第16話 汐里と澪 ―隣―
三年生の夏、汐里はある学部生向けの研究発表会で賞を取った。
情報工学科の教授たちは、学内で汐里に会うと口々にお祝いと賞賛の言葉を送った。
「おめでとう」
「本当に素晴らしい」
「将来が楽しみだ」
「我が校の期待の星だ」
「もはや学部生レベルではない」
褒められている。
評価されている。
こういう時は、望ましい反応をする場面。
汐里は、賞賛の言葉を前に、心の中でそんなことを考えていた。
汐里はいつも、小さく頭を下げてお礼の言葉を言った。
「ありがとうございます」
その声は、台本を棒読みするような、とても平坦な音だった。
澪は汐里が褒められる場面に度々居合わせた。そんな時、澪は隣で静かに汐里のことを見ていた。
ある日の夕方、二人は中庭にいた。
講義を受け終えたあと、いつものようにベンチに座って、ただ一緒に時間を過ごしていた。
学生たちの声が、遠く聞こえる。
話し声。
笑い声。
部活の掛け声。
中庭の木々が、風に揺れていた。
西の空が茜色に染まっている。
澪がふいに言った。
「汐里ってさ」
「すごいって言われると、遠くに行く顔するよね」
汐里は、澪の言葉をすぐには理解できなかった。
「……何、それ」
「何って、そのままだよ」
汐里は怪訝な表情をする。
「みんな汐里のこと褒めてるんだけど、汐里自身は、ここにいないような、どこか遠くにいるような、そんな顔してる」
「意味が分からないわ」
「私も全部は分からないけど」
「でも、本当の汐里はそこにいなくて、ひとりきりで、なんか寂しそう……」
汐里は、澪をじっと見た。
どこまで気付いてるの。
私の何が分かるの。
言いかけて、やめた。
澪は、私の研究内容なんて全然理解していない。頭の中で、私が世界をどう見ているのかも知らない。
それなのに。
――ひとりきりで、寂しそう。
そう、言った。
誰にも見つけられなかった私を、澪は初めて見つけた。
「あなたは……」
「なに?」
「……どこまで分かっているの?」
「さっきも言ったけど、全部は分からないよ」
「でも」
「でも?」
「汐里が教授たちに褒められてた時、あの場所に汐里自身がいなかったことだけは、分かった」
汐里は何も言わなかった。澪もそれ以上、聞かなかった。
ただ、隣にいた。
汐里は、少し怖くなる。初めて自分の孤独に触れられたから。家族にも、恋人にも、誰にも見つけられなかった私を、澪は見つけた。
鼓動が速くなる。怖さからなのか、嬉しさからなのか。
ただ同時に、安心もしていた。
私の話が分からなくても、分からないまま。
見えるものが違っても、違うまま。
どんな私でいても、澪は隣にいる。
空を見上げる。東の空から、夜の闇が広がってきていた。
自分はもしかしたら、もう孤独じゃないのかもしれない。
汐里は世界の中にいる自分自身を、俯瞰していた。
そして。
澪の隣を離れたくない。
そう思っていた。
───
もうすぐクリスマスの、ある冬の日だった。
すぐにでも雪になりそうな、みぞれ混じりの雨が降っていた。
「さむーい」
澪が言った。
二人は大学から、それぞれの下宿先へ帰るところだった。最寄りの駅まで並んで歩く。
「すっかり街もクリスマス仕様ね」
「汐里もそんなこと考えるんだ」
「……それくらい考えるわよ」
「あ、そういえば、駅前に新しいカフェがオープンしてたんだよね」
「へえ」
「一緒に行かない?」
「いいわよ」
イルミネーションが点灯していた。クリスマスソングがあちこちから聞こえていた。
『Café Lien』
二人は、店内に入った。
澪は、キャラメルラテ、汐里は、ホットコーヒーを頼む。二人はカウンターでドリンクを受け取ると、一階の窓際に座った。
「ここ。ずっと気になってたんだよね」
「雰囲気が素敵ね。シンプルで、でも温かい感じがする」
「でしょ〜」
「Café Lienっていう店名も素敵ね。フランス語で『つながり』だったかしら」
「そうそう!しかもね、奥のサロンでカラーセラピーできるんだって!」
「澪、好きそう」
「うん、興味ある。今度、受けてみようかな」
汐里は心配そうに、澪を見た。
「……何か、悩み事でもあるの?」
「もしかして、心配してくれてる?」
「……そういう訳じゃないけど」
汐里は反射的に答えた。
「えー、心配してくれてるのかなって嬉しかったのに」
澪は悪戯な顔で汐里を見た。
「……少しだけね」
汐里の言葉に、澪は喜んだ。
「汐里、可愛い〜」
汐里は澪から目を逸らした。汐里の頬が紅く染まる。
「可愛くはないわ」
「照れてる!可愛い〜」
ふうっと一息ついて、じとっと澪を見た。
「もう、あんまりからかわないで」
「分かった。ごめん」
澪は、両手を挙げて言った。
「それで、悩み事はなんなの?」
「あ、そこに戻る?」
「……だって心配……だもの」
「汐里……」
澪はまたからかいそうになったが、今度は何も言わなかった。ただ、嬉しそうに微笑んだ。
「大したことじゃないんだけどね」
「うん」
「ちょっと恋愛のことを……」
汐里の手が止まった。
澪はキャラメルラテの入ったカップへ視線を落とす。
出会ってから、二年半以上が過ぎていた。
その間、お互いに異性から何度か告白され、付き合ってみたこともあった。
でも、いつも長続きしないまま終わった。
そしてまた、自然と二人でいる時間が増えた。
二人とも、自分たちの関係は何なんだろうと思っていた。
友だち?
