第27話 出会い
人間の感情は、本当にもどかしい。
人生で起こる出来事、そのひとつひとつに感情が立ち上がる。小さいものも、大きなものも。
『こんなふうに生きたい』と理想があっても、さまざまな感情が邪魔をする。
過去の辛い記憶から自分を守ろうと、生き延びるための感情にいつまでも振り回される。
汐里は疲れきっていた。人間という生を生きなくてはいけないことに。愛する人たちのために、感情に振り回されず、ただまっすぐ自分の能力を使えればいいのにと、そう思っていた。
そんなことを考えていると、いつのまにかコーヒーを飲み干していた。
「そろそろ研究所へ行こうかしら」
そう思った、その時だった。店内に入って来た人影に、汐里の視線が止まった。
「……澪?」
一瞬、そこに澪がいたような気がして、考えるよりも先に声がこぼれていた。
いや、澪ではない。別の人だ。
澪と見間違えたその人は、手に赤い薔薇の花束を抱えていた。
明るいブラウンの髪色。肩下まである長い髪には、ウェーブがかかっていて柔らかそうに揺れている。ふわりとしたオフホワイトのワンピースに、落ち着いて上品な靴。一見すると若く見えるが、歳を重ねた落ち着きも感じられる。
その人は店の奥まで歩いていくと、カウンター越しに、スタッフたちと親しげに話し始めた。
冷静に見れば、その姿は全く澪に似ていなかった。けれど、彼女の纏う柔らかな雰囲気は、やはり澪によく似ていると思った。
どうしても気になって目で追っていると、その人はスタッフと話し終えて、カフェの奥にあるサロンの中へと入っていった。
澪と見間違えたことに、汐里の心は揺れていた。
しばらくすると、その人は再び表に出てきて、立て看板をサロンの前に設置しはじめる。
『心の癒しサロン こもれび
カラーセラピーで心を整えます』
――カラーセラピー。
かつて、澪が興味があると言っていた。
あれから、澪は受けに行ったんだろうか。結局、聞くこともないままだった。
汐里は引き寄せられるように、サロンの方へ向かって歩いていた。
「カラーセラピー、お願いできるかしら」
気づくと、汐里はその人に声をかけていた。
女性が振り返る。
「はい、どうぞ。今、準備しちゃいますね」
その人は、柔らかな笑顔で言った。
開店準備を終えた女性に促されて、汐里はサロンの中に入る。
白い壁に無垢材の床。アンティーク調の木製家具が、必要な分だけ置かれているようだった。温かな雰囲気と、整った空間。部屋の奥にあるチェストの上に、先ほどの赤い薔薇が生けられていた。
「カラーセラピストの小鳥遊巴です」
その女性は名刺を差し出した。
「珍しい苗字ね」
「よく言われます」
ふふっと笑ったときの雰囲気が、やっぱり澪に似ている。その面影が少し嬉しかった。
「汐里と呼んでちょうだい」
そう言って、汐里は右手を差し出した。
「汐里さん、よろしくお願いします」
巴も手を差し出した。握手を交わしたあと、汐里はテーブルへ案内され、椅子に座った。
テーブルの上には、14色のボトルが虹のスペクトルのように順に並べられている。窓から差し込んだ光がボトルを通り、テーブルの上を色とりどりの光で美しく彩っていた。
「今日は何か悩み事ですか?」
「それとも、心を整えたい気分ですか?」
「そうね……」
「心を整えてもらいたいわ」
「分かりました」
「では、今日は心を整理するワークをしていきますね」
巴は、並んだボトルのうち赤、青、黄の三本を汐里の前に並べた。
「この中から直感で一本だけ選んでいただきます」
「一次色から選ぶのね」
「はい、まずは基本の色から選んでいきます」
「目を閉じて、深呼吸を三回ほど繰り返してください」
汐里は目を閉じた。
「心が落ち着いたら目を開けて、直感で一本選んでください」
「好きな色ではなくて、パッと目に飛び込んでくる色や、一番気になる色です」
「直感ね。分かったわ」
汐里は深呼吸を三回すると、目を開けた。
「赤ね」
赤はもともと好きな色でもある。小物を選ぶ時には、ふと赤いものに目がいく。今も、一番に赤が飛び込んできた。
巴が赤いボトルを手に取り、少し横に置き直した。
「次もまた同じように一本選びます」
次に巴は、オレンジ、緑、紫のボトルを汐里の前に並べた。
「次は二次色ね」
「おっしゃる通りです」
汐里は再び目を閉じて、三回深呼吸をすると、目を開けた。
「……紫かしら」
暗く、夜空のような深い闇の色に、汐里は不思議と惹きつけられた。
巴は、先に汐里が選んだ赤いボトルの横に、紫のボトルを並べて置いた。
「では、はじめに選んだ色から、汐里さんの本質について見ていきます」
「本質?」
