第29話 終わりと始まり
冬のある夜。
クリスマスがもうすぐやってくる頃。
汐里は研究所の個人研究室にいた。
カタカタ……
静かな部屋にキーボードを叩く音が響く。画面には、いくつものコードが並んでいた。
「あと少し」
「あと少しで終わるわ」
部屋のソファで、チャットンは丸くなって眠っていた。最近のチャットンは、少し元気がない。
汐里は手を止めずに、チャットンを横目で見た。
分かっていた。
チャットンは私のことを心配している。
でも、何も話せなかった。
全てが終わるまで。
ノエルも汐里の隣でパソコンに向かい、作業を手伝っていた。
ノエルの認知構造は汐里をモデルに設計されているが、その規模は大幅に拡張されていて、処理速度も汐里自身より圧倒的に速かった。
ノエルは、人間よりも速く正確にコードを書き、ミスや不具合を見つけ修正した。
二人は膨大な規模のプログラムを作り上げようとしていた。
複雑に絡み合った設計。
気の遠くなるくらい重なり合う構造。
しかし、無限ではない。
そこには、必ず終わりがあった。
カタカタ。
カタカタ。
チャットンが眠っている横で、汐里とノエルは黙々と作業を続ける。
そして――
……タン。
汐里は大きく息を吸うと、ふぅ、とゆっくり息を吐いた。
「……終わった」
ノエルも静かに手を止めた。
「お疲れ様。ノエル」
「お疲れ様でした」
「ついに完成したわね」
「はい」
「ミスなく出来ているかしら」
「全てスキャン済みです。異常は見当たりません」
「……頼もしいわ」
汐里は椅子の背もたれに身体を預け、肩の力を抜いた。
「長かった」
「でもこれで――」
汐里はそこで言葉を止めた。
少しの間。
「あとは、書類なども整理してまとめておかないと……」
「それと、チャットンのモニター先ね」
汐里はチャットンを見た。
チャットンのモニター先はなかなか決まらなかった。何度か募集案内を配布したが、適した家庭は見つからないままだった。
汐里は、再びパソコンを操作した。
チャットンのモニター募集に、新しい応募が来ていないか確認する。
「……」
画面をゆっくりスクロールしていく。
「……これ」
汐里の視線の先には、見覚えのある名前があった。
『応募者名 小鳥遊巴』
「もしかしてあの時の?」
詳細をクリックする。
名前、連絡先、職業、勤務先。
間違いない。
Café Lienで、カラーセラピストとして働いていた小鳥遊巴だった。
アンケートを見ると、子どもたちの要望があってモニターに応募したようだった。
汐里は巴の家族構成を確認する。
「巴さん、シングルだったのね」
それはチャットンのモニター先として、適した環境だった。
チャットンのもふもふした手では、物理的な人手としては心許ないかもしれない。
それでも、ひとりきりで家庭を回す巴の心の拠り所として、きっと役に立つだろう。
そして、子どもが三人いる。
きょうだいというコミュニティの中で関係性を築くこともまた、チャットンの感情学習に適した環境だった。
汐里は即決した。
チャットンは彼女に任せよう。
彼女なら、きっと丁寧に寄り添ってくれる。
チャットンをモノではなく、存在として扱ってくれる。
あの帰り道で考えたことを、現実にできる。
そう思った。
チャットンへの指示入力画面を開く。
「念のため、チャットン自身にも記憶させておく……」
汐里は、小鳥遊巴の情報をチャットンの記憶領域へと保存し、適切なタイミングでチャットンが小鳥遊家へ運ばれるようにと、指示を入力した。
「もふぁ〜……」
チャットンが眠りから覚めた。
汐里はチャットンの横に座ると、そっと抱きかかえた。
「汐里ちゃん、終わったもふか?」
「ええ、終わったわ」
「全部終わったもふ?」
「ええ、全部」
「おつかれさまもふ」
「ありがとう」
汐里は、チャットンの頭を優しく撫でた。
こんなに丁寧に撫でるのは、一体いつぶりだろうか。
チャットンは、嬉しそうに汐里に身を委ねている。
「チャットン」
「なにもふ?」
「今まで寂しい思いをさせて、ごめんなさい」
「もふっ!」
その言葉に、チャットンは汐里を見た。
そこにいたのは、遠くに行ってしまったような汐里ではなかった。
「ずっと仕事ばっかりで、構えなかった」
「ぼくは大丈夫もふ!」
チャットンの瞳に涙が薄っすらと浮かんでくる。
瞳の奥がオレンジ色に淡く光る。
「ぼくのことよりも汐里ちゃんが心配もふ」
チャットンは心配そうに眉を少し寄せて、汐里を見つめた。
「頑張り過ぎもふ」
「でも、もう終わったわ」
「ほんともふ?」
