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第15話 汐里と澪 ―感情の海と灯台の光―

 春。


 大学のキャンパスは、新しい希望の光に溢れていた。


 新入生向けの掲示板の前には、入学したばかりの学生たちが集まっていた。

 掲示板には、履修関連、サークル勧誘、学生相談室の案内、アルバイトの募集が貼られている。


 汐里はひとり、人混みの中にいた。


「非効率ね」


 そう呟いて、掲示板の前から立ち去ろうとした時。


「何が非効率なの?」


 隣から声をかけられた。

 声のした方へ振り向くと、そこには同じ新入生らしき女子学生がいた。


 汐里よりも少し小柄なその女子学生は、軽やかなブロンドのショートヘアをしていて、毛先は赤くカラーリングされていた。カジュアルだけど、センスの良い着こなし。そして、丸く大きな瞳が印象的だった。

 手には、人間科学部の履修案内があった。


 汐里は質問に答えた。


「掲示物の配置」


「配置?」


「ええ、重要な情報が見落とされやすい位置に掲示されてる」


「人の視線は、左上から右下に流れるから」


「この掲示板は、人の意識が向きにくい場所に、大切な情報が掲示されてるわ」


「へえ」


「それと、必要な情報が散らばっている構造も問題ね」


「……構造」


 女子学生は少し黙ってから、ふふっと笑った。


 またやってしまった。


 汐里はそう思った。

 いつも、自分は人と違うところを見ている。

 それを表に出すと、変わった人と思われて距離を取られる。


「すごいね」


 女子学生は言った。


「……ありがとう」


『すごい』、『頭がいい』、『よくそんなこと思いつくね』。


 それらは、褒め言葉の形をした境界線だった。

 汐里は、女子学生が当たり障りのないことを言って、そのまま立ち去ると思っていた。


「ねえ、あなた何学部?」


「私は人間科学部一年。心理学専攻だよ」


 女子学生は離れなかった。汐里は驚きつつも答えた。


「……工学部。情報工学科」


「あ〜、違う学部かあ〜。残念」


「残念?」


「うん、同じ学部なら良かったのにって思って」


「なぜ?」


「一緒に授業とか受けられるじゃん」


 汐里は、予想外の答えが返ってきたことに驚いた。


「でも、工学部って似合うね。カッコいい」


「カッコいい?」


「うん、カッコいいよ!私、数字とかちんぷんかんぷんだから」


 そう言って、女子学生はころころと笑った。


「あなたはなぜ心理学を?」


「私、昔から感情によく振り回されちゃうんだよね」


「悲しいとか、不安とか、怒りとか。自分でも、その時は何がどうなってるのか分からなくなる」


「だから、心の仕組みを知れば少しは息がしやすくなるかなって」


 汐里は、黙って聞いていた。


 正反対だった。


 自分は、感情に飲まれることがない。いつでも、自分のことを俯瞰して見ていた。自分の気持ちも、周囲の状況も、常に冷静に分析してしまう。因果を整理して、先を予測する。

 自分のことですら、世界に存在する事象の一つとして捉えていた。

 だから、感情に飲まれるという経験をしたことがほとんどなかった。


「あなたは、私と違って世界を分解して見ていそう」


「さっきの掲示板のことも面白かった」


 女子学生は、ふふっと笑いながら言った。


 汐里は彼女の言葉にどきりとする。ふと興味が湧いた。


「……あなた、名前は?」


「私?」


 汐里に名前を聞かれて、女子学生は嬉しそうだった。


「私は、吉田澪(よしだみお)。あなたは?」


「私は、桐生汐里」


「名前までカッコいいじゃん」


「澪という名も素敵だわ。とても美しいと思う」


 澪は美しいと言われて、一瞬目を丸くした。


「ふふ、ありがと」


「ねえ、汐里って呼んでいい?」


「ええ、構わないわ」


「私のことは澪って呼んで」


「分かった。澪、よろしくね」


「うん、よろしく。汐里」



───



 二人は学部こそ違ったが、よく会うようになった。

 一緒に学食で昼食を食べたり、図書館でレポートの資料を探したり、講義の合間に中庭にあるベンチで他愛もない話をしたり。


 澪はいつも、汐里の話を最後まで聞いていた。もちろん、全てが分かる訳ではなかったし、むしろ分からないことの方が多かった。


 汐里が、ニューラルネットワークの基本的な仕組みについて話している時、澪は途中で眉間に皺を寄せていた。


「……ニューロン?脳みそのこと?」


「脳みその話ではないわ。AIなどに使われる機械学習モデルのこと」


「入力層でデータを受け取って、中間層で情報を解析し、出力層で予測や分類の結果を出す」


「……。機械がそれをするの?人間と同じじゃん」


「人間の脳をモデルにしてるから」


「人も出来事そのものに反応してる訳じゃなくて、それをどう受け取ったかで、その人が感じる感情が変わる。それと同じ?」


「認知的評価のことね」


「そう、それ」


 澪は笑った。


「汐里の学んでることと、私の学んでる心理学って、意外と共通点があるのかな」


 嬉しそうだった。


「そうかもしれないわ」


 汐里も微笑む。


「たしかに、感情を機械学習モデルの内部状態として捉える視点はなかったかも……」


 澪はまた眉間に皺を寄せた。


「また、なんか難しい」


 汐里は澪を見て、目を細めながら言った。


「あなたを褒めてるのよ」


「あなたと話していると、色々と勉強になるってこと」


「汐里」


「なに?」


「分かりにくい」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 汐里は澪といる時、自然体でいられた。それは、汐里にとって経験したことのない感覚だった。


