第17話 独立
澪は大学を卒業した後、地元には戻らず地域の福祉センターに就職した。心理士の資格を活かして、地域の人々に寄り添う相談員として働き出した。
汐里はというと、大学院へ進み研究を続けた。
澪から心理学の影響を受け、また汐里自身の経験から、人間の心について理解を深めようとしていた。
心とは何か。
感情とは何か。
人は見たもの、聞いたもの、経験などを、記憶と照らし合わせ、意味付けをし、感情を生む。
人の心は複雑だが、構造がある。その構造を正確に見つけることができれば、プログラム上で再現できるかもしれない。
汐里が大学院で選んだテーマは、人間の心的プロセスをAIで再現することだった。
また、二人は大学在学中からパートナーとして自然と仲を深めていき、澪が就職したことをきっかけに、卒業後は大学の近くの部屋を借りて一緒に住み始めた。
汐里が大学院で修士論文を書いていた頃のある朝。汐里は、リビングのテーブルにパソコンを広げてキーボードを叩いていた。そこへ、澪がまだ眠たそうにしながら起きてくる。
「人間の心的状態および感情応答の計算モデル化に関する研究……だっけ?汐里が書いてる論文」
澪は、言い慣れない言葉に噛みそうになりながら言った。
「よく覚えてたわね」
汐里は、手を止め感心して言った。
「だって、汐里の研究、私の影響めっちゃ受けてるんだもん」
「それはそう」
汐里は少し恥ずかしそうに一瞬だけ目を伏せて、再びキーボードを叩き出した。澪は、そんな汐里を後ろから抱きしめた。
「汐里、おはよう」
「澪、パソコンが操作できないわ」
汐里は手を止めて言った。
「その前に、おはようは?」
「……おはよう、澪」
汐里は負けたように言った。
「今日は休みの日だよ。ちょっと休憩しよ」
「でも、締切が近いの」
少し焦りのある声。
「分かってるよ。追い込みの時期だもんね」
「でも、汐里。昨日徹夜してたでしょ」
「……してたわね」
「ろくに休憩もしてないんでしょ」
「……」
「集中も大切だけど、続けるには、ちょっと休憩も必要だよ」
汐里は黙った。澪の言っていることは正しい。確かに昨日の夜にお風呂を済ませてから、ずっとパソコンの前にいた。
「分かったわ。少し休む」
「えらい」
澪は、汐里のために温かいミルクティーを淹れた。汐里はそれを一口飲んで言った。
「心配かけるわね」
「汐里は集中してるときは、いつもそう」
澪は笑いながら言った。
「でも、いいの。こうして声をかけたら、ちゃんと止まってくれるでしょ?」
「そうね。私もありがたいと思ってる」
「汐里のこと応援してるから。倒れずに最後まで頑張れるように、汐里のことちゃんと見てるから」
汐里は澪の言葉を聞いて、はにかむように笑った。
「さ、少し眠りなよ」
そう言うと、澪はソファに座って、ぽんぽんと自分の膝を叩いた。
「ちゃんと起こしてあげるから」
汐里は、ミルクティーを飲み終えるとカップをテーブルに置き、澪の横へ座った。そして、澪の膝の上に頭を乗せ、横になった。
「素直じゃん」
澪は汐里の髪を撫でた。
「……疲れてるから」
澪は、ふふっと笑った。
「それにしても、すごいこと研究してるねぇ。汐里は」
「あなたのせいよ」
「私のせい?何で?」
「あなたが私の心を見つけたから……」
「だから、私は心を理解したいと思った」
澪は目を丸くした。そして、汐里の髪を撫でながら言った。
「私、すごい人じゃん」
「澪はすごいわよ」
「知らなかった」
「じゃあ、たった今、知ったらいいわ」
澪は嬉しそうに目を細めた。
いつも感情に飲まれるばかりで、心に振り回されてきた自分。その自分が汐里の心を見つけ、汐里の原動力になっている。
澪は、自分のことを、なんでもないただのひとりの人間だと思っていた。
でも、今は違う。
汐里という人が、自分を見てくれている。
「汐里、私幸せ」
「……私もよ」
汐里は今にも眠りそうだった。眠りそうになりながら言った。
「いつか、澪が私を見つけてくれたみたいに……」
「誰かのことを見つけられる存在を作りたい……」
そう言うと、汐里は静かに眠った。
澪には、何のことか分からなかった。
それでも、何かを作りたいと夢を語る汐里のことが、愛おしくて仕方なかった。
───
大学院を卒業すると、汐里は大手AI企業に先端研究部門の研究員として就職した。
配属されたのは、人とAIとの情緒的な関係性を研究するチーム。対話AI、感情推定、心的状態モデル。汐里が研究してきたテーマに最も近い場所だった。
数年でプロジェクトリーダーを任されるようになり、順調にキャリアを積んでいった。
だが、だんだんと違和感も募っていった。
民間企業であるがゆえに、利益や商品化を求める。
需要があるかどうか。売れるかどうか。便利かどうか。人気が出るかどうか。
そういったことが重要だった。
しかし、汐里が本当に作りたかったのは、人の孤独に気づき、その人の隣にいることのできるAI。その思いを「収益性」や「事業化」という言葉に何度も置き換えられ、汐里の心はすり減っていく――そんな頃だった。
大学の同級生の一人から連絡があり、久しぶりに会うことになった。
仕事終わりの夜、学生の頃からよく来ていた大学近くの居酒屋で、佐伯亮介は言った。
「汐里。俺たちで研究所作らないか?」




