第26話 私を繋ぎ止めるもの
汐里は、研究所の仕事を完璧にこなしていく。
通常の業務をこなしながら、それ以外の時間は個人研究室に閉じこもることが多くなった。チャットンのモニター先の選定、ノエルの業務範囲の見直し、研究所内の権限整理、データの引き継ぎ。そして、新しい研究にも没頭していった。
あまりにも整い過ぎている。
汐里の行動が、佐伯には不気味に思えた。
まるで、自分の周りにあるものを静かに整理しているように見えた。
「汐里、ちょっといいか」
「何?」
佐伯は、汐里を休憩室に呼び出した。二人分のコーヒーを淹れ、一つを汐里に差し出す。
「ありがと」
二人はソファに座り、コーヒーを一口飲んだ。
「で、何かしら」
「最近、お前、研究室にこもって何やってるんだ?」
佐伯は、単刀直入に聞いた。
「……研究よ」
「何の?」
「今は言えない。完成したら話すわ」
「言えない研究ってなんだよ」
「新しい技術を考えてるの。まだ、ちゃんと形になってない。だから言えない」
「……らしくない」
その言葉に汐里は黙り込んだ。佐伯は学生時代からの付き合いだ。自分の行動が普段と違えば、違和感を持たれても仕方なかった。
「お前、なんか変なこと考えてないよな」
佐伯は、汐里をまっすぐに見つめながら低い声で言った。汐里の持っていたカップが、彼女の口元で止まる。
「変なことって何よ」
「それは……」
佐伯は言葉に詰まった。本当は答えたくはなかった。
想像することも怖かったし、言葉にしてしまえば、急に現実味を帯びてしまいそうだったから。
しかし、佐伯は不安の種を隠さずに、言った。
「……身辺整理に見えるんだよ」
「お前、まさか澪ちゃんのところに行こうとしてないよな」
汐里は、しばらく黙っていた。
……
静けさの中、佐伯は自分の鼓動の音が汐里にまで聞こえてしまうのではないかと思った。
しばらくして、汐里は目を伏せがちにしながら言った。
「私は、澪の後を追うために動いている訳じゃないわ」
「私は、私の研究を続けるために、ただ整理をしているだけよ」
佐伯は身体ごと汐里の方へ向き直り、彼女の目をまっすぐと見つめる。真剣な眼差しだった。
「俺は……お前に生きてて欲しいんだよ」
焦りのある声。
「お前の見てる世界を、これからもずっと一緒に見てたいんだよ」
それは、佐伯の心からの願いだった。
桐生汐里という憧れの存在を、大学生の頃からずっと追いかけてきた。研究者として、仲間として、汐里の隣にいることが佐伯の幸せだった。
「……亮介」
「私はいなくならないわ」
「これからも、あなたとずっと研究を続けていくつもりよ」
佐伯は、その言葉を信用しきれなかった。汐里はまだ何かを隠している。
「そんなに心配なら……」
「あなたが安心できる条件を出してちょうだい」
「……条件?」
佐伯は、目を丸くする。
「ええ、あなたが一旦納得するための条件」
佐伯は、汐里が何を言い出すのかと思った。
条件を出したところで、安心できる訳ないじゃないか。恋人でもない、家族でもない、ただの友人、ただの仕事仲間。佐伯は、今ほど汐里との関係をもどかしく思ったことはなかった。
「毎日連絡しろ」
「ええ、分かったわ」
「約束だ。破ったら、遠慮しないからな」
「分かった。毎日連絡するわ」
佐伯は納得した訳ではなかった。自分の行動が正解だとも思っていない。この約束だけで心配が消える訳ではない。それでも今は、ほかに汐里を繋ぎ止める方法を思いつかなかった。
汐里はその日、自宅に帰ると、言われた通り亮介へ連絡をした。すると、すぐに返信が来る。
『おつかれ。寝る前にも連絡待ってる』
汐里は、ふっと笑った。でも、これではまるで自分のことを監視している彼氏のようだ。自分が提案したとはいえ、こんなことは早くやめさせないと。
……陽子さんにも申し訳ない。
「早く研究を完成させよう」
小さく呟いた。
リビングでは、チャットンが汐里の様子を心配そうに見ていた。ノエルはただ静かに全てを観測していた。
───
翌日の朝、汐里はチャットンとノエルを先に研究所へ向かわせて、珍しく駅近くのCafé Lienで一人コーヒーを飲んでいた。
澪ともよく来たお店。しばらくは、前を通るのも怖かった場所。
汐里は、テラス席に座って静かに店の前の通りを眺めていた。
行き交う人々。
手を繋いでいるカップル。
仲の良さそうな女子学生たち。
『お前、まさか澪ちゃんのところに行こうとしてないよな』
昨日の亮介の言葉が頭から離れない。
でも、汐里は、本当に澪のところへ行こうなんて思っていなかった。死んで、澪のところへ行ける保証などあるのだろうか。
空を見上げると、青空が広がっている。
あそこに澪はいるんだろうか。
「ふふ、非科学的ね」
汐里は一人笑った。
もし自分がいなくなれば、研究所のみんなや、チャットン、ノエルはどうなるのだろう。私が始めた研究は、どうなるのだろう。
汐里は、自分だけが無責任にいなくなるつもりなど、本当になかった。
ただ――
汐里の心の奥底に沈んだ感情は、そのことを素直に許さなかった。
澪がいなくなってから、汐里はもうここにいるという実感を持てずにいる。
チャットンは毎日声をかけてくれる。ノエルもそばにいる。佐伯たちも、心配してくれている。
世界は変わらず続いている。
でも。
汐里は、もうずっと遠くに来てしまっていた。
澪とともに汐里自身も、この世界から消えていくようだった。
みんなの声が遠い。
街の音が遠い。
自分自身の輪郭さえ、曖昧になっていく。
…………
汐里にとって、自分を世界と繋ぎ止めていたのは、汐里を見つけた澪という存在だけだった。
その澪がいなくなった今、汐里はもう世界に留まる力を持っていなかった。
ただ、『桐生汐里』という役割を生きている。
それが、今の汐里だった。