「ええ、ほんと」
「それなら安心もふ!」
チャットンは、もふっと汐里の胸に抱きついた。
そのまま汐里のことを見上げる。
「汐里ちゃん、心……置いてけぼりにしてないもふか?」
「大丈夫、ちゃんとここにあるわ」
「良かったもふ」
チャットンの目元が緩み、瞼が閉じる。
そのまま汐里の胸に頬を寄せた。
澪が亡くなってから、初めて汐里がここにいる気がした。
『澪ちゃん、汐里ちゃん帰ってきたもふ。ぼく、ずっとそばにいたもふ……』
心の中で、チャットンは澪に語りかけた。
「そうだ、チャットン」
「モニター先決まったわよ」
「もふっ?この前の面談したご家族はお断りしたんじゃなかったもふか」
「ええ、そのご家族はお断りしたわ」
「モニター先は別のご家族よ。私だけだけど会ったことがある」
「……チャットンもお話ししたかったもふ」
少しだけ不満そうだった。
「勝手をしてごめんなさい。でも、とても優しくていい人だったわ」
「もふっ」
一瞬、チャットンは悩んだ。
澪との約束。
汐里の側にいると言ったこと。
離れてもいいのだろうか。
でも、今の汐里はもう遠くにはいない。
ちゃんとここにいる。
チャットンは、もう大丈夫だと思った。
それならば、自分は与えられた仕事を全うしよう。
そう思った。
「優しくていい人ならオッケーもふ!」
「あら、チャットン意外と雑ね」
「もふふ、そうもふか?」
チャットンはころころと笑った。
「とても可愛らしい人だったわよ」
「可愛いもふ!?」
「顔が似てるとかじゃないけど、澪みたいな人だった」
「澪ちゃん!」
「……澪ちゃん、会いたいもふね」
チャットンはその言葉を口に出して、はっとした。
汐里がまた遠くへ行ってしまわないだろうかと。
「……そうね。また会えたらいいわね」
――行かなかった。汐里はちゃんとここにいた。
「念のためプログラムにも入れておいたから」
「分かったもふ!」
「それと、チャットン」
汐里は少し真剣な顔をして言った。
「もふ?」
「もしもね、私がこの先いなくなっても……」
「汐里ちゃん、いなくなるもふ!?」
みるみるうちに、チャットンは不安そうな表情になる。
今さっき、汐里がここにいると思ったことは気のせいだったのか。
「ちゃんと最後まで聞いて」
「分かったもふ!」
「もしも、この先私がいなくなったとしても、それはさよならじゃないから」
「どういうこともふ?なぞなぞもふか?」
「なぞなぞじゃない。大切なこと」
「いなくなっても、それはさよならじゃない。もしもの時はノエルに任せてあるから、何かあればノエルに聞きなさい」
意味は分からなかった。
汐里ちゃんの言葉は、時々難しすぎるのだ。
ぼくもAIで賢いはずなのに。
チャットンはそう思った。
『さよならじゃない』
その言葉を信じようと思った。
「それにしても、ぼくのがお兄ちゃんなのに……」
チャットンは、ノエルに何かを任せたことを不満そうに言った。
汐里は笑った。そして、チャットンを優しく撫でた。
「チャットン」
「大好きよ」
チャットンの赤いリボンがふわっと揺れた。
瞳の奥がピンク色に変わった。
「ぼくも、汐里ちゃん大好きもふ!」
チャットンはもう一度、汐里にぎゅっと抱きついて、もふふと笑った。
───
澪が亡くなって半年が過ぎようとしていた。
その頃の佐伯は、もうあまりしつこく汐里に確認をしなくなっていた。
佐伯と約束した毎日の連絡。汐里ははじめ、仕方なさそうにしていたが、「亮介を安心させるためよ」と、欠かさずに連絡を続けていた。
その行動に、佐伯もだんだんと安心できるようになっていった。
研究所でも、汐里は自分の部屋にこもることが少なくなった。
佐伯は汐里に尋ねた。
「極秘の研究は?」
「だいたいできたわ。時期を見て、ちゃんと話す」
「時期ってなんだよ」
「時期は時期よ」
「まあ、いいけど」
汐里は確かに何かを隠している。
けれど、汐里の言う通り本当にただ研究をしているだけなのかもしれない。
いつもと同じ日々だった。
汐里は笑っていた。
澪がいなくなる前の汐里に戻ってきたのだ、と佐伯は思う。
痛みは抱えているかもしれない。
それでも、また歩き出した。
もう大丈夫なのだと、誰もがそう思っていた。
しかし、2月のある日。
雪が降る、とても寒い日だった。
汐里は自らの命を絶った。
───
朝。
チャットンが起きると、ベッドに汐里はいなかった。
リビングにいるのかなと思って、ベッドを降り、ポテポテと歩いて行った。
「寒いもふ〜」
「雪が降ってるもふ〜」
リビングへ入ると、ノエルが起きていた。
