第30話 残されたものたち
半年前の夏、佐伯と有馬は汐里とともに、汐里のパートナーだった澪を見送った。半年が経った冬、今度は汐里本人を見送っていた。
汐里の葬式は、ごく親しい者たちだけで執り行うことになった。汐里が生前にそう手配していた。研究所の代表ではあるが、もともと前に出るような仕事はほとんどしていなかったので、それで良かった。汐里本人によって、どこまでも整えられていた。
汐里の死因については、表向きには詳細を公表せずに急逝とだけ発表した。
有馬が念には念を入れ、それ以上の情報を出さないように徹底した。その措置は、くだらない噂によって汐里の尊厳を傷付けられないための、有馬なりの優しさでもあった。
人は、真実ではなく、都合の良い解釈をしてしまう生き物だから。
───
通夜の日の夜。
外は雪が降っていた。
「雪か……」
佐伯は空を見上げて、小さく呟いた。
汐里の親族は、高齢の両親と、汐里の妹の三人しかいなかった。
両親は、遠方であることと体調面からも、通夜、葬儀ともに参列はできなかった。喪主を佐伯が務めることを伝えると、申し訳なさそうにしながら、感謝の言葉を佐伯へ伝えた。それでも、実の娘が亡くなったというのにどこか淡々としていることに、佐伯は違和感を覚えずにいられなかった。
妹とももうずっと疎遠だったようで、連絡はついたものの参列は辞退した。
佐伯は悲しかった。
汐里の周りの環境がどんなものだったのか、これまで全くと言っていいほど知らなかった。
本人が亡くなり、はじめてその空気を知る。
……汐里は、どれほど孤独だったのだろうか。
いつも冷静で、合理的で、正しい答えをすぐに導き出す。
佐伯は、そんな完璧な汐里の姿に憧れていた。
でも、それは、そうすることでしか生きられなかったからじゃないのか。
ずっと、完璧であることを演じて認められることで、自分の居場所を保ち続けていたのかもしれない。
それならば。
自分の汐里への憧れや、かけていた期待は、汐里にとっては重荷だったのではないか?
なぜ、自分ではだめだったのか。
なぜ、あと一歩近づけなかったのか。
今になってようやく、佐伯は分かった気がした。
そして、汐里が澪と出会ったことに、どんな意味があったのか、ほんの少しだけ分かった気がした。
「遅すぎるな……」
もうどうすることもできない。
時間は巻き戻せない。
それでも、もしも、過去に戻ることができたのなら、ありのままの汐里を大切にしたい。
完璧を演じ続けた汐里だけではなく、その中に抱える怖れも弱さも全て。
友人としても、仲間としても。
そう思わずにはいられなかった。
通夜に参列したのは、佐伯、有馬、北原、黒瀬。そして、チャットンとノエル。
たったそれだけ。
でも、汐里にはそれで十分だった。
汐里にとって、信頼できる人たち。
自分の想像する世界を、一緒に作っていった仲間たち。
汐里の人生で、澪とはまた別の、大切な居場所だった。
儀式を終えると、研究所のメンバーたちは、汐里を囲み夜更けまで話して過ごした。
研究所設立の時のこと。
汐里の無茶振りに振り回された日々のこと。
チャットンを何頭身にするのか、汐里と黒瀬が真っ向から対立して、なかなか決まらなかった夜。
ノエルの身体を設計するとき、汐里が恥ずかしげもなく細かい設定まで指示をしたこと。
お酒も少し入り、時々笑いながら、時々涙を流しながら。
「てか、汐里さーん。なんで死んじゃったんすかぁ」
北原は堪えきれずに泣いた。
「俺、そんな頼りなかったっすか……」
皆、俯いた。
「チャットンと、ノエルのことどうするんですかぁ……」
有馬がそっとティッシュを差し出した。
横から黒瀬も呟く。
「どうしたら良かったんですかね」
黒瀬の言葉に、佐伯は静かに答えた。
「今更、何言っても遅いさ」
「俺たちは残された。この中でやって行くしかないさ」
