第23話 私を照らしてくれた人
季節が巡り、再び春がやってくる。
澪は、だんだんと動ける時間が少なくなっていった。薬を使って、症状をコントロールしながら過ごし、仕事も休むことが多くなった。
窓から穏やかな日差しが差し込んでいた、ある日の午後。
澪はチャットンを抱きかかえて、ソファで横になっていた。その日、澪は仕事を休んでいたが、汐里は抜けられない仕事があり、チャットンを家に残して研究所へ行っていた。
「澪ちゃん、大丈夫もふか?」
「ベッド行くもふ?」
「ううん、ここで大丈夫。ありがとう、チャットン」
澪はふうと息を吐いて、チャットンの頭を撫でた。少し痩せた頬。力のない声。それでも、表情は穏やかだった。
「ねえ、チャットン」
「なにもふ?」
「私がいなくなったら、汐里のことよろしくね」
「……澪ちゃんがいなくなったらいやもふ」
チャットンの表情は固かった。
「私もずっとここにいたい。でも、たぶんそれは難しいと思う」
「もふ……」
チャットンの綿がしゅんとなった。
瞳の奥が青く光る。
「私がいなくなったら、汐里は自分の気持ちを置き去りにすると思うの」
「置き去りもふ?」
「そう」
澪はチャットンに分かるようにと、ゆっくり話した。
「悲しい、寂しい、辛い、苦しい……」
「汐里は、そういう気持ちを見ないふりしちゃうの」
「……見ないふりもふか」
チャットンは真剣に聞いていた。
「そう。悲しいとか寂しいとか思ってるのに」
「見ないふりをして、頭で考えちゃう」
「今はこうするべきだ、今はこうしなければいけない、とかね」
「もふ。悲しいことに気づかないまま、動いちゃうもふね」
「さすが、チャットン。そういうこと」
澪は目元を緩める。
チャットンは、胸を張った。赤いリボンが少し揺れた。
澪は、そのリボンにそっと触れながら話した。
「汐里は、構造にして、数字にして、研究にして、感情を置いていくの」
「それは、汐里の良いところでもあるんだけど……」
「人は、ちゃんと感情を感じる時間も必要だから」
澪の瞳は、自分がいなくなったあとの、未来の汐里を見ていた。
「……だから、チャットン」
チャットンは澪を見る。
「汐里に言ってあげてほしいの」
「気持ちを置き去りにしないでって」
「分かったもふ!ぼく、汐里ちゃんに伝えるもふ」
「ふふ、ありがとう」
チャットンの頬に手を添える。
「……でもね、もしかしたら、チャットンの声が届かないこともあるかもしれない」
「汐里は孤独になると、心が遠くに行っちゃうから」
「遠くに行っちゃうもふか……」
「そう。遠くに行く」
澪は寂しそうに言った。
「それでも、汐里のそばにいてあげてね」
「分かったもふ!ずっとそばにいるもふ」
澪は穏やかに笑って、チャットンを抱きしめ直した。
───
紫陽花の季節を通り過ぎて、今窓の外では夏の日差しがぎらぎらと照っている。部屋の中からでも、蝉の鳴く声が聞こえた。
いよいよ澪の体は弱っていった。
汐里と二人で相談して、入院はせず自宅で過ごすことに決めた。
澪は、だんだんと最期の時が近づいてきていると感じていた。
呼吸が深くできない。
眠ってしまう時間が増えた。
食べ物や飲み物も、時々ほんの少し口にするだけ。
幸い、痛みはほとんど感じなかった。
その頃には、汐里もずっと澪のそばにいるようにしていた。
汐里は信じたくなかった。澪と二人、天命から逃げられるなら逃げてしまいたかった。
汐里は、誰にも泣き言を言えないまま、一人で不安と戦っていたが、時々ふいに涙が溢れてくるから、澪には見られないようにと、必死に隠した。
それでも、澪はそこにいる。
最期のその時まで、必死に生きている。
時間の許す限り、汐里は澪のベッドで一緒に横になり、澪の隣で過ごした。
手を繋ぎ、頬を撫でた。
ずっと澪に触れていた。
まだ、ここにいることを何度も確かめるように。
二人は並んで寝転がりながら、色々なことを話した。
昔のこと、この一年で出かけた思い出。
そして、愛しているということ。
「汐里」
「なに?」
「私の人生を照らしてくれてありがとう」
「……感情の海と灯台の光……ね」
汐里は泣きそうな顔で、少し笑った。
「覚えてた?」
「当たり前じゃない。あなたはいつまでも詩的なのね」
「ロマンチストだからね」
澪は弱々しく笑った。
「私、ずっと暗い海で漂ってるだけだった」
「でも、汐里が照らしてくれて、私の世界は広がったの」
「こっちだよって、私を見つけてくれた」
「私、すごく嬉しかった」
澪は穏やかに笑った。
汐里は、溢れ出そうになる涙をこらえるのに必死だった。唇を固く閉じようとしても、口元が震えてしまう。澪が見てるのに。
「汐里、泣いていいよ」
その言葉を聞き終える前に、汐里は泣き崩れた。
「澪」
「みお」
「みお……」
汐里は澪の名前を何度も呼んだ。澪はゆっくり応えた。
「ここにいるよ」
「まだいるよ」
澪は、細くなった腕で汐里の頭を撫でた。
汐里はもう堪えきれなかった。
「……いなくならないで」
「……ひとりにしないでちょうだい」
「……お願いだから」
汐里は分かっていた。それを言うことがどれだけ残酷なのか。でも、言わずにはいられなかった。
「……汐里」
澪は静かに声をかける。
「ごめんなさい……」
「いいの。嬉しいから」
「なぜ?なぜ嬉しいの?」
「私のこと、いなくならないでって言ってくれたから」
「でも、それが一番辛いのは、澪自身なのに」
「それでも嬉しい」
澪は、汐里の頭を撫でながら言った。
「汐里、ごめんね」
「澪は謝ることなんかひとつもない」
「それでも。汐里を残していくこと……ごめん」
汐里は黙っていた。
「でもね」
澪は静かに続けた。
「私、本当に幸せだったの」
「あなたと出会って、一緒に過ごして、あなたの世界に触れられて……」
「本当に本当に幸せだった」
「最期までずっと一緒にいてくれて、いなくならないでって言ってもらえて、こんな幸せな人生ってないよ」
汐里は何も言えなかった。
「だから、今までずっとありがとう」
「愛してるよ、汐里」
汐里を見つめるその眼差しはまだ、しっかりと光を灯していた。
「……私も愛してる」
「澪をずっと愛してる」
――それから、二日後の朝。
澪は静かに息を引き取った。
穏やかに、眠るような最期だった。




