第24話 澪のいない世界
真っ青な空に入道雲が立ち上がっていた。
暑い夏の日。
澪の葬儀には、たくさんの人が来た。職場の人。友人。交流のあった研究所の人間も、何人か参列していた。
祭壇の写真の中で、澪は夏の向日葵のように笑っている。彼女にもう二度と会えないことを、誰も信じられずにいた。
澪は生前、親族たちと長く疎遠になっていて、葬儀にも彼らの姿はなかった。そのため、喪主は汐里が務めた。
澪が亡くなってから、汐里は立ち止まる時間などなかった。ゆっくり悲しむ時間もない。ただするべきことをこなしていくことで、精一杯だった。汐里は、佐伯たちにサポートしてもらいながら、なんとか目の前にあることをひとつひとつ済ませていった。
葬儀が終わり、参列者たちが澪に別れを告げると、汐里と佐伯、有馬、そしてノエルとチャットンは火葬場へと向かった。
火葬場へ向かうバスの中、佐伯は汐里に声をかける。
「大丈夫か?」
汐里にその声は届かなかった。有馬も、ただ静かに見守っていた。ノエルとチャットンは、何を話したらいいのか分からず黙っていた。
皆を乗せたバスが、火葬場に着くと、
「澪ちゃんとお別れもふ?」
ノエルの腕の中から、チャットンが聞いた。
「ああ、最後のお別れだ」
佐伯が答えた。
そこでも粛々と段取りが進んだ。
炉の前に棺が運ばれてくる。汐里は、なかなか棺の前から離れられずにいた。チャットンは、そんな汐里を心配そうに気にかけながら、ノエルと一緒に最後のお別れをする。
「澪ちゃん、ありがとうもふ。さよならもふ」
まだ実感の伴っていないような声で、チャットンは一生懸命に感謝と別れを告げていた。佐伯はその様子を見て、いたたまれずに目を逸らした。
順に焼香をしていく。そして、悲しいくらい無機質な扉が閉まると、静かに点火のボタンが押された。
外には、真っ青な空が広がっている。青の向こうに宇宙が見えるようだった。
待っている間、汐里は黙ったまま、窓の横でずっと空を見ていた。
今頃、澪はあの空へ向かっているのだろうか。
そんなことを考えながら、ただずっと空を見ていた。
無情な時間が、淡々と過ぎていく。
そうして、澪が骨だけになってしまった時、とうとう汐里の張り詰めていた糸が切れた。汐里は、それ以上耐えることができずに、その場に崩れ落ちた。
もう澪はいない。澪の隣で、一緒に燃えてしまいたかった。
そう思ったのを最後に、汐里の意識は途絶えた。
隣にいた佐伯が、倒れる汐里をすんでのところで受け止めたおかげで、大事には至らなかった。佐伯も、有馬も、これほどまで憔悴した汐里を見たことがない。ノエル以外、皆涙を流していた。
外では、夕立が降り始める。
佐伯が汐里を病院へ連れていくことになった。タクシーが到着すると、佐伯は汐里を抱きかかえて表へ出た。
「……亮介、ごめんなさい」
佐伯の腕の中で、汐里が呟いた。
「気にすんな」
佐伯は短く言った。
「……ありがとう」
そう言うと、汐里は再び目を瞑った。
病院へ着き、幸い過労で倒れただけとのことだったが、大事を取って一晩入院することになった。
個室のベッドで、汐里は眠っている。
佐伯とチャットン、ノエルは病室に付き添い、途中、佐伯がチャットンとノエルに「研究所へ戻ってていいんだぞ」と声をかけても、二人は断って汐里の側に残った。
雨が窓を強く打つ。窓についた雨粒は集まって大きくなると、流れ落ちた。チャットンはじっとその様子を見ていた。皆、何をすることもなく静かに雨音を聞いていた。
ザァー。
ザァー。
……
しばらくして、汐里が目を覚ました。
「……大丈夫か?」
ベッドのすぐ隣に座っていた佐伯が、静かに声をかけた。
「ええ、心配かけてごめんなさい」
「水臭いな。こんな時くらい強がるなよ」
佐伯は、悲しみと心配の混じった顔で優しく微笑んだ。汐里はただ黙っていた。
「明日には退院できるってよ」
「家のことは、有馬さんが対応してくれてる」
「……ありがとう」
「亮介たちがいなかったら、私なにも出来なかったわ。手を煩わせてごめんなさい」
「何言ってんだよ。いいんだよ。こんな時くらい……」
「何ならもっと頼ってくれ」
それは、切実な声だった。
「……ありがとう」
「それと、チャットンとノエルはそこにいる」
佐伯は部屋の端の方を指差した。
「……もふ。汐里ちゃん起きたもふ?」
「ああ、起きたよ。でも、まだ静かにな」
「わかったもふ!」
チャットンは、もふっと片手を挙げて、小さな声で返事をした。
「研究所へ帰っとけって言ったんだけど、二人とも離れないって聞かなくてな」
「ふふ、二人がいてくれたら心強いわ」
ほんの少しだけ笑えた。
「ならいいけど」
「じゃあ、俺は一旦帰るな」
「明日また迎えに来るから」
「……本当にありがとう、亮介」