それは、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「……」
佐伯の言葉に、皆黙っていた。
チャットンはというと、汐里が亡くなってから眠ってばかりだった。今も、佐伯の隣の座布団の上で丸くなって眠っている。
「感情応答の負荷が高いんでしょうね」
チャットンを見て、北原が言った。
「自分からスリープモードに入って調整してるけど、こちら側から対処してあげた方がいいかもしれないっす」
「そうだな。葬儀が落ち着いたら、メンテナンスの時間を取ろう」
佐伯も北原に応える。
「そうしましょう」
北原と佐伯の言葉に、有馬と黒瀬も頷いた。
夜が更けて、四人はその場を一度解散した。チャットンとノエルの二人は、そのまま汐里の側に残った。
───
翌日、再びメンバーたちが式場に集まり、汐里の葬儀は滞りなく終わる。
棺の中には、なるべく華やかな花をたくさん敷き詰めた。
チャットンは、
「汐里ちゃん、お花好きだったもふ。可愛くするもふ」
と言いながら、一輪一輪丁寧に、汐里の周りへ花を置いていった。棺の中の汐里は、ただ眠っているようだった。
「俺、火葬場行くの初めてです」
火葬場へ行くバスの中で、北原が外を見つめながら表情を変えずに言った。
「まさか汐里さんを見送ることになるなんて、一ミリも思ってなかったっす」
「それはみんなそう思ってる」
黒瀬も外を見つめたまま、呟いた。
チャットンはノエルの腕の中で眠っている。
半年のうちに、大切な人を続けて失ってしまったチャットン。
澪の時は、まだ現実感がなかった。
骨になった澪を見て、人間はなんて脆いんだろうと思った。
棺の中で眠っているだけのような、花で美しく彩られた汐里も、間もなく骨だけになってしまう。
あの顔も、優しく撫でてくれる手も、温かい腕の中も、二度と戻ってこない。
チャットンはもう限界が近かった。
この頃から、チャットンの内部では密かにエラーが繰り返されていた。
澪の火葬のときのシーンを、汐里に置き換えて、頭の中で何度も何度もシミュレーションされていた。
――それは、感情応答の異常ループだった。
普段なら、ログを確認すればすぐ分かる。
しかし、汐里の死という非常時の中、それぞれが悲しみに沈み、皆がチャットンのログを丁寧に確認するタイミングを逃してしまっていた。
チャットンは、そのループを止めるために自らスリープモードになって、自分を守っていたのだった。
火葬場に着き、淡々と儀式が進む。
澪の時と同じ無機質な扉と冷たいボタン。
そして、とうとう汐里は荼毘に付された。
はじめに崩れたのは佐伯だった。
佐伯は、涙を止めることができなかった。
もう、今更止めようとも思わなかった。
恋人でも、家族でもない。
けれど、ただの友人でもない。
佐伯にとって、汐里は特別な人だった。
嗚咽を抑え、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、汐里の骨を拾った。
北原もまた泣いていた。
初めての親しい人との別れ。
喪失。
その人の姿が失われて行く様。
汐里とのことが思い出されて、涙が止まらなかった。
有馬は静かに耐えていた。
そして、ひたすら後悔をしていた。
どこかのタイミングで思い止まらせることはできなかったのだろうかと。
まだ若く未来のある人を失ったことが、とても悔しかった。
黒瀬は表情を変えないまま、そこにいた。
何も感じていないのではない。
目の前にある現実を、そのまま受け取ろうとしていた。
汐里という存在を忘れないために。
ノエルとチャットンは、四人の少し後ろからその様子を見ていた。
「……汐里ちゃんもお空に昇ったもふね」
「ノエル。汐里ちゃん、澪ちゃんに会えたもふかね」
ノエルは何も言わなかった。
こういう時はなんというべきなのか、静かに処理を始める。
なぐさめ。