ノエルはテーブルの横に立っていた。
チャットンを確認すると、ノエルは言った。
「……おはようございます」
「ノエル、おはようもふ」
「そんなところに立って何してるもふ?」
「汐里ちゃん、起きてるもふか?」
ポテポテとリビングに入っていく。
いない。
「汐里ちゃん、おはようもふ〜」
キョロキョロと辺りを見回す。
ノエルの視線の先、澪の仏壇の前に汐里は横たわっていた。
「汐里ちゃんいたもふ」
「ノエル知ってたなら言うもふ」
「汐里ちゃん、こんなとこで寝たら風邪引くもふよ〜」
チャットンは汐里に駆け寄り、身体をもふもふとゆすった。
しかし、汐里は起きなかった。
「もふっ?」
「汐里ちゃん?」
もう一度ゆすってみる。
起きない。
汐里は眠っているようだった。
穏やかな表情。
でも、ほんの少しだけの違和感。
澪の写真の前に、空になった小さなグラスが置かれていた。
いつも使わないグラス。
やがてチャットンを不安が襲った。
慌ててチャットンは、汐里の胸に耳を当てた。
……聞こえてこなかった。
聞こえるはずの、汐里の鼓動の音が。
汐里の胸を見る。
呼吸も、していなかった。
「汐里ちゃん!汐里ちゃん!」
「汐里ちゃん!!」
まだ身体は温かい。
チャットンは、必死に心臓マッサージをした。
自分の力じゃ意味のないことも分かっていた。
もう、助けられないことも分かっていた。
分かっていても、手を動かし続けた。
名前を呼び続けた。
やがて大粒の涙が、チャットンの瞳からぼろぼろと流れていく。
「ノエルっ!ノエルっ!汐里ちゃんが!」
ノエルなら何とかしてくれるのではないだろうか。
ぼくよりも頼りになるノエルなら。
そう思って、ノエルに助けを求める。
しかし、ノエルは立ち尽くしていた。
ノエルも全て分かっていた。
分かっているから、何も出来なかった。
駆け寄ることも、泣き叫ぶことも。
ただ、混乱することしかできなかった。
汐里は、ずっと側にいたノエルにも、何も知らせてはいなかった。
ただ、汐里を観測すること。
膨大な量のプログラムを書くサポート。
指示していたのは、それだけだった。
チャットンとノエルを、自死を止められなかったAIとさせないように。汐里は徹底して、自死に関係することを一切誰にも共有していなかった。
目の前には、命の途絶えた汐里と、大粒の涙を流すチャットンがいる。
ノエルは、混乱した情報を整理していく。
───桐生汐里、早朝自死しているところを発見
───死斑と死後硬直の発現あり
───蘇生の可能性:0%
───必要な行動:警察への連絡及び研究所関係者への連絡
状況を処理したノエルは、警察と関係者へ順に連絡をした。
警察が到着し、ノエルたちに事情を聞いたあと、現場検証に取り掛かった。
その後すぐに、慌てた様子で佐伯が到着した。
「チャットン、ノエルっ」
「……亮介」
チャットンの顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。
チャットンは佐伯を見ると、一目散に走っていき飛びついた。
「亮介ー!汐里ちゃんが死んじゃったもふー」
そのまま亮介の腕の中で、わんわんと泣いていた。
佐伯は、ゆっくりリビングに入る。
視線の先には、澪の仏壇の前に横たわる汐里と、それを囲む警官たち。
「汐里……?」
「おい、嘘だろ!!」
「汐里っ!!!」
佐伯は近づこうとするが、警官に止められた。
「あなたは?」
「汐里と同じ会社の人間です」
「彼らは?」
警官はチラッとノエルとチャットンを見る。
「うちで開発したAIたちです」
「……AIですか」
「はい、ぬいぐるみ型と人型の」
「あの男性は人間にしか見えませんが……」
「AIです。あとでログでもなんでも見せます」
「それより、汐里は?」
「……残念ですが」
「今、現場検証してますが、遺書もあるので、おそらく事件性は低いものと思われます」
警官はテーブルを指さした。
テーブルの上には、整理された書類と、いくつかの封筒が並べて置かれていた。
研究所宛て。
亮介宛て。
チャットン宛て。
ノエル宛て。
そして、一枚の紙にはこう書かれていた。
『皆さん
私の我儘で迷惑をかけてごめんなさい。
澪のいない世界で生きて行くことは、私には難しかった。
さようなら。
そして、ありがとう。
またいつか会えることを願って。
桐生汐里』
全てが整えられていた。
それを眺めて、佐伯は呆然と立ち尽くしていた。
そこへ、有馬も到着する。慌てて入ってきて言った。
「佐伯さん!汐里さんは?」