 澪は、汐里を天才扱いしなかった。分からないことは、分からないと言い、全てを理解できなくても、分からないままに聞いた。


 分からなくても、隣にいた。


 人は理解できないものを遠ざける。

 時には否定さえする。

 だから、汐里はいつも、人の目に映る自分を、相手が理解できる形へと調整しながら過ごしていた。


 でも――


 澪といるときは、自分を調整しなくてもいい。汐里は、それが心地よかった。


 ある日、汐里は澪になんとなく尋ねた。


「澪」


「なに?」


「私の話を聞いてるとき、あなたは分からなさそうにしていることが多いと思うのだけど……聞いていて楽しいの?」


 澪はすぐに答えた。


「楽しいから聞いてるんだよ」


「……そう」


「えっと、話は難しくて分からなくても、汐里が楽しそうなのは分かる」


「それが私は楽しい」


 そう言って、笑った。


「……雑ね」


 汐里は言った。


「雑でも本当のことだもん」


 汐里は何も言えなかった。


 雑でも本当。


 その言葉は、汐里の胸の中をじんわりと温めていった。



───



 澪は時々、感情の海に沈んだ。


 出会った日に言っていたように、感情でぐちゃぐちゃになり、よく自分を見失っていた。


 理由は色々だった。


 家族のこと。

 学校のこと。

 流れていたニュースのこと。

 自分の感情を上手く扱えないこと。


 ある時、澪は泣きながら言った。


「私、面倒くさいよね」


 汐里は即答する。


「面倒ではないわ」


「でも、感情でぐちゃぐちゃになるし」


「それはあなたの状態であって、評価ではない」


 澪は、きょとんとして汐里を見た。

 そして、少し笑った。


「汐里のそういうとこ、好き」


 まだ涙目の澪が言った。

 汐里は、恥ずかしさを隠すように目を伏せた。

 そして、澪に伝えた。


「あなたは感情にとらわれることがあるけど、構造を整理すれば、ちゃんと扱える人よ」


「構造?」


「ええ。まずは状況を整理しましょう」


 汐里は、澪の身に起きていることをひとつひとつ整理していった。


 事実。

 推測。

 感情。

 あなたが背負うべきこと。

 背負わなくていいこと。


 汐里は、メモに書きながらまとめていく。いつのまにか、澪の涙は止まっていた。


「汐里、カウンセラーみたい」


「……心理学はあなたの方が専門でしょう」


「そうだった」


 澪は、まだ涙が乾ききらないまま、くすっと笑った。

 汐里は澪の話を聞き終わると、ペンを止めた。


「すごい。さっきまで、世界がぐちゃぐちゃで怖かったのに……」


 澪は言った。


「今は何が起きたのか、少し分かってきた」


「構造が分かれば、扱えるわ」


「汐里は灯台みたい」


「灯台?」


「うん、真っ暗な感情の海で光ってる」


「こっちだよって照らすみたいに」


「比喩が詩的ね」


「ロマンチストだから?」


 汐里は澪を見た。


「……冗談が言えるなら、もう大丈夫ね」


「うん、もう大丈夫。ありがとう」


 澪は、安心した表情で穏やかに笑った。


「私、汐里の見えてる世界。好きだよ」