親友?
「好きな人でもいるの?」
汐里は聞いた。
「……うん」
「そう」
汐里の声は、少し寂しそうだった。
「自分でもその気持ちをどうしたらいいのか分からなくて、少し悩んでる」
「澪らしいわ」
「汐里は?」
「私がなに?」
「今、好きな人いないの?」
一瞬、考えた。
「いないわ」
「……そっか」
二人は窓の外を見た。みぞれ混じりの雨が、雪に変わっていた。
「ねえ、今日うちで晩ご飯食べない?」
澪が言った。
「いいわよ。ちょうど明日は休日だし」
「やった」
澪と汐里は、時々お互いの下宿先を行き来した。一緒にご飯を食べたり、翌日が休みの時は泊まることもあった。
Café Lienを出ると、いつものようにスーパーに寄って夕飯の食材を買う。
「今日はお鍋にしようよ」
「だいたいいつもお鍋じゃない」
「そうだけど」
澪は笑った。
澪の家に着くと、二人はいつものようにキッチンに並んで料理をして、いつものように並んでその料理を食べた。
穏やかな時間が流れる。
鍋のくたくたになった白菜を食べながら、汐里は言った。
「……それで、好きな人って誰なの?」
澪は箸を止め、汐里を見た。
「汐里、もしかして、さっきの話気になってるの?」
「まあ、そうね」
汐里は、澪に好きな人がいると聞いてから、頭の中で色々と予測を立てていた。
同じ心理学科の学生なのか。
それとも、バイト先の知り合いか。
いずれにしても、澪が誰かと付き合ったら、こうして気軽に、お互いの家を行き来できなくなるかもしれない。
自分とはどのくらい会ってくれるのだろうか。
頻度は?
大学内でも気軽に会えなくなるのだろうか。
いや、これまでも、澪は恋人ができた時でも、自分に会いに来ていた。
今度もきっとそうなる。
そんなことを考えていた。
「……汐里?」
汐里は澪の声で、はっとした。
「なに?」
「今、どっか行ってたでしょ」
「そんなことない」
「うそ」
「……ごめんなさい。少し考え込んでた」
「何を考えてたの?」
汐里は少し考えてから言った。
「澪に恋人ができたら、こうやって気軽に会いに来られるのかしらって」
「……」
澪は黙った。ほんの少しの間、汐里を見つめる。
そして、ゆっくりと深呼吸をした。
「あのね」
わずかに空気が張り詰める。
「私の好きな人は……汐里。あなただよ」
汐里は目を見開き、澪を見た。
「……私?」
「そう」
「それは恋愛として?」
「たぶん、そう」
「たぶん?」
「だって、私、女の人を好きになったことないもん」
「……たしかに。その状態なら『たぶん』になるわね」
汐里は驚きと同時に、安堵した。
澪は、私のことが好き。
「それなら、澪はこれからも私の隣にいてくれるのね」
さっきまでの不安な気持ちが嘘のように消えていく。
澪はきょとんとした。
「私は一緒にいたいけど。……汐里は、その……いいの?」
「いいに決まってるじゃない」
澪は、また驚いた顔をした。
「友だちじゃなくて、恋人でも?」
「……」
汐里は一瞬考えた。
「それは、私にもよく分からないわ」
「まあ、そうだよね」
「私も女性を好きになったことはないもの」
「同じだ」
「でも、嫌じゃない」
「嫌じゃないの?」
「ええ、嫌じゃない」
汐里はそう言ったあと、恐る恐る、澪の手に触れた。
「澪がいると安心する」
「一緒にいたい」
澪は汐里の手を握り返した。
「私もだよ」
「汐里がいると安心する」
「汐里、好きだよ」
大きな瞳を潤ませながら、澪は伝えた。
「私も好きよ、澪」
汐里は澪をまっすぐ見ていた。
澪の瞳から、涙が一筋流れた。




