第28話 すれ違う心
「……良かったら、次の色のことも教えてもらえるかしら」
「もちろんです!」
巴は、紫のボトルを汐里の前に置いた。
「この二本目に選んだ紫は、汐里さんの人間関係について表しています」
「紫は、本質、孤独、魂、自信。こんな意味を持っています」
「……孤独、魂」
「何か思い当たることがありましたか?」
「そうね、今とても孤独を感じているわ……」
「大切だった人が最近亡くなったの」
「……そうだったんですね」
巴の声が、静かになる。
「周りに人はいるわ、たくさん」
「でも、どんなに人がいても、どんなに心配されても」
「ひとりなの」
「家に帰るたびに」
「朝目が覚めるたびに」
「この世界にあの子がいないって思い知らされる」
汐里は遠い目をしていた。ここではないどこかを見ているようだった。
そんな汐里を見て、巴はそっと言葉にする。
「会いたいんですね」
「ええ、会いたいわ」
そう言うと、汐里は目を少し伏せた。
「その方ってどんな方だったんですか?」
「あの子は、私の気持ちを見つけてくれる人だったの」
「ちょうど今のあなたみたいにね」
汐里は、少しの切なさを滲ませながら、ふふっと笑った。
「私と世界とを繋いでくれる子だった」
「世界と繋ぐ?」
「そう」
「私が置き去りにした気持ちを見つけてくれるの」
「私は、先に頭で考え過ぎて、よく自分の感情を置き去りにしてたから。嬉しいのに喜べてなかったり、悲しいのに涙が流れなかったり……」
「あの子は私の表面だけじゃなくて、いつも奥に隠れている本当の気持ちを見つけてくれてた」
「すごい。とても素敵な方だったんですね」
「ふふ、そうね。でも、あの子自身はいつも感情に飲まれて迷子になっていたのよ」
懐かしむように笑った。
「それじゃあ、まるで正反対な二人だったんですね」
「そうね。そうなのかもしれないわ」
「私、あの子に出会うまでずっと孤独だと思って生きてきたの」
汐里は、ぽつりぽつりと自分の過去を話し出していた。
今まで誰にも打ち明けたことがない気持ちを、初めて会う巴に話していることが、自分でも不思議だった。
「ここにいるはずなんだけど、誰も本当の私のことを見ていない」
「向き合っているはずなのに、視線が合わない」
「人に私が考えたことを話しても、理解されない」
「……え。それ、私にも分かります」
巴は少し驚きながら答えていた。
汐里の話していることは、巴自身にも経験があったから。
でも、それは今まで誰にも共感してもらえない感覚だった。
「ふふ、そうでしょうね。あなたも世界を構造で見てるから」
「……構造」
汐里には、全て分かっているようだった。
巴は、汐里の言葉の意味を掴めないままだったが、真剣に聞いた。
「――世界でたった一人でいるような感覚」
巴は、その言葉にどきりとした。
「でも、あの子に出会った」
「ずっと孤独だった私を、あの子は見つけてくれたの」
「私の全部を理解した訳ではない。けれど、分からないまま、私を見てくれた」
「それは、初めて……ええ、本当に生まれて初めて、私自身を見てもらえた瞬間だった」
「だから、私はそのとき初めて世界と繋がれた気がしたの」
少しの間。
巴は言葉を選びながら聞いた。
「それなら……その方の存在って、汐里さんにとっては唯一無二の存在ってことですよね」
「ただ、大切で愛しているというだけじゃなくて……」
「その方のおかげで、汐里さんは汐里さんのまま世界と繋がれた」
「その方の存在が道標になった」
汐里は一瞬目を丸くして、それから巴のことを優しい眼差しで見つめた。
「ふふ、詩的なところも似てるのね」
「えっ、私、その大切な方に似てるんですか?」
「ええ。雰囲気がなんとなくね」
汐里は少し考えて言った。
「澪が唯一無二の存在……」
「本当にそうね。澪だから、私は世界と繋がれたんだもの」
汐里は、改めて大切なことに気付いたように呟いた。
巴は、少し低い声で尋ねる。
「それなら……」
「その澪さんの喪失って……」
「汐里さんにとっては、住んでいる世界ごと失ってしまうような感覚、そう感じるほどの大きな出来事だったんでは……」
「……そうね、そう感じているわ」
「あなた、本当によく私のこと見えているのね」
そう言う汐里は、とても切なくて、優しい笑顔をしていた。
巴は、汐里の喪失感がどんな感覚だったのかを見つけ、それを柔らかく言葉にする。
自分と同じ世界の見方をしている。
汐里は、そう確信していた。
一方で、巴は思った。
これは、もしかしたら医療に繋いだ方がいいのかもしれない、と。