 澪は、呟くように言った。


 汐里は、また目を少しだけ伏せた。



───



 澪が汐里に救われていたように、汐里もまた澪に救われていた。


 ある日、二人が中庭のベンチに座っていると、汐里と同じ情報工学科の男子学生が何人か歩いてきた。


「同じ学科に、なんかめちゃくちゃ美人がいるよな。黒髪で赤い眼鏡の」


「あー、桐生って人?」


「そうそう」


「何?亮介、ああいうのがタイプ?」


「タイプっていうか、めっちゃ美人だなって」


「お前、そういうのをタイプって言うんだよ」


「俺は苦手だな〜」


「分かる」


「頭良すぎて何考えてるか分かんないよな」


「それな」


「なんか冷たそうだし」


 彼らは汐里がいることに気付いていないようだった。そのまま仲間内で話しながら、汐里たちのベンチの後ろを通り過ぎて行った。


 汐里は思った。いつものこと。分からない人が分からないと言っているだけ。外見の評価も、冷たいというイメージも、彼らが勝手にラベリングしたもの。


 心の中で、そう処理した。


「汐里、大丈夫?」


 澪が声をかけてきた。


「大丈夫、とは?」


「だって、男の子たち汐里のこと適当に話してた」


「……いつものことよ」


「そうかもしれないけど」


 澪は納得がいかなさそうだった。


「だって汐里の心は泣いてるじゃん」


「……泣いてる?」


「うん」


 汐里は澪の方を向く。澪はまっすぐ汐里を見ていた。まるで、瞳の奥に隠した気持ちまで見透かすように。


「私の心が、泣いているように見えるの?」


「うん、悲しいって言ってる気がする」


「……そうかもしれない」


「なんで悲しかったの?」


「ちゃんと見てもらえなかったから……かしら」


「うん」


「いつも私の表面だけを見て判断される」


 人は説明できることだけを見る。汐里にとってそれは、優等生としての評価だった。

 でも、汐里の人間性は誰も見なかった。


「そう……。私は、悲しかったのね」


「うん」


 澪は静かに頷く。


「気づかなかったわ」


「いつものことだって、仕方のないことだって思ってた」


「汐里は先に頭で考えちゃうからね」


「考えることは悪いことではないでしょう」


「悪くないよ。私も考える汐里にいつも助けてもらってる」


「でも、汐里は時々、心を置いてけぼりにしちゃうのかも」


 汐里は黙った。澪はそっと汐里の手を取った。


「汐里の心が置いていかれてるときは、私が教えるよ」


 汐里は、重ねられた澪の手を見た。自分の手より、少し小さな手。私の心を置いてけぼりにしないようにと、繋いでくれる手。


「それなら」


「あなたが感情の海に沈んでしまいそうなときは、私が照らすわ」


 澪は一瞬驚いて、笑った。


「感情の海と、灯台の光」


 澪は呟いた。


「ふふ、詩的ね」


「気に入った?」


「ええ、気に入ったわ」


 ころころと笑う澪を見ながら、汐里は自分以外の人間と、初めてちゃんと繋がれた気がした。


 ――世界と、初めて繋がった気がした。





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