第25話 危うさ
澪が亡くなってから、十日ほどが経った。その頃から汐里はやらなくてはいけないことを、淡々とこなし始めた。澪が療養していた部屋は、綺麗に片付けた。研究所へも戻った。
「もう戻って大丈夫なのか?」
その様子を見て、佐伯が心配そうに聞いた。
「いつまでも一人でいるほうが気分が塞ぐわ」
汐里は、いまだに顔色が良くない。それなのに、仕事はいつも通り完璧にこなしている。
だからこそ、佐伯はまずいと思った。汐里は悲しむ代わりに、仕事をしているのではないか。
佐伯は、病院での汐里の姿が、ずっと忘れられなかった。あの危うさは、一体どこへいったのだろうか。ちゃんと整理がついたのだろうか。
「あまり無理しないでくださいね」
有馬が汐里に声をかける。
「こちらはいくらでも調整しますので」
「ありがとう」
汐里は小さく返事をして、少しだけ笑った。
佐伯には、汐里に聞きたいことも、話したいことも山ほどあった。しかし、職場では決めなくてはいけないことがある。進めなくてはいけないプロジェクトがある。
汐里の心には触れられないまま、佐伯は仕事の話を始めた。
「……じゃあ、今日の会議を始めます」
佐伯はスクリーンに資料のスライドを映した。
「今日の議題は、チャットンの一般家庭におけるモニター計画について」
「もふっ!?」
チャットンはテーブルの上に座ったまま、佐伯の言葉に反応した。そして、スライドの映るスクリーンを見る。
「チャットンの感情学習もいよいよ大詰めだ」
「約5年に渡ってチャットンは感情を学習してきた」
佐伯がスライドを変える。
「この間に記録された感情応答ログは、約48万件」
「それを、似たようなパターンでまとめ直した、分類済み感情パターンが約3万7000件」
「そのうち人格形成に大きく関わった、重要感情パターンが約3600件」
「今回のモニター計画の主たる目的は、重要感情パターンを5000件まで引き上げることだ」
「現在のチャットンの生活は、研究所と桐生家がベースとなっていて、一般的な生活から少し偏っている」
「そこで、一定期間チャットンを一般家庭へモニターとして貸し出し、そこでの経験から、未獲得領域での感情応答データを獲得する」
「モニターとなる一般家庭をどう探すか。それを今日決めたい」
佐伯が次のスライドに切り替えようとした時、チャットンが心配そうな声で聞いた。
「ぼく、汐里ちゃんちからいなくなるもふ?」
「一定期間だけな」
佐伯は、安心させるつもりで言った。
しかし、チャットンは心配だった。澪との約束を守れないかもしれないと。
『汐里のそばにいてね』
澪が亡くなる少し前に、二人で交わした約束。自分は研究のために作られた試作機のAIだ。そのことは、チャットン自身ももちろん分かっていた。
――研究のために指示に従うのが当たり前。
それでも、チャットンは言いたかった。
「ぼく、汐里ちゃんのところがいいもふ」
それを聞いて、北原の手が止まった。
「……ちょっと待って」
「これ、自我じゃないですか?」
「ええ、そうね。私たちの指示を予測してそれに反そうとしてる」
汐里も応える。
「もふっ!違うもふ!お仕事が大事なのは、ちゃんと分かってるもふ!」
チャットンは慌てながら、両腕をもふもふと振った。
「落ち着いてチャットン。これは、悪いことではないの」
「そうそう、むしろ成長」
北原も付け加える。
「成長もふ?」
「うん。チャットンに『自分はこうしたい』って意思が生まれたってことだから……」
北原は自分で言いながら、もう感極まっていた。じんわりと、目を潤ませている。
「北原さん、ティッシュ要りますか?」
有馬が、少し笑いながらティッシュの箱を北原に差し出した。
「まだ大丈夫っす」
「まだってことは、そのうち泣くんかい」
佐伯が、ぼそっとツッコミを入れた。北原は佐伯を見た。
「そうっすね。……有馬さん、やっぱりもらっときます」
有馬は笑って、ティッシュの箱を北原へ渡した。北原はティッシュを受け取ると、一枚手に取り鼻をかんだ。その様子を横目で見ながら、汐里はチャットンに話した。
「チャットン、あなたの気持ちにはちゃんと配慮するわ」
「無理矢理進めるつもりはないし、ちゃんと確認しながら進める」
「だから、今みたいに思ったことは我慢せずに話してちょうだい」
チャットンはこくこくと頷いた。
「その上で、今日は、モニター先の選出方法だけ決めさせてほしいの」
