二度と来ない合図
道を歩いていた。僕の体感では自宅マンションを出てから三時間ちかく、しゃにむに歩き続けていたところだった。背後からいきなり声が、でももちろん彼の声だと一瞬で分かる声と呼び方でもって、こちらに足を止めるようにと声をかけられた時、僕は躊躇した。振り向くことをしないでいようか思案している時点で、もう殆ど手遅れではあったけど。
「何どっか行くとこだったん」
「いや」
あんたのところにまで行こうと思ってたんだけど、といいたくて、でも辛うじて、いわないでいるだけの分別が残っていた。どこにかは知らんけど奇跡だって思った。
いわなくても兄は、多分分かっている。不自然な感じで振り向いたら、案の定だった。彼は、僕が何を胸の中に渦巻かせついようとどこ吹く風、という態度。いつもと同じ態度、僕に何が起こっていようとも、気にしない、と肩で口の端で足の動き一つで伝えている。
「会っちゃったじゃん。なんか用」
後ろから歩いてきてゆっくりと僕を追い抜いていく。あっという間に後ろ姿になる。
「具体的に、何かあったってわけではないんだけど」
「具体的に何か、あったってわけではない?」
兄は兄らしく茶化してくる。
率直に頭の中の思いを口に出すだけだとまあそういわれるよな、みたいな感じ。弟に優しく接するお兄ちゃん、なんて存在はアニメの中にしか存在しないと長らく信じ続けてきたため僕はこういう時、逆に頭の切り替えスイッチが入る。臨戦態勢ってやつだろう。兄弟間で争いが絶えなかった者には珍しくもない反応。
それだけにだ、傍目からすれば二人が一緒に歩いているふうでしかないこの状況は、ちょっと辛い。
「帰って寝ろ。時間無駄にすんな」
二人とも、僕が高校生になってから直接会話することが滅多になくなってた二人としての会話だと意識しながら、喋っている。
「ここってどこ。オレって誰? あんた本当に分かってる?」
「おまえが訊くんだね。それをゆったら、見た目完璧お兄ちゃんの俺に対して、おまえ誰って疑問を感じるとこよなこれ」
「あんたはあんただし」
「あそぉ? なら、おまえもおまえだっていえるよね?」
「いや違う」
本当に全然違う。ここにいる僕は僕じゃない。そいつはばらばらになってしまった。
兄は呆れ半分、残りは構成成分が謎の不機嫌で黙り込むモードに入った。
僕は今、兄と道を歩いている。
なぁ、と僕はいった。
「消えないで」
「おう。消さないでよ」
からかいの笑みを含んでる声はそういった。
途端に、足を止めたら二度と歩けなくなるのに、僕はそうしたいと、そう思った。膝に手をついた。
だって僕は僕として何をいうべきか、もう本当に分からなかったからだ。でかい溜息は悲鳴みたいに響く。先を行く背中を確認しようと顔を上げる。
なのに、顔を上げた時にはもう彼は消えている。
「ゆったそばからいなくなってんじゃんかよ…」
ひとりごちて、いっそ僕はじぶんを笑いにすら転じさせている。
一気に力が抜けた。会えた。今ある思いはそれだった。
会ってくれた。
暗くない道を歩いていたつもりだった僕は、目を開くと真夜中のような暗闇の中で一人立っている。
名前も知らない町の、道の上に立っているじぶんを感じる。涙と汗と睡魔の気配。
僕は暫くの間、まだ同じ場に立ち続けてじぶんだけが呼吸する音を聞き続けていた。