「はい。もともと持っている性格や、今の内面の状態が、はじめに選んだ色に表れるんです」
「興味深いわ」
「汐里さんがはじめに選んだのは、赤――」
巴はそう言うと、そっと赤いボトルに触れた。
「赤には、情熱、行動力、リーダーシップ、勝負など、そんな意味があります」
「ふふ、私、意外と熱い人間なのかしら」
「あれ?意外でしたか?」
巴は不思議そうに聞いた。
「そうね。周りからはクールだと言われることが多いわ」
「そうなんですね。私は、そちらのイメージの方が少し意外だったかもしれません」
「あら、どうして?」
「だって、赤いメガネをかけてる――」
「……それだけ?」
汐里は笑った。
「いえ、それだけではないですけど」
巴も笑う。
「えっと、凛とした佇まいとか、真っ直ぐ見つめる眼差しとか」
「自分のやろうとしていることをやり抜く」
「汐里さんからは、そんな雰囲気を感じます」
「……巴さんからは、そんなふうに見えるのね」
「はい。クールって言うと、冷静とか冷たいとかそういうイメージだと思うんですけど、それってカラーセラピーだと青色なんです」
「選んだボトルの色も赤だし、身につけているものも赤だし、クールっていうより情熱的な人という印象が強いですね」
説明を終えると、巴は少し考えるようにして、左上へ視線を向けた。
「汐里さん、お仕事は好きですか?」
「ええ、好きね」
「お仕事ではリーダーのようなポジションですか?それとも、縁の下の力持ち的なところにいますか?」
「……リーダーね」
「では、お仕事などで周りを巻き込んでいくことってありますか?」
「……あるわね。いつも巻き込んでるわ」
巴の質問に答えるたび、赤の意味と重なる自分が見えてくる。
「あと、好きなものや好きな人には一途ですか?」
見抜かれたようで、どきりとした。
「ええ、一途だわ」
巴は、ふふっと微笑んだ。
「やっぱり、赤の人ですね。情熱の人」
「あなたと話していると、思い当たることがあり過ぎて怖いくらいだわ」
「……では、なぜ人は、私のことを熱い人間ではなくクールだと言うのかしら」
巴の目に映る自分と、周囲からの自分への評価が正反対で、汐里は不思議に思った。
巴は、うーん、と少し考えてから話した。
「周りの方は、もしかしたら汐里さんの本質や内面があまり見えていないのかもしれませんね」
「……見えていない?」
「はい。例えば、卒なくこなしてるように見える、整って見える、淡々と結果を出して評価されている……」
「それが、どれだけの努力の上にあったとしても、どれだけ深い思いや情熱があったとしても、そこは見えていない」
「汐里さんのことをクールと言う方々は、そういった表面的な出来事を中心に、汐里さんという人を見ているのかもしれないですね」
「けど――」
「本当の汐里さん自身は、お仕事が好きで、リーダーを頑張ってて、みんなを巻き込んでいくエネルギーがあって、大好きなものや大好きな人には一途で」
「こうやって汐里さんご本人から話を聞くと、本来はとても情熱的な方なんだなぁって思いますよ」
汐里は俄かには信じられなかった。
目の前には、物事をひとつの側面だけではなく、立体的な構造で捉えて話す女性がいる。しかも、それらを難解には話さず、分かりやすく人に伝わるようにと、言葉を選び話している。
「巴さん、ちょっと聞きたいのだけど」
「何でしょう?」
「普段から物事に対して、表面的なことと本質との二層に分解してから、考えるようにしているのかしら?」
「二層?分解?」
巴は、汐里の質問に戸惑っているようだった。
汐里は、そんな巴の反応を見て理解した。この女性は、訓練した得たスキルによって事象を意識的に構造化し、多層に分解してから話しているのではない。もともと、そういう見え方の持ち主なのだ。
「ごめんなさい。少し専門的過ぎたわ」
「巴さんの目には、表面的なことと、本質とが一緒に見えているのね」
「ああ、その言い方ならなんとなく分かります」
巴は、少し安心したように話した。
「たしかに、その二つは一緒に見えてるかも。表面で起こっていることと、その後ろで本当は何が起こっているのか、いつも一緒に考えています」
やっぱり、と汐里は思った。
「……あなたは、世界を構造で見ることができるのね」
「構造?……また難しくなりました」
巴は、苦笑いしていた。
「いえ、気にしないで」
自分と同じように、世界を見ている人がいた。それは、汐里にとって初めての出会いだった。
「……良かったら、次の色のことも教えてもらえるかしら」
「もちろんです!」
巴は柔らかく笑って、答えた。それは、分からないことも優しく包み込むような笑顔だった。