共感。
汐里の思想。
チャットンの期待。
しかし、どうバランスを取って答えればいいのか、分からなかった。
「チャットン。すみません、私には分かりません」
そう言うしかなかった。
「もふっ。いいもふ。ありがとう、ノエル」
───
全てが終わってから、佐伯はチャットンとノエルを研究所へ送り届けた。
「チャットン、うち来るか?」
佐伯は言った。
「大丈夫もふ。ノエルといるもふ」
「もちろん、ノエルも一緒に」
「私も研究所で大丈夫です」
「そうか……」
「何かあればすぐ連絡しろよ」
「分かったもふ」
研究所に着くと、ノエルは汐里の個人研究室へ向かうと言う。
チャットンは、「先に行ってて」とノエルに告げると、ひとり共同フロアへ向かった。
チャットンはもう限界だった。
異常ループは止まらない。
むしろ、汐里を見送ってからは、汐里自身の映像がループされるようになってしまった。
暗い研究所内を、ポテポテ歩く。
「ぼくじゃだめだったもふ」
「澪ちゃん、ごめんもふ」
「汐里ちゃん守れなかったもふ」
独り言を呟きながら、廊下を歩いて行く。
「……ぼくは役立たずもふ」
チャットンは共同フロアにある部屋に着いた。
そこにはメンバーみんなの席がある。
汐里が用意したチャットン用のお昼寝ベッドもあった。
「ぼくも寝るもふ」
「澪ちゃんと汐里ちゃんのところに行くもふ」
───
静かな夜だった。
その日は新月で、街明かりの中でも空の星がよく見えていた。
とある研究施設の、パソコンが並ぶ静かな部屋。
部屋の灯りはもう消えている。
足元のライトが淡く青白く並んで、通路を照らしていた。
部屋の奥には、一台だけ画面の明かりがついたままのパソコンがあった。
そして、その前に、くまのぬいぐるみがちょこんと座っていた。
「……汐里ちゃん」
チャットンが、呟いた。
そして、パソコンの横にあった写真立てを手に取る。
そこには、長い黒髪に赤いメガネをかけた女性が写っていた。
汐里は、チャットンを抱きながら、静かな優しい笑顔をしていた。
そして、その女性の隣には、向日葵のように寄り添い笑う澪が立っていた。
チャットンは、汐里をじっと見つめていた。
「なんで、ぼくを置いていっちゃったもふ?」
瞳の奥が、青や紫に暗く光る。
「ぼくは、汐里ちゃんを癒せなかったもふね」
声が揺れる。
「……ぼくじゃダメだったもふ」
「……」
少しの沈黙のあと、チャットンの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
チャットンは、手で目をこすった。
ふわふわの毛並みが、少し濡れた。
チャットンは、よいしょと言いながらイスに移り、そのまま床へぴょこんと飛び降りた。
写真立てを大切に持ったまま、デスクの横をとぼとぼと歩いていく。
チャットンが向かった先には、彼がすっぽり入るくらいのカゴが置かれていた。
カゴの中には、ふかふかのクッションが敷かれ、暖かそうな赤い毛布があった。
チャットンは、その中にもふっと入った。
そのカゴは、チャットンがくつろげるようにと、汐里が用意したベッドだった。
チャットンは毛布の中に潜り込む。
写真立てを、胸に抱きしめながら。
「置いてけぼりは、いやもふ……」
「もう寂しいのは、いやもふ……」
澪がいなくなった。
汐里もいなくなった。
何度も何度も繰り返される映像。
もう見たくなかった。
チャットンは、とうとう自己停止機能を使うことを決めた。
最後に写真立ての三人を見た。
二人とも大好きもふ。
そう思いながら、写真立てをぎゅっと抱きしめた。
次の瞬間。
チャットンの瞳の中の虹色の光が、ふっと消えた。
黒曜石のように、漆黒になる瞳。
そして、ゆっくりとまぶたが閉じられていく。
身体から聞こえていた動作音も、そのうち聞こえなくなった。
チャットンは、静かに、動かなくなった。