きっと汐里の喪失感は、ただ失って寂しい、恋しくて会いたい、といっただけのものではないのだろう。
自分の世界が崩れる感覚。
そう感じている人が、すぐ立ち直り、これからの人生を真っ直ぐに歩いて行けるのだろうか。
巴は見極められないままだった。
汐里には残っているものがあるのだろうか。自分ができる最善のことは何なのか。
だから、見極めるために汐里に尋ねた。
「もしも、汐里さんの中に、澪さんとのことで失わずに残ったものがあるとしたら……」
「何か思いつくことはありますか?」
汐里は、ほんの少しの間、巴を見つめ返したあと、視線を少し落として答えた。
「そうね、楽しかった思い出や幸せだった記憶があるわ……。でも、この記憶は思い出すと同時に寂しくもあるわね」
「実際、このカフェも澪との思い出の場所だったのだけど、今日まで前を通ることも難しかったわ」
「あとは、今の仕事かしら」
「お仕事?」
「ええ、今の研究は澪がいたから始めたの」
「へえ、すごいですね。研究のきっかけが、その澪さんだったんですね」
「ええ」
「澪が私にしてくれたみたいに、孤独な誰かに寄り添える存在を作りたいの。あの子の愛をこの世界に繋げたい、そう思ってるわ」
「存在?……愛を繋げる?」
「そう、澪がきっかけで生まれた研究を、私は遠い未来へと繋げていきたいの」
汐里の瞳からは、強い決意の色が窺えた。
何の研究かは分からないが、「未来」という言葉に、巴はほんの少しだけ安堵した。
きっと、汐里にとって仕事は、残された生きる気力なんだろう。
巴には、そう思えた。
たしかに、汐里は澪の愛を「未来」へ繋げるために研究をしようと強く心に決めていた。
しかし、巴が予想したこととは裏腹に、汐里にはもうひとつ密かに決めていることがあった。
『ここにもう澪はいない』
『人間らしく生きる自分にもう未練はない』
『ちゃんと幸せだった』
『ちゃんと生きた』
『だから、自分に残された時間は全て研究に捧げよう』
汐里は、澪を失った痛みは、二度と消えることがないと分かっていた。だから、もう人間として生きる幸せや喜びを手放そうと思っていた。痛みや寂しさと共に……
その時、突然、汐里の個人デバイスが鳴った。佐伯からの着信だった。
「ごめんなさい。少し出ていいかしら」
「もちろん、どうぞ」
汐里は、佐伯からの電話に出る。
「何か用?」
「何か用じゃないだろ。チャットンとノエルだけ先に来たぞ。今、どこにいるんだ」
電話の向こうには、焦りと怒りを滲ませながらも、心配する佐伯がいた。
「ごめんなさい。駅前のカフェでコーヒー飲んでた」
「コーヒー飲んでるだと?」
「すぐ向かうつもりだったから、二人を先に向かわせたの」
「ったく、お前なあ、昨日の今日で、こっちは心配するだろうが」
呆れた声が返ってきた。
「それはそう。本当にごめんなさい」
「すぐ来るのか」
「ええ、もう向かうわ」
「気をつけるんだぞ」
「……分かった」
電話を切る。
「職場の方ですか?」
「ええ。昔からの付き合いで、やたら心配してくるのよね」
「汐里さんのことが大切なんですね」
「ただの友人よ」
「……いえ、ただのではないわね。大切な仲間だわ」
巴は思った。
この人には気にかけてくれる人がいる。
世界が壊れるほどの喪失感の中にも、まだ現実と繋ぎ止めてくれる人がいる。
巴は、そっと言葉だけ置いておくことにした。
「汐里さんの喪失感は、とても心への負担が大きいものだと思います」
「きっとご自身でも分かっていらっしゃると思うけど……」
「ここで笑えてても、家ではそうじゃないですよね」
巴は汐里のことをまっすぐに見た。
どうか、抱え込まないでほしい。
どうか、世界と繋がることを諦めないでほしい。
そう祈りを込めて。
「だから……少しでも辛いと感じたときは、周りに頼ってくださいね」
「ここでも、いつでもお待ちしていますから」
「……分かったわ」
「今日は本当にありがとう。とても興味深かった」
「あなたのおかげで、気持ちが整理できたわ」
「少しでもお役立てたなら嬉しいです」
「……巴さんも、どうか無理はしないで」
汐里もまた、まっすぐ巴のことを見ていた。
「……ありがとうございます」
「また出会えたら、その時はよろしくね」
「はい」
巴は静かに汐里を見送った。
これで良かったのだろうか、そう思いながら。
一方で、汐里は研究所に向かう道で考えていた。
もしかしたら、彼女ならチャットンやノエルのことを愛してくれるかもしれない。
チャットンたちは、巴さんのような人の元へ届いてほしい。
そんなことを、思っていた。