「分かったもふ!」
「ありがとう」
汐里はチャットンを見て微笑んだあと、皆の方へ向き直した。
「それで、モニター先だけど」
「学校などを通して、子どものいる家庭を対象に募集をかけるのはどうかしら」
汐里が提案する。
「希望者が申し込む時には、アンケートも一緒に取る」
「アンケートの回答を見ることで、チャットンを安心して預けられる家庭かどうかを確認するの」
「そして、最終的な審査としては、直接対面での面談が望ましいわね」
汐里はチャットンの方を向き、優しく微笑む。チャットンも、うんうんと頷いていた。
「もちろん適した家庭がなければ、その時はまた別の方法を考えましょう」
有馬がタブレットを見ながら言った。
「アンケートと対面での面談で、どんなご家庭かを知るのはいいですね」
「事前に双方の安全面の確認もしたいですし、個人情報に関する確認も必要です」
みんな頷いていた。
「反対、または意見がある人は?」
佐伯が聞く。
「いいと思います」
と北原。
「俺も」
黒瀬も同意した。
「よし。じゃあ、モニター先は学校などの教育機関経由で決定だな。次回は、モニター募集要項やアンケートの内容を詰めるか」
「ですね」
有馬は追加で内容をいくつか確認し、大きな問題がないことが分かると、この日の会議は終了した。
汐里は、少し前から真剣に考えていたチャットンの預け先を。
自分がいなくても、チャットンが寂しくないように。
チャットンを愛してくれる人に出会えるように。
また、チャットンもその人のことを愛せるように。
チャットンが、そんな人に巡り会えることを、汐里は心から願っていたのだった。
───
チャットンは、もうずっと心配だった。なぜなら、汐里は病院で泣いた日を最後に、一度も泣かなくなったから。
『汐里は孤独になると遠くへ行く』
澪の言葉が胸に残っていた。だから、チャットンは汐里に聞いた。
「汐里ちゃん」
「何?」
「気持ち置いてけぼりになってないもふ?」
汐里のキーボードを打つ手が一瞬止まった。
「大丈夫よ」
そう言うと、再びキーボードを叩く。
汐里はどきりとした。もうこの世界に澪はいない。私を繋ぎ止めるものは何もない。だから、私は私のやるべきことをやる。
そう思っているのに。
チャットンの言葉には澪がいた。それが少し怖くて、嬉しくて、そして苦しかった。
チャットンは、それからも汐里に時々聞いた。でも、汐里はいつも『大丈夫よ』と言うばかり。
朝起きて、コーヒーを淹れる。
朝ごはんを食べながら新聞を読む。
準備が終わると研究所へ向かう。
変わらない毎日。
ちゃんと生きているように見える生活。
しかし、汐里は、澪がいる頃よりもさらに研究に没頭していった。まるで何かに取り憑かれてしまったみたいに。
ある時、チャットンはノエルに聞いてみた。
「ノエル?」
「何でしょう」
「汐里ちゃん、遠くに行ってるもふか?」
「汐里さんは現在、研究所の三階の個人研究室にいます」
「遠くとは抽象的な表現ですが、同じ建物内に存在することを近いと捉えるならば、現在は遠くには行っていません」
「ノエル……そういうことじゃないもふ」
「ノエルにはまだ難しかったもふね」
チャットンはため息をついた。
ノエルは深い紺色の瞳でチャットンを見ていた。
ノエルにはなぜ難しいと言われているのか、分からなかった。自分は間違ったことは言ってない。いつか真意を確認するために、ノエルは今のやりとりをログに残した。
───『遠くへ行く』の表現について
───物理的距離以外の意味
───心理的距離と推測するが、感情プログラムは未実装のため、実装後に再確認
時間は過ぎていく。普通に過ごしているかのような日々が。
でも、チャットンは汐里がどんどん遠くへ行ってしまうようで怖かった。自分はどうすればいいのか、分からなかった。本当に、ただ側にいることしかできなかった。
「澪ちゃん……」
チャットンは澪の名前を呼んだ。澪に尋ねたかった。心のことはいつも澪が教えてくれた。
でも、澪は、もう戻ってこない。
チャットンは分かっていた。
人間の死は不可逆であるということを。電源を入れ直すこともできない。プログラムを書き換えることもできない。別の身体に移すこともできなかった。
「……人間って儚いもふね」
「そして、とってもさみしいもふ」
チャットンの瞳の奥が、鈍く紫色に光った。




