めなくて、ずっとずっと鳴り続けていた。
それを気にしないで、目的地にまで向う足をそのまま動かしているのが大人で、関心を持つのは子供。
君のいた時の町の正体が何だったのか、今日分かった。
手紙をひらくようには、痛みも喜びも、どうにも知れないようにできているのが世界。
影を踏むためにではなくて、たった一つだけあるこの震え方でいいんだ、と考えれる頭。それしか奏でられないから、本当にそれしか奏でられないと誰かがいい、信じてしまえば、始まりの終わりの始まり。
君に、どこに着ける気でいるのか訊ねられるような勇気をわたしたちは持てなかった。
君はケーキを隠すのが上手だった。
君がケーキだった。
全て、すべてがまがぬけている物語よ。
しるしに似ているというのは常にたんなる思い込み。
それでも外側だけはちゃんと笑っていて、とわたしたちはじぶんに毎日いい聞かせている。
もう誰も、何もわたしを本当の笑顔にはしない。全てがダミーのようにしか見えない世界に来たから。
子供時代は終わりを迎えた。いつまでも終わらないものを、最後にわたしの中に残した。
折々に出てくるケーキの向こうに、君がいる、と想像することを、どうか許してほしい。
思っていたスピードと実際のじぶんのスピードが大きく違うのも、守るべきものたちのせいなんだと思うことで、うまく整えられる。誰にも変えられないこの世界。他人を愛せない人々の痛みを見下ろさない理由を見上げなきゃ。問題集合体に再会しなきゃ。
ゴールテープは、たしかに美味しかった、だけど振り返って、真っ先に探したのは他でもない君のケーキ、いるはずもないのに。
インターネットはわたしたちに代名詞を嗅がせる。けして頭の中を忠実に表したものではない、わたしたちのワードローブ。
風の燃やし方は分からない。どういうふうに燃えるのかしら? 燃やし尽くすまでかかる時間は短い、それか長い? そして、子供時代の燃え滓をこっそりとアイスクリームに混ぜ入れたのなら、それを匙で掬い、愛しい友人たちやパートナーに向かって差し出す大人の夜。
賢明な件名は、「自己矛盾」。
君のケーキが無事であるように、いつまでもわたしたちは祈っている。