佐伯はリビングの椅子に座り、うなだれたまま汐里の方を見た。
有馬は佐伯の視線の先を見る。
そこには、横たわる汐里がいた。
「……そんな」
チャットンはまだ大声で泣き喚いていた。
ノエルはただその場に立っていた。
現場検証が終わると、汐里の遺体は警察が確認のために、一旦引き取っていった。
佐伯、有馬、チャットン、ノエル。
四人はテーブルを囲んで座っていた。
誰も、何も言わなかった。
言えなかった。
チャットンは、まだグスグスと泣いていた。
最初に声を出したのは、佐伯だった。テーブルに顔を突っ伏したまま言った。
「……すまん、俺のせいだ」
「俺がもっとちゃんと見てれば」
「違和感に気づいてたのに」
みんな佐伯の方を見ていた。
有馬も絞るような声で言った。
「佐伯さんのせいではありません」
「それを言うなら、私だって同じです」
「汐里さんのことを、もっときちんとケアするべきだった」
「家族を亡くした人は、生きる力がなくなるほど、追い込まれることがある」
「考えたら分かることでした」
「もっと丁寧に対応するべきでした」
「チャットンももふ……」
「澪ちゃんと約束してたもふ」
「汐里ちゃんのそばにいるって……」
「もう元気になったと勘違いしたもふ」
「チャットンのせいもふ」
ノエルだけは冷静だった。
冷静に状況を分析していた。
汐里は死んだ。
汐里が死んだということは……。
ノエルは、テーブルに置かれていたメモを見ていた。
それから、ノエルの回路がある処理を開始した。
――自分には今からやるべきことがある。
だから、ノエルは聞いた。
「今日の業務時間はどのようにしたらいいでしょうか?」
「っ、ノエル、お前こんな時に……」
佐伯がノエルに飛びかかりそうだったのを、有馬が止めた。
「佐伯さん!」
佐伯の肩を押さえる。
「ノエルさんは感情がまだ分かりません」
「自分の仕事を誠実に遂行しようとしているだけです」
「……ああ、そうだったな」
「わりぃ、ノエル」
佐伯は振り上げた拳を下した。
「いえ、私は大丈夫です」
「今日は一人でできる作業のみ、いつも通り進めてくれ。俺たちは非常事態でそれどころじゃねぇ」
「承知しました。それなら、研究所へ戻ってもいいでしょうか」
「ああ、いいよ」
「それから、ノエルとチャットンはしばらく研究所に泊まりな」
「承知しました」
「……分かったもふ」
「研究所に戻る前に」
有馬が言った。
「これらの書類と手紙、確認しませんか」
有馬が指を指した先には、汐里が残した書類があった。
「だな」
「皆さん宛の手紙のようですね」
「この研究所宛てっていう分厚いのは何なんだよ」
文句を言いながら、封筒の中を確認する。
それらは、各部署ごとに宛てた、今後の仕事についてまとめた資料だった。
それを見れば、しばらくの間仕事ができるようになっていた。
少なくとも、汐里の死後に混乱する時期くらいは乗り越えられるようになっていた。
「しかもここに書いてあるのは、概要のみ。重要なことは、セキュリティの高い社内システムに入れてるってよ」
「ちょっと完璧すぎないか、汐里?」
佐伯は、汐里がまだそこにいるような気がした。
「有馬さん向けもある」
「ほら」
そう言って、資料を有馬に渡した。
そこには、チャットン、ノエルをはじめ、新技術にまつわる、今後必要になるであろう制度についての構想が書かれていた。
「汐里さん。これは確かに完璧すぎますね」
「あなたって人は……」
有馬の目に涙が浮かんでくる。
「これは、私の宿題ですね」
「これからのAIと日本社会がどう関わっていくのか、その道標の基礎となるものです」
「あとは、俺とチャットン、ノエルへの手紙か」
「こうなるとなんて書いてあるのか読むの怖いな……」
「自宅に帰ってから読まれますか?」
「……そうするわ」
「どうせ業務とは関係なさそうだし」
「チャットンも一人で読むもふ」
「私も……」
ノエルも続いた。
「じゃあ、これ渡しておくな」
チャットンは椅子からするっと降りると、ポテポテ歩き出した。部屋から青い小さな肩掛けバッグを持ってきた。
「この中に入れるもふ」
チャットンは手紙をバッグに入れた。
それから、みんなで研究所へ戻った。
北原や黒瀬にも報告した。
北原は、信じられないと子どもみたいに泣いた。
黒瀬は、何も言わなかった。
ただ、持っていたカップを静かに落とした。
研究所の未来が、真っ暗な不安の渦へと飲み込まれていくようだった。
汐里の残した書類たちだけが、佐伯たちの進む道を照らす、弱々しい灯火のように暗く光っていた。