佐伯は軽く手を挙げると、静かに部屋を出ていった。
汐里はその背中を最後まで見送っていた。
ふと病室の窓の外を見ると、もう夜になっていた。
ノエルが、チャットンを抱きかかえ、汐里の側へと近づいていく。そして、さっきまで佐伯が座っていた椅子に座ると、チャットンが心配そうに汐里を見た。
「汐里ちゃん大丈夫もふか?」
「ええ、大丈夫。疲れが溜まっていたのね……」
そう言い終わらないうちに、汐里の目に涙が溜まった。ノエルとチャットンに背を向ける。
「……澪、いなくなっちゃったわ」
肩が震えている。
「汐里ちゃん、そっち行っていいもふか?」
「……ええ」
チャットンはベッドに移ると、汐里の横へポテっと座った。
汐里は振り向くと、チャットンを抱きかかえた。
チャットンは何も言わなかった。ただ、じっと抱かれていた。
「汐里さん、肩に触れてもいいでしょうか?」
ノエルが声をかける。
「……なぜそんなことを聞くの?」
「汐里さんが辛そうなので、慰める必要があると判断しました」
ノエルには、まだ感情プログラムは入っていない。ノエル自身に澪を失った悲しみはない。汐里への共感もない。ただ、この場での最適な行動を導き出したに過ぎない。
それは、汐里自身で書いたプログラムだと分かっていた。
それでも今は、その手に縋りたかった。
「いいわよ」
ノエルは、汐里の許可を得ると、汐里の肩にそっと触れる。子どもを寝かしつけるように、ノエルは汐里の肩をトントンと優しく叩いた。チャットンのぬくもりと、ノエルの優しいリズムの中、汐里は再び眠りについた。
その夜、汐里は澪の夢を見た。
夏空の下。
白いTシャツとジーンズを着た澪が、向日葵畑の中を走っている。
途中で止まると、汐里の方を振り返る。
向日葵に囲まれた澪は、いつものように、ころころと笑っていた。
「澪……」
眠る汐里の頬を、涙が伝っていた。
朝になると、すっかり雨は上がっていて、再び真っ青な夏空が広がっていた。
少しすると佐伯が病院へ迎えに来て、汐里の代わりに、退院準備や会計を済ませていく。
その間、汐里はベッドに座って、窓から外の空を見ていた。
昨日、澪は煙になって天へ昇った。眠って、起きても、それは夢ではなかった。
佐伯は、そんな汐里の様子を静かに見ていた。
――危うい。
そう思った。
どのくらいの時間が経てば、汐里の傷は癒えるのだろうか。
自分にできることはあるのだろうか。
「汐里、帰るぞ」
汐里がゆっくり振り向く。
「ええ」
車で汐里を家まで送り届ける途中で、佐伯は言った。
「しばらくうちに来るか?」
汐里は黙ったまま、外の景色を眺めている。
「陽子もいいって言ってる」
汐里は少し考えてから答えた。
「大丈夫。家に帰るわ」
「そうか、分かった」
佐伯はそれ以上何も言えなかった。
街の様子はいつもと変わらない。人々は、朝起きて、仕事へ行く。人に会い、話し、笑っている。
当たり前の日常。
ただ、そこにあるのは澪のいない世界だった。
汐里の家に着くと、佐伯以外の三人が車を降りる。
「ほんとにここでいいのか」
運転席から佐伯が言った。
「ええ、ノエルもチャットンもいるし」
ノエルが荷物を持ち、汐里を横で支えた。
チャットンは、ポテポテと二人の後をついて行く。
佐伯たちは、人の隣に立ち、支えることのできる存在になることを目指して、チャットンとノエルを作った。
今、まさにその光景を佐伯自身が見ていた。
しかし、こんな形で自分たちの成果を見ることになるとは、少しも想像もしていなかった。
汐里たちが家に入って行くのを見送りながら、佐伯は考えていた。
本当にこれでいいのか。
チャットンとノエルだけに託していいのか。
自分が介入するべきなのか。
どこまで踏み込むべきなのか。
佐伯は何度も自問したが、結局は答えを出せないまま、三人を見送ってから、自宅へと帰っていった。
汐里が玄関のドアを開けると、そこにはいつものままの空間があった。
もうずっと履かれないままの澪の靴。
『おかえり』と、聞こえるはずの声は聞こえてこない。
リビングに入ると、澪がいた気配がまだ残っている。
ほんの数日前まで寝ていたベッド。
お気に入りだったクッション。
飲みかけのジュース。
出しっぱなしの食器。
澪の洗濯物。
全部そこに残っていた。残酷だった。
奥の部屋には祭壇がある。そこには、昨日、汐里に代わって有馬が預かり運んでいた澪の遺骨が置かれていた。
汐里は、その前まで進むと、ゆっくりと膝をついた。
澪の笑顔。柔らかな髪。優しい声。ぬくもり。
もうどこにもない。
ただ、小さな箱に残るだけ。
汐里は遺骨を抱きしめた。
チャットンもノエルも、静かに汐里の背中を見ていた。何もできなくても、どうすればいいのか分からなくても、二人は汐里の側をただ離れなかった。




